6. 入院続きだった私の小中学校生活あれこれ
あわやクラス変えの危機
小学校高学年のお勉強って一番大事なときだと思いません?
特に算数が急激に難しくなってきて、小数点や割り算、
分数や割合、比例や反比例とか、ただでさえ数字がニガテなのに、
退院してきたら授業がチンプンカンプンになってた!
たぶんテストの結果も散々だったと思う。
あれ? 私。おバカに磨きがかかった? と思った。
たぶんそれは先生も感じていて、
放課後、私だけ特別なテストがあるとかで呼び出された。
それはまるで認知症のテストみたいな?
「いくつかの数字を言われてそれを逆さまに言う」とか、
「いくつかの絵を見せられてあとから何があったか答える」とか。
ちょっと、待って待って!
なにこれ、私をバカにしてる?
というような内容だった。
終わってから、先生たちも「大丈夫そうですね」みたいなことを言ってた。
つまり。
私があまりにも授業についていけないものだから一応知能テストをしてみて
普通学級についていけるのか確認したかったみたい。
私も勉強嫌いだったからね~。
入院中まっったく勉強してなかったんだよね。
でも、こんなテストさせられて悔しくて情けなくてやっとお尻に火がついたって言うか、これはまじめに勉強しないといかんぞ!と。
それからはチョットは頑張った気がする。
でも基本のキホンのところがポッカリ抜け落ちてる気がして、
今でも割合とか小数点とかニガテ意識がある。
そこって大人になっても唯一使うところなのにね。
修学旅行はどこへ?
退院してきてまもなく小6の修学旅行だったから、
「別に行かなくてもいいや~」と思っていたのに、
友達も先生もなんだか気持ち悪いくらい優しくて、
そのやさしさにほだされて?行くことになった修学旅行。
どこに行ったんだったかな。箱根?かな、たぶん。
まったく記憶にない。
楽しかったのか楽しくなかったのかまったく覚えてない。
歩くのが大変な場所はバスの中で待ってるかバスで先回り。
だから覚えてないのも当然。
うーん、行く意味あったのかな? と、今となっては思う。
中学の修学旅行は京都、奈良。場所だけは覚えてる。
なのに中身は? これまた記憶がすっぽり抜け落ちてる。
友達もいた、好きな人もいた。
でも学校生活や行事よりも、私のココロの中はすっぽり覆われた
なにか真っ黒な負の感情に支配されていたのかもしれない。
キャーこわい。
だって思春期だもの。
いろいろ悩めるお年頃にさらに追い打ちをかける悩み事が
プラスされたんだから。仕方ないといえば仕方ない。
中学時代はまさに私の暗黒時代だったなー、と今更ながら思う。
お嬢様なの🌹?
手術してから松葉づえ生活になったので、
徒歩30分の通学路はとても歩いていけなくなった。
家族はあいにく車の免許を持っていない。
田舎なのでバスは1時間に1本あるかないかだし、
バスのあの登り口の階段が高すぎて上れないからムリ。
低床バスなんて一台もなかった。
じゃー、どうする?
我が家が選んだ答えは「TAXIで通わせる」だった。
車を持っていたとしても維持費やガソリン代でお金はかかる。
だったら必要な時にTAXIを使うのもそう変わらない。
むしろ安上がりなんじゃないか...というのが家族の見解。
実際に計算したかどうかは置いといて、
この決断はなかなかアッパレだったのでは?
そうして小5から中・高と(中高もわりと近場の学校だったので)
私は颯爽とTAXIで通学するお嬢様(風)…?になったのでした。
当事者としてはどうだったか?
そりゃー、ハズカシカッタ (〃ω〃)
特に中学や高校の最初のほうはクラスも変わるし人も変わる。
みんなの目が、
「オイオイ、TAXIで通うってどこのお嬢様だよ」って言ってるのがわかる。
でもそれも最初のうちだけで、慣れてくればそれも当たり前になり、
帰りにTAXIを呼んだことを忘れていると、
友達が「TAXI校門に来てるよー」って教えてくれたり。
でも友達を乗せたり乗りたがったりということはなかったな。
なんでだろう?みんな遠慮してたのかな?
あ、そうか、みんなは自転車通学だったからだ。
自転車…乗りたかったなー。
そうそう。
ちょっとだけ楽しかったことを思い出した。
1年間だけ吹奏楽部に入ってクラリネットをやっていたことと、
バレー部のカッコイイ佐久間くんに放課後おやつを貢いでいたこと。
そんな記憶の薄い小中学校生活でした。
私の暗黒時代については
なにか思い出したら書いてみたいと思います。