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まりもの事

みなさん、こんにちは!まりもと申します。

今回から、どうやって私が、スピリチュアルに出会ってスピリチュアルヒーリングをするようになったのかをお話しさせて頂きます。

前回の記事に軽く書きましたが15歳の有ることがきっかけで、苦しむ人生を体験する事になりました。
そこからの歩みは私にとっても原点であり、貴重な体験であったと今は確信します。
そこをお話しすることで、少しでもまりもの事を知ってもらうと共に、今悩まれている方にほんの少しでも参考になればと思い、恥を偲んで書くことにしました。
(読んでいる方にとっては気分を害する表現が有るかもしれませんが、15歳当時の私の主観をなるべくそのまま書いている部分もあります。ご了承ください。)

良ければお付き合いください。


平々凡々なそれは幸せな日々

15歳の話をする前に少し、それ以前のまりもの事を。。。

私は、所謂平々凡々の人間として14歳迄過ごしていました。
家族は、両親と祖父母、兄と妹、猫の7人と1匹と共に暮らしており、何不自由なく生活していました。
両親が共働きという事もあり小さい時には、祖父母と過ごす事が多く、良く祖父の膝の上に座ってTVを観るのが好きでした。特に祖母がそれはそれは可愛がってくれて、私が母親が居ないと泣いてしまうと一生懸命あやしてくれたり、耳掃除を膝枕してやってくれたり、祖母が漕ぐ自転車の後ろに乗り良く児童館など遊びに連れていってくれました。
父親も毎年、夏は遠くにキャンプ、冬はスキー旅行と様々な所に連れて行ってくれて家族サービスをしてくれました。
このように育っていたので、当時の私は、悩みという悩みは、身長が低いとかバレンタインデーにチョコレートが貰えるか?部活のレギュラーを取れるのか?とかそんなところでしたね笑

中学の成績は中の上程度で、まあ地区で2番目程度の進学校に頑張れば受かるかなという感じだったのでそこを目指して、中学3年に入ってから、友達に誘われて夏休みから進学塾に通って部活に勉強に恋に中学生活を満喫していました。

その当時は、大きな目標みたいなものも無く、普通に高校に入りそれなりの大学に進学して、普通に就職して運命の人と出逢って結婚して普通に家庭を持つんだろうなーって思っており、そんなもんだろうと自分の人生を思い描いていました。

その普通が、15歳の誕生日に脆くも。。。

15歳の誕生日の衝撃(高校浪人へ)

1995年1月17日(年齢がバレますが、年齢は人が決めた記号という事で笑)

その日は朝から高熱を出して、学校を休んでいました。
TVのニュース映像に衝撃を受けて、家族で見入ってました。
倒れている高速道路の高架、大きな煙が立ち上る住宅街、無残に倒壊しているビルや家屋の数々、戦後日本に起こった最大の地震に日本の安全神話が崩れ去ったあの日、私は、学年初のインフルエンザと診断されました。

中学3年、3学期初期、受験生にとって追い込みの時期でまだ私立高校の受験が続いており、本番の公立高校の受験日まで時間がありません。

この時期のインフルエンザは、半ばタブーであり、クラスでも迷惑がられるのは必須。
正月返上で冬季講習に参加していたのが祟ったのかと、なんとも居たたまれない気持ちで高熱にうなされて居ました。

初のインフルエンザでの40℃近い高熱に幻覚を見される程で、熱が下がった後もその後遺症で満足に起きれなく、学校を継続して休んでいました。

なんとか行かなければと、ふらふらの身体で半日だけの土曜日に登校した時に、自分が学級委員長に選出された事を知ります。。。

しかし、教室に居ても、ふらふらしててまともに授業に集中できない、辛くて辛くて学校や人と居れない。なぜかそんな身体になってしまい、次の週から再び学校に行けなくなりました。
学級委員長なのに。。。

母親がいよいよこれはと思い、大学病院に連れて行き、くだされた診断は「自律神経失調症」でした。
聞きなれない病名に精神病の一種かとも思いましたが、調べてみるとストレスや様々な原因で自律神経が乱れてしまう病気で難治性、様々な不定愁訴が付きまとい、人によって症状が違う、これが原因で死に至る例もあるとの事。
大量に出された安定剤を含む薬の数々。。。

普通の中学生として健全に生きていた私にとっては、どうしてこうなったのか理解出来ず、重たい身体をベッドに横たえるしか出来ない日々。。。

それでも私立の受験は、受けなくてはならず、でもまともには受けられないので保健室で受けさせてもらい、その時に久しぶりに見る同級生には何とも言えない表情で見られるはで、恥ずかしさと悔しさと辛さと苦しさに苛まれていました。

「俺が何をしたっていうんだろう?」
「そんなに悪い事をしたのか?」
「何で俺だけが・・」
と例に漏れず自問自答が渦巻き、徐々に心が闇に。。。

それもその筈、当時の世間的な価値観や私にとっては、普通に学校に行くことが全てであり、それが出来ない者は社会からの落ちこぼれというものが当たり前にあったので、自分の状況は到底受け入れがたいものでした。

そこからというもの、誕生日以前の自分とは全くの別人になったような思考回路になっていました。
『何でこんな想いをしてまで勉強をしなくてはならないのか?』
『何で普通に高校に行かなければならないのか?』
『何でみんなと一緒でなくてはならないのか?』
という想いが強くなり、周りの大人、特に母親にぶつけていました。

しかし当時の母親も普通に生きる事がすべてだと思って居た人なので、息子が急にそんな哲学的な事を問いて来ても、もちろん答えられません。

「そういうものなのよ」
「何でも良いからせめて高校だけでも出て頂戴」

という答えにもなっていないものを言われて私は更に思想がエスカレート、意味の分からない物を押し付けるオトナに対して社会に対しての不信、怒りの塊になっていました。

今思えば、自分の状況を受け止められなかった自分の怒りを何かに転嫁、何かのせいにしたかったのでしょうね。そうしないと自分を保てなかったんだと思います。(お恥ずかしい。。)

でもそのお蔭で、
「世間の当たり前が本当に当たり前なのか?つーか当たり前って何?」
という一見面倒くさい奴の視点を持てたのだと思って居ます。
ここが、本質は何なのか?を意識する視点の原点となっています。

とにかくこの当時は世界全てが敵であり傷付けてくる存在、人は自分の事を馬鹿にしている、誰も自分の想いを聞いてくれないと立派な被害者意識の塊となっており、他責の権化と化していました。
八つ当たりも酷く、母親や物、気に入らない事が有ると直ぐにキレる、壁に穴をあけてしまう事もしばしば。。。。(本当にすいません。。。。)

自殺願望も有り、
「自分なんて必要無い」
「自分なんていなくなっても構わない」
と何度か実行しようと思いましたがそんな勇気もなく無事に今に至ります苦笑

しかし、そんな私にも気にかけてくれる人達は居て、塾の先生はわざわざ家まで尋ねてくれたり(学校の担任はなんにもでしたが。。。)
部活や塾の友達が何度も家に来てくれたり何とか外に引っ張りだそうと何度もアプローチしてくれていました。
道を踏み外さなかったのは、この方々のお蔭です当時はわがままばかりで多大な迷惑をかけたのにそれでも付き合ってくれたこと感謝しかありません涙

しかし、そんな状況でまともに家で勉強も出来る訳は無く、第一志望校の公立高校は見事に不合格、ここに人生初の挫折が完成しました。

ただ、推薦入試で受けていた私立高校は全て受かっていたので、家族総出の説得も有り私立高校に通う事になりました。

そこは、電車で30分のところの高校でマンモス校、まだまだ身体も精神状態(そもそも何で高校に行くのか答えが出ていない)もボロボロでこの環境は非常に厳しく、入学式から行きたくなくてしょうが無かったです。
しかし、高い入学金と授業料、制服代などを出して貰っている手前、行くしかないと奮い立たせ通いましたが、やはりまともに教室で授業を受ける事が辛くて、お腹が痛くなる、息が苦しくなる、動悸が激しくなるという症状にさいなまれ、夜には、行きたくなさすぎて眠れず、本当に申し訳ないんですが地震が起きて学校が崩れれば良いと身勝手な思考をして朝がこなければ良いと思って居ました。

3日目の朝、何とか朝起きて、準備をしましたが、どうしてもお腹が痛くて休むことに。
母はどうにか行って欲しいと、私に小言を言いながら渋々学校に連絡しました、
そんな事言われてもどうしても行きたくないというこの凄まじい拒否感はどうすれば良いんだ?と思っていたら、全身が痺れだして力が入らなくなり動けなくなってしまいました。

慌てて、母親が救急車を呼んで、人生初の救急搬送されることになります。
大学病院に着くなり嘔吐するも朝から何もまともに食べておらずほとんど出ない。

そのまま入院となりました。診断は脱水との事でした。思えば、高校入学してからまともに食事を取れていませんでした。
それから詳しい検査をするという事で、朝、夕の採血や胃カメラ実施。
当時の胃カメラは、まだ太いケーブルを口から部分麻酔で入れていくのですが、それが15の私には辛くて辛くて何度えずいても構わずケーブルを奥に挿し入れられ、食道を這いずり、胃に到達するのが分かるあの感じ、地獄でした・・・。

結果は急性胃腸炎。
何の事はないストレスが招いた結果でした。
この入院から両親、特に母親が何かに気付いたのか諦めたのか、学校に行って欲しいと言わなくなりました。それどころか、学校どうする?一応休学にしているけどと初めて自分に選択を委ねてくれました。
この時には、不思議と何かホッとしたというか肩の荷が降りた感じがしました。やっと自分の気持ちが通じた感じがしてとても嬉しかったです。

退院してから自宅で過ごすようになるのですが、そこからは前向きに向き合うようになりました。

自分で自立神経失調症治療法の本を買って実践していったり、この時に人生や精神世界の本をむさぼる様に読むようになりました。

とにかく自分が何故こうなったのか?世界とは?人生とは?運命とは?どうしたら苦しみから解放されるのか?を知りたかった。
その答えを求めて毎日、図書館に通い詰めました。
後で知るのですが、司書さんの間で有名になっていたようです。
学生のはずの自分が学校行かずに図書館に居ても何も言わずに見守ってくれた司書さん達に感謝です。

その際に傾倒したのが潜在意識の世界、成功法則、所謂ニューソート系の思想でした。
特にJ.マーフィー氏の「眠りながら成功する」は何度も何度もボロボロになるまでマーカーも引いて読みました。

見えない世界の存在、自分の可能性、意識の力などを使って人生を思い通りに変化させていくという思想は当時の私の希望となりスピリチュアルとの出逢いでもあったと思います。

そんな日を送り、徐々に心身共に少しずつ上向きになって来た、ある日、夏休み中に地元のブドウ園でバイトしないかとずっと気にかけてくれていた親友に誘われて、人生初のアルバイトをすることになりました。

猛暑の中、雇い主の方やバイトの先輩達、友達のお蔭でなんとか勤め上げて、初めて貰った大金でずっとやりたかった空手に通う事にしました。

空手の先生は自分の状況を理解してくれて、いつも稽古後に長時間励ますように話してくれました。
そんな中徐々に私は、もう一度高校受験に挑戦して、高校に通いたいと思うようになりました。
高校浪人にはなってしまいますが、自分の人生を立て直すには、やはり挫折した高校進学は避けられないと感じて居ました。

そこで、母親にその旨を伝えると、それは喜んで、涙を流して応援すると言ってくれました。
その当時は、もう自分に何も言わなくなっていましたが、内心は高校に戻って欲しいと思って居たんでしょう。それに気付き、胸が締め付けられました。

休学していた私立を正式に退学して、公立高校を目指します。流石に友達や同級生が多く通う元々の志望校は受験しずらかったので、誰も知る人が居ない学区外の公立高校に決めました。

また当時、数々の不定愁訴や精神の安定の為の薬を大量に飲んでいましたが、特に睡眠薬は飲んで寝ると次の日が最悪でボーっとしてふわふわした感じがしてまともに考えられない動けないと成っていたため。
思い切って、全て飲むのを止めようと決め薬を一切飲まなくなりました。
その事も母親は受け入れてくれて、薬に頼り過ぎないほうが良い、症状が出るのは薬のせいかもしれないと言ってくれました。
薬至上主義の感じがあった母親がこんな事を言うなんて、驚いた事を覚えています。

自分の設定が変化した事で、世界線が変わったのかもしれませんね。

そして、自宅で高校受験に向けて勉強を開始しました。
私は、正式に「高校浪人」となりました。

想えばこの時点で普通に生きる事はもう考えなくなっていました。むしろ普通でない自分に変な誇りが芽生えていたと思います笑

長くなりました。。。

15歳の事だけでこんなに長く書くことになるとは思いませんでした💦

私の中で、人生においてもっとも大きなターニングポイントとなっており、原点になっているため書いていて端折れないなと感じこんな感じになってしまいました。

次回からはペースを上げて、どうして本格的にスピリチュアルに目覚めたのかをきちんとお話ししますので、これに懲りずにお付き合いください。

ここまで読んでくださった方に良い風が吹きますよう。。

ありがとうございました!



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