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つながる茶屋のもうひとつの話

こんにちは。つながる茶屋の樋口です。

前回の投稿で「45歳起業の偶然」のお話をしましょうか、と言いました。わたしも45歳となり、それなりに長く生きました。折角なのでこの機会に、私の家族の物語を振り返ってみたくなりました。少し長くなりますが、お付き合い願えますでしょうか。

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我が家は祖父母、両親と子どもたちという三世代同居の家庭で、両親が若かった頃はずっと勤めに出て留守がちだったため、わたしは祖父母と過ごす時間が長く、絵を描いたり本を読んだりするのが好きなインドアな子どもでした。

家の間取りを空想して書き出してみたり、物語の主人公ごっこと称して庭をフラフラしたりする時間が楽しく、緩やかな時間が流れていました。学校はどちらかというと好きなほうではなく、家でゆっくりできる方を心地よく感じていました。

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祖父はわたしのために庭の木にブランコをつくってくれたり、お腹が空くとお味噌をまぶした手のひらサイズのラグビーボール型のちいさなおにぎりをつくってくれました。ちいさなラグビーボールがみっつ、ちいさなお皿に並んでいました。それがたまらなくおいしかったです。夕食前のささやかな楽しみ。わたしの中で祖父は「絶対にNOと言わない男」です。何をお願いしても答えは「YES」。笑顔で「YES」。ただ座っていてもインテリジェンスを感じる祖父が、私は大好きでした。

わたしの祖父は地元で色々なプロジェクトに関わっていた人で、あちこちにある記念碑の一番前に祖父の名前が書いてあるというのが、子どもながらになんだか誇らしかったものです。水彩画が好きで、風景画を中心に何時も絵筆をもち、色紙に絵をかいては人に見せたり差し上げるのを楽しんでいました。おじいちゃんの絵を描いている時間は静かでクリエイティブで、共有していると安心できる素敵な時間でした。

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祖母は畑で取れた旬の野菜をリヤカーに乗せて街をあるきまわり、完売して帰ってくるスーパーおばあちゃんでした。よく売れるようで、空になったリヤカーを押して帰宅するのでした。野菜作りは面白い、面白い、といつも言っていました。野菜の成長が楽しみで可愛いのだと。戦前は尋常小学校で教師をしていた祖母。教え子を育てるように野菜に向き合っていたのでしょうか。老後は教え子さん達との交流が楽しかったようで、お手紙や電話などでやりとりをしては嬉しそうにしていました。生徒さんが尋ねてこられることもありました。わたしの知らない先生の顔。目を細めるおばあちゃんをそばで眺めては、わたしも幸せな気持ちになったものでした。

わたしは祖父母と一緒にベッドで寝ていました。夏は蚊帳の中。冬は祖母がわたしの足を両ももに挟んで暖めてくれました。わたしがつめたいお布団に入ることがないように、自分の体温で温めてからわたしに中にはいるように促すのでした。

フクロウの鳴き声や虫の鳴き声に一緒に耳をすませました。本を読んでくれたあとに毎晩ひとつ、祖母はお話をしてくれました。昔話や戦時中の話、戦後の混乱期の話、先生時代の話、野菜の話、他にもいろんなお話を。私は目を瞑りながら頭の中にはその風景をくり広げ、真剣に聞き入っています。お話が途切れ出すと間もなくして「すー、すー」と祖母の寝息が聞こえてきます。眠くてたまらない祖母を起こし、お話の続きをねだりました。祖母は再び話し始めるのですが・・毎晩どちらともなく夢の中に落ちてゆくのでした。

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わたしの実家はその昔、使用人が居るような地主の家であったそうです。噂かホントか祖父には乳母がいたと聞いています。そんな田舎の本家に嫁ぎ、教師として働いていた祖母。それが戦後の農地改革で、好きな教師の道を捨て、今度は自らが畑に出ることを決めるのです。自分たちで耕していることが証明できなければ、小作人に代々守ってきた土地が分配されてしまいます。夫はまだ戦地にいます。祖母は運命と受けとめ、夫の帰りを待ちながらこつこつと働いてきました。

祖母の夫は戦死しました。わたしのおじいちゃんは夫の弟。戦地から戻った夫の弟であるおじいちゃんと祖母は結婚をします。本家を継ぐ宿命のある当時の日本では致し方ないことでした。そしてわたしの父や伯母が産まれました。夫となった人は戦地から戻ると地域のために働くようになりました。農地はほぼ祖母1人の背中に乗ってきたのです。戦時中には都会からの親戚縁者ら疎開者を守り、安全な場所に送り返すまでを見届け、職の変化・生活の変化を受け入れてきた祖母。実は祖母はすごい人なのではないか、と、ふたりが逝去した今にふと思うのです。

ちなみに、わたしの真理子といえ名前は祖母がつけてくれました。私が産まれる前から、女の子であれば「真理子」。一生を通して真理(しんり)を貫く子であるようにと、願いをこめてつけてくれたそうです。わたしはこの名前が最近好きになりました。

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これらの話から何が言いたいかと言うと、田舎暮らしで祖父母の存在感がわりと強めの家庭であったということなんです。小さいころは母の手作りの毛糸の洋服をきせてもらったりはしたものの、両親はいつも忙しく働いていました。父は夜中から夜遅くまで勤めに出ており、休日と朝晩は自宅のお米作りに精を出し、夕食をとるとその日の作業を済ませてから寝るという生活を送っていました。母は母の姉夫婦が興したニットの会社で洋服をつくっていました。夕食時は4人の大人が中心となり現状や明日の打ち合わせ、今後の見通しなど仕事の話をしていました。自営業(農業)だったこともあるでしょう。私はその話を聞いているのが好きでした。話したいことがあれば子どもたちは「あのね~あのね~」と発信するような賑やかな食卓風景がそこにはありました。

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母のすごいところ。3世代同居により大変なこともあったようですが、祖父母を最期まで看取ったことがあります。時に母に対して厳しい姿勢を見せた祖母でしたが、最期は「おかあさん、おかあさん」と子どものように呼ぶ祖母のために毎日施設に顔をだし、温かく優しく接していました。父が、長いエプロンをつけた高齢の祖父に食事をさせている姿などが脳裏に焼き付いています。祖母、祖父の順に送り出すと前後して今度は孫が生まれます。常に愛情の塊をわたしたちに向けてくれている母。長い休みは孫たちを預かり、育児に疲れたわたしにやすみをくれました。すべてを受け入れ愛情をそそぎ、家族のために生きる母。そんな姿を見ながらわたしたちは大人になってもすくすくと育つことができました。

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そして。そんな日々にある変化が訪れたのは約20年以上前の何気ない日常からはじまります。母の得意料理として、大豆の煮豆が食卓にのぼることがありました。その煮豆は、茶色く煮絡められつやつやとして、噛むと柔らかさのなかに歯ごたえが残り、甘辛く、それはそれはおいしい味がしました。が、当時のわたしには見慣れた食卓の1品でしかなく、地味な見た目からあまり食欲をそそるものではありませんでした。「一度にたくさん煮るとおいしいから」と母は大鍋で作っては、人におすそ分けをしていたようです。

すると、大豆を水に浸す戻し方が独特なのか、歯ごたえの残るその煮豆はおすそ分けがつながり、つながり、販売してみないか?というお声がどこからかかかったようです。そのとき母は45歳の主婦です。何もわからないまま見よう見まねで販売用プラケースを買い、煮豆をつめ、店頭まで運んでもらいました。すると、購入した人々から「樋口さんの煮豆がほしい」とお問い合わせが入るようになり、納品数も徐々に増えては日々完売するという、本人もびっくりの生活サイクルに突入することになるのです。より美味しい煮豆を作ろうとレシピを考案し、母は手探りで納品を続けるようになりました。保健所の許可をとり、父と小さな加工場をつくり、それはささやかに始められました。「樋口さんの煮豆はもうないの」とがっかりして帰られるお客様がひとりもいないように準備をするが、やはり売り切れる。その繰り返しをしながら、母は加工のノウハウを独学で、多くの方々の力をお借りしながら身につけていきました。

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その頃になると商標を立てた方がいいということで、わたしの知らぬ間に「おっかちゃん漬け」という…なんとも…(ちなみにわたしは一度も母をおっかちゃん、いや、おかあちゃんとさえ呼んだことは無い)、あえて田舎さを売り出すようなネーミングに、わたしは絶句(!)したものでした。元々父と友人だった現五泉市長が自らネーミングし、木板に市長自ら筆をとり「おっかちゃん漬け」と毛筆で黒々と力強く書いた木製の看板が、加工場の入口に取り付けられていたのを見た暁には「お、おぉ・・・」。ありがたいような複雑なような。

なぜ。よりによっておっかちゃん漬けなの。おしゃれ感ほしかった・・・・   (真理子、心の叫び)

わたしは既に神奈川にいたため、事後決定を聞いたような塩梅で「ああ( ⑉´ᯅ`⑉ )なかなかしぶめだねぇ」などというのが精一杯で、いやはやとにかく"こってこて"の「おっかちゃん漬け」はこうしてスタートをきったのです。

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おっかちゃん漬けは旬の野菜を使った漬物と惣菜が売りでした。特に茄子の漬け物は母が昔から作っていたもので、小ぶりの茄子を色鮮やかに浅漬け風に漬ける独自の製法によって、煮豆と並び人気商品になりました。「樋口さんの茄子漬けがほしい」というお客様の声により、販路も市内から市外へと拡大していくのです。

そして、おっかちゃん漬けは徐々にレシピが増え、安定の供給を図るため母の姉や従姉妹に手伝って頂きながら現在も生産を続けています。これまでの母は無我夢中で走り続けてきたといいます。面白くて仕方がなかったとも。わたしの弟にも子どもが生まれ、祖母として孫たちの世話をしながらも加工はやめることはなく、太くなったり細くなったりと形を変えながら軸はぶらさずに続けてきました。

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そんな母にある日病魔が襲います。その日外来診察室には父母とわたしの3人がいました。わたしたちは医師に告げられました。母がステージ4のがんであること。腹部に星のようにがん細胞が散りばめられています。と。

めのまえに星が飛びました。

父母の横で、わたしはしっかりしなければと。その時の母がとても印象的でした。狼狽する父の横で母は「さて、仕事をどうしよう」と。あちこちに連絡をとり、段取りを進めていました。父はその場で今年の仕事は縮小し、母との闘病に備えることを母に約束していました。

そのときに、わたしが考えていたこと。母が生きているうちにいろいろ聞いておかないといけない。1代で築いたこのがんばりを、やすやすとなくしてしまう訳にはいかない。決心に近いものでありました。

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抗がん剤治療の末、なんと母のガンは「完治」しました。闘病の話は省略しますが、きれいさっぱり跡形もなくなったそうで、あとは経過観察だけでよいことの医師の太鼓判をいただきました。まるで夢のような話です。

これは神様が母に「あなたにはまだやることがある」と伝えたかったのだとわたしは解釈しました。家族にも、仕事にも。母は奇跡的な回復を遂げ、今に至ります。

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そして娘(わたし)の話も少し。わりと最近まで、自分自身働いていたこともあり母の事業について当事者意識がまるでなく「忙しそうだなぁ」と、どこか他人事でした。しかし、頭のなかでは「母ってすごいぞ?」と感じ取ってもいました。弟の奥さんが仕事を持っているので弟夫婦が継ぐ予定がなくなったとき、はじめて「あ、これ、わたしがやろうかな」とふんわり感じたことを今でも覚えています。それが歳を重ねる事に年々リアルになり、徐々に決意が固まっていきました。でも、ネーミングが特徴的すぎると感じているのと、継続する意志が自分にあるのかを問いかけ続け、「欲しいけど欲しくない」のような曖昧な時期をすごしてきました。

→1枚の絵
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それとは別に、今までやりがいをもち取り組んできた福祉的な仕事について、自分なりに考えをもつようになっていました。さて、どうしたら現生活との融合が可能になるだろう…と考え始めました。今から数年前のことです。企画書をつくり識者に聞いて頂いたりし始めたのがこの頃です。

プレゼンテーション
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悔しさをバネに
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たくさんの方々の知恵をお借りしながら、自分の夢と母の事業との融合を図る方法を探り始めました。頭の中を整理しながら漠然とした理想を具現化していくためには何からどうしたらいいんだろう。

毎日考えます。調理師免許はあるといえわたしは料理が上手いわけではないし、日々お漬物をつけるのは多分得意なほうではない。毎日調理に明け暮れる生活はたぶんできない。一方で、こつこつと積み上げられたささやかでも生まれた文化を無下にはしたくない。

大きなヒントをもらったパロル
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わたしはまず「場所が欲しい」と考えました。物件をたくさん見せていただきました。しかし、その五坪を確保することが出来ない。己の力の無さを痛感するばかりでした。

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具現化することの難しさに断念しかけていたその頃、レンタルキッチンをお借りしてお店をプレオープンできる方法があると、友人からあるオフィスをご紹介をいただきました。あの時は、天にも登る喜びでした。本当に嬉しかったです。

場所ができたよ!

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つながる茶屋 はじめの一歩https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=657997801245991&id=100011073311554

スペシャルサンクス
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まずはできることから。いっこずつ。手を貸してくださる方々と一緒に続けられる方法を考えてみよう。

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「いまできることからはじめる」がメインテーマにきまるまで、腹落ちできるまで時間はかかりましたがぶれなさは獲得できました。

まずは、地域の美味しいものやものづくりが得意な人の作品をご紹介するかたちで、つながる茶屋の立案となりました。ものと人がつながる場をつくりたいと思ったのです。ただ盛り込みすぎるキャパシティはないこともわかり、試行錯誤の末、シンプルに考えてみようと。母の味を世に出すには家族の協力なくしては始まりません。実家と二人三脚でつながる茶屋の開店にむけて準備を進めていきます。その1品ができ上がるために、食材を調達します。食材はどのように出来ているのか?生産者さんの顔が見えるのです。この感動は言葉ではいい表せないものでした。他人事だったことが自分事になったとき、視野がぐんと変わったのです。

ワロスロードカフェイベント2/1(金)19:30~21:30 ※若干空きあります。

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手探りはまだまだ続いていますが、繰り返しながらブラッシュアップしていくのが目下の目標です。人がつながり、居場所がつながり、食をつなげる。家族の歴史をつなげる。いのちをつなげる。

おっかちゃん漬けっていう名前は変更してもいいとの許可はいただきました。さて、どうしたものか。

いい名前、つけたいなぁ。

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つながる茶屋。これからわたしのライフワークとして取り組もうとしています。伸ばしたりちぢめたりまるめてみたりしながら、グレイヘアになってもわたしの居場所であり、続けていられるものを家族からつないでいこうと。そうわたしは’真理子’ですから。家族の歴史を遡りたくなったのも、今のタイミングだったからかな。

つながる茶屋をよろしくお願いいたします。


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