「救われる」の正体をしりたい
「救われた」という感覚に救われてきた。
それは、わたしにとって、とても大切な感覚。
「救われる」というからには、どこかに苦境があって、そこから引っ張りあげられる状態をイメージする。
わたしは苦しんでいたのだろうか。
苦しんでいたかもしれない。
生きることは、とてつもなく簡単で、すこし、難しい。
平和な時代に生まれたわたしが、ただ生き残るのは簡単だ。不慮のなにかに巻き込まれなければ生きていける。それはわたしの力の及ばないことで、するべきことはなにもない。
けれども、ものごとはそんなに単純ではなく、一定の幸せを享受して簡単に生きていけることがあたりまえになれば、生きることはまた、難しくなる。
過去を振り返ると、苦しんだ記憶が蘇ってくる。不幸だったと言いたいわけではない。ずっとそんな時間を過ごしてきたわけでもない。幸せな記憶をたくさん持っているし、わたしがわたしであることに満足もしている。それでも、あるときに苦しかった自分がいたことはたしかで、どうしても抜け出せないそのときどきを、必死で生きてきた自分がいることもやっぱりたしかだ。
わたしは、言葉に、存在に、そしてなにかに、救われてきたと思う。
それは、あるとき突然、であってしまうもの。
期待なんかしていなかったのに、突然、救われてしまう。
心臓にすこしだけ多く空気が入り込む。
目の縁に溜まりきらなくなった涙が溢れてこぼれる。
簡単に救われてなんかなるものか、とどこかで意地をはっていた心が、おとなしくしぼんでいく。
そこに苦しみがあったことに、救われてはじめて気がつく。
そういう瞬間がときどき予兆もなくおとずれて、透きとおった水をそそいでいく。自然の原理に反して、その水のおかげで松明のような火が灯る。
わたしはその瞬間に、その感覚に、救われてきたと思う。
わたしは、その、正体が知りたい。