物語をわたしのからだに
" 何があれば、生きていけますか。"
そう、問われた気がした。
この文章は、kanako yamazakiが執筆した小説「唇と杏と宇宙人と。」に寄せる思いを綴ったものです。
何があれば、生きていけるか。
その問いに答えを出すのは、きっと容易なことではない。
なぜならそれは、自覚すらできないままに出会ってしまうものかもしれないから。
自分の内側や日常に目をこらせば、たしかに答えらしいものは、見つかる。 愛されたいとか、信頼できる人といたいとか、陽の光を浴びていたいとか、ひたすらに本を読んでいたいとか、それらに感動していたいとか。
もちろん、愛の形だってひとつではない。信頼なんて一口で語れるものではない。太陽の下でいったい何を感じているかとか、本を読むことの感動はどこにあるかとか、もっと細部に目を凝らして、考えてみることはできる。そうすればきっと答えは見つかる。答えだと信じることはできる。
でも、本当に"生きていける"と感じるとき、 それは言葉で説明できるようなものではないんだろう。 わかれば苦労なんかしないのに、出会うまで自覚できないそれを、正確に求めることすらできない。
そんなつもりはなかったのにいつの間にかそれを自分の中に取り込んで、 ある種自分勝手に、生きるための養分にしていく。 その養分を求めて、それに出会えそうな場所を、確定的ではないその場所を、訪ね歩く。
私は一度、いや、何度も、そうやって物語に救われてきたから、
きっと、物語を求め続けている。
生きているという感覚は、心臓が動いているだけで得られるものではない。 そしてこれは、その感覚を、五感で感じさせてくれるような物語。
"多分まだ僕は生きていける。"
だって、僕がそう感じたとき、なんだか私も生きていける気がしたのだ。
息を吸った。
僕がそれを吸い込んだとき。
僕が無意識にその体に取りこんだものを、私もきっとすこしだけ私の中に取り込んだ。
そして、その不思議な夜と彼女は私の一部になる。