「ぐりとぐら」ってこんな話だったっけ?忘れ去っている絵本の記憶
幼い頃、何度も読んだはずの絵本も、自分の子どもが生まれ読み聞かせをするようになることでもなければ、案外そのストーリーは忘れているもの。
私にとって「ぐりとぐら」は完全にそれで、この一年ほど、娘が毎晩のように「読んで」とせがむようになるまでは、「ぐりとぐらはお料理好きののねずみ」という情報以外はまるで頭に残っていなかった。青と赤のお洋服を着ているけれど、いったいどっちが何色だっただろうということすら曖昧だった。(ちなみに、ぐりが青、ぐらが赤ね。)
だから、「ぐりとぐら」を久しぶりに手に取り、しっかり話を読み進めていったときの驚きはわりと大きかった。どこから出現したかもわからない大きなたまご、それでカステラを作ろうとせっせと準備をするのねずみ2匹、カステラの香りを嗅ぎつけてやってくる森の動物たちのバラエティの豊かさ(くまやうさぎはわかるとて、ワニにフラミンゴ、ライオンまで!)。こんな話だったっけ?と。
しかし、そんな絵本の世界ならではのちぐはぐさはなんともいえない魅力を醸し、こどもの心を掴んで離さない。シンプルで美しい絵柄と、リズミカルで心地のいい言葉の並び。ぐりとぐらの作者である中川李枝子さん(作)と山脇百合子さん(絵)は実の姉妹であったということもあってか、言葉の調子やテンポから伝わる文章の色というものが、これでもかというくらい絵と重なりあっているように感じられる。
何度でもその世界に浸りたがる3歳の娘は、最近おろした彼女専用のエプロン、そして一緒にお菓子作りをしようと取り出したあわだてきを見て、「ぐりぐら!」と声をあげる。そんな時、文字通り「どっぷり浸かる」ことを難なくこなし、ありとあらゆる情報を自分のものにしてゆく子どもにとっての絵本という存在の偉大さを知る。
フランスに暮らしながらも(しかも日本の本を入手するのが難しい地方都市)、わが家には比較的多くの絵本がある方だと思う。幼児教育を専門にしてきたという私自身の経験も手伝い、「こどもの言語教育には絵本がマスト!」と、半ば強迫観念に近い思いに掻き立てられ、一年に一度程度、オンラインの古本屋さんで絵本を大量購入するからだ。絵本は日本国内の友人宅へ届くように手配し、その後こちらへ送ってもらうという作業をしている。(お手間のお礼にと、友人にはこちらの味や香りが詰まったフランス便を送っている。)加えて、昨年は3年ぶりに日本に一時帰国を果たしたので、連日のように古本屋や本屋巡りを楽しんだ。
そんなわけで、わが家の本棚には「ぐりとぐら」シリーズは5冊ほど、そのほかの絵本もまぁまぁの種類や数が並んでいる。暇があれば新たな絵本もパラパラと繰る娘だが、「寝る前の絵本は絶対にこれ!」というお気に入りが見つかると、軽く半年以上は同じレパートリーに固定される。
こうなると「あまり数が多くても意味はないのでは?」と言う声もあるかもしれないが、私はそうは思わない。この「お気に入りの数冊」だって、そもそもの数がないことには見つからないのだ。いくら親が厳選して「この10冊を揃えておけばいいでしょう」と用意してあげても、子どもはその10冊の中で「あえて好きなものはこれ」という本は見つけるかもしれないが、半年間読み続けてもまだまだ飽きることがないほどのお気に入りの本が見つかるかは疑問だ。
オンラインで一斉注文した本などは、私も内容を把握せずに購入したものも多い。そんなわけで、日々絵本を手に取りながら、「これってこんなお話だったのかぁ、案外ふかいなぁ」とか「この絵本はよく読んでいたと思うけど、こんなどうしようもないおちだったっけ?」とか、「む、これは2025年の今、コンプライアンス的にアウトだなぁとか」とか、37歳になった今もさまざまな発見をしている。
個人的に発見が多くおもしろいなぁと感じるものは昆虫図鑑かな。そしていつも昆虫図鑑を眺めながら思うのは、「フランスでは、日本にいるような"虫博士"や"電車博士"的な存在のこどもの数が圧倒的に少ないな」ということなのだけど、それについてはまたどこかで考えてみよう。
さて、そろそろ幼稚園へ娘をお迎えに行こう。日本のみなさんはおやすみなさいですね。ここまで読んでいただきありがとうございます。今日という日が、みなさまにとって心穏やかな1日だったことを願います。