居場所論

前回、『ママ友論』を書いたものの、
気持ち的に消化不良のままだった。
本当はもっと言いたいことがあるのに
いい人に見られたくて何重ものオブラートに包み
きれいにまとめすぎた気がする。
noteにどこまで自分をさらけだしていいのか。
私には調整と覚悟が足りていない。

私がママ友に求めていたのは
自分を認めてくれる居場所だった。
その居場所とは
お互いの考えや気持ちを尊重したり
美味しいものを一緒に食べて美味しいねと言ったりして
共感し合える関係性のことだ。

なかには、愚痴や悪口で発生する関係性というのもある。
共通の敵がいれば、人は簡単に一致団結することができる。
でもそれは居場所というより『プロジェクト』みたいなもので
敵が去ったあとは、だいたい解散する。

居場所には、お互いの気遣いも必要だ。
例えば自分の話を聞いてもらうのはうれしいことだけれど
自分の話をし続けてしまうと
聞かされ続ける相手はHPが削られ、疲れてくる。
(話術に長けていて、ずっと話を聞いていられる人もいるが、それは特例)
また、自分への褒め言葉は無限に聞いていられる一方で
他の誰かを褒めるには、自分自身の心の余裕などのアイテムも必要だ。

そういった理想の関係性を保つには
話のボリューム(テキスト量)、
内容の濃淡、
アクティビティ(運転手や集金担当)など
さまざまな場面でバランスを取り、
俯瞰したとき、50:50になるよう努めなくてはならない。

ママ友が欲しかったけれど、結局出会えなかった理由には
その『関係性のバランス』が
とても崩れやすいものだから、ということがある。

まず、すぐに友達になれそうな人が見つかったとしたら
そこは将来的な居場所にはなりにくいかもしれない。
出会ってすぐに優しくしてくれる人というのは
宗教の勧誘だったり、何かを売りつけたい可能性が大だ。

また、少しずつ仲良くなった人でも気を抜いてはいけない。
息子の幼稚園時代のこと。
我が家に遊びにきてくれることになったお母さんがいた。
とても嬉しくてお茶やランチを用意して待っていたところ
子供達が幼稚園に行っている数時間、
彼女は我が家のリビングで
とあるお母さん(→私の知らない人)の悪口を延々と言い続けた。
冷めていくパスタ。
その悪口のサンドバッグ相手が私である必要はなかったし、
その後、彼女と会うこともなかった。
新入りと仲良くしてくれる余地がある人にも、
それなりに原因があって居場所がないのかもしれない。

ママ友に限らず、
県外出身の転勤妻が集まるマンションでも失敗したことがある。
結婚が早かったため、
どこに行っても最年少だった私は
色々と引き受けすぎた結果
毎週火曜日に安くなるスーパーに行くとき、車に皆さんを乗せていた。
どうせ私自身が毎週アピタに行くのだし、そこは問題ない。
しかし、ずっと『運転手役』をしていたことが問題だった。
だんだんとその関係性は崩れ、
買い物のあと、全員がそのまま我が家でお茶するようになり
そのうちに、運転手である私の車が駐車場にあるかどうかを
逐一チェックされるようになった。
「昨日はどうしていなかったの」
「どこに行っていたの」
そこから発展し
「二人目はどうするの」
「一人目に何かあったらどうするの」
お姉さん達が総姑化したのだ。
(次の転勤でその関係はリセットすることができた)

せっかく生まれた人間関係も
お互いの気遣いがなければあっという間に崩れてしまう。

というわけで、とうとうママ友ができなかった私だけれど、
気づいたら「友達」がたくさんできていた。
ヲタ友、飲み友、仕事仲間、ボランティアつながり…などなど
彼らは私の人生にとってほんとうに大切な人たちだ。
どの友達にも共通していることは
友達を作ろう!と最初から気合をいれることなく
その後、踏み込み合うこともなく
自然と、だんだんと仲良くなっていったということ。
そして、仲良くなってからもずっとお互いを尊重し続け、
毎回会ったあとには元気いっぱいになれるということ。

「ママ友って必要ですか?」
と、不安に思う若いお母さんたちにも
ママ友ができなくて焦っていた昔の自分にも
今の私が伝えたいことは
「焦ることはない。
 相手に合わせて無理することもない。
 自分なりに自分の好きなことを大切にしていたら
 いつか必ずいい出会いがあるよ。
 ママ友かどうかは関係ないんだよ」
ということ。

前回に比べれば
少しはまともなnoteになりましたでしょうか。
ご参考までに。

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