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「面倒くさいひと」って、結局誰のこと

多様性。
世界中の言語にずっと潜んでいたはずだけど、
最近急にあらわれた感のあるこの単語。

多様性(diversity)は、「互いに非常に異なる多くの人や物の集まり」

オックスフォード英語辞典

例えオックスフォード英語辞典にはそう書いてあっても、
今では「みんな違ってみんないい」的な意味で使われている感覚があり、
「ちょっと面倒くさいとされている人に対しても、できるだけ好意的に対応し、受け入れていこうぜ!」という意味なのだろう、と
ちょっと前までの私はそういう風に受け止めていた。

先日のこと。
多様性について語り合う会に参加した。
発達障害など、生きづらい特性を持つ子どもたちを
いわゆる「普通」の子どもたちと分断することなく
一緒に育ち合う学校・社会作りについて
地域として何をしていけばいいかを話し合う、という超真面目な会。
私は運営側として、話し合いに参加しながらも
当日の様子を撮影したり、議事録を取っていた。
そこで、
「多様性という単語を聞くと、傷つく」
というご意見があることを知った。

ハッとした。
多様性という単語を使っているとき、私は傷ついたことなど無い。
それは、自分がいつだって当然マジョリティに属していて、
マイノリティな方々を「受け入れる側」として、
生きてきたということだろう。

多様性とは
「互いに非常に異なる多くの人や物の集まり」
前述のオックスフォード英語辞典の説明を
そのままに捉えるだけでよかったのだ。
「私は支援する側である」という自分の奢りに気づいた瞬間、
頭にカァッと血が上り、居ても立ってもいられなくなった。

そして、そんな上から目線な私のマインドを
さらに打ちのめす答えが見つかった。
「手のかかる子の周りの子たちは、本当は我慢しているのではないか?」
というご意見に対し、その会の先生の回答は以下だった。

違いを尊重し合う関わりを大人がいつも大切にしていたら、子ども同士の関係性には「がまん」などの言葉は生まれません。
まずは大人の自分が「障害」「支援」と言った言葉の持つ差別性を捨てるところから問い直しをすることが不可欠だと思っています。

ぐうの音も出ない。
今までの私は、いわゆる「面倒くさい人・手のかかる人」に対して
内心では「面倒くさいな」と思いながら
「支援する側」として大人の対応を心がけ、
正直に言うと我慢をしてきたし、違いを尊重してもこなかった。
ようするに、良い人プレイだったということだ。
そして、その上から目線マインドに対する自覚も無く
むしろ理解ある大人として、多様性を考える意見交換会に参加し
のうのうと「運営側ですよ」という顔をして、その場にいたというわけだ。
「障害」「支援」と言った言葉の持つ差別性を捨てること。
これが、全くできていないというのに。

ああ、みっともない。
そして、悔しい。
普段、自分のみっともエピソード
恥ずかしげもなく、
むしろ笑いのネタとしてnoteに書いているというのに
おなら恋愛ネタと違い
こういう人間の内面の悪を書いて晒すかどうかについて、
今回はやや迷った。
でも、その見栄や自己保身がさらにみっともないよな、と反省し
みんなのフォトギャラリーからポップな画像をお借りして
ふわっと公開するに至った次第。

タイトルは、まあまあのネタバレ。
結局一番「面倒くさい人」とは私自身だった、ということですね。
たいして面白くもないですが、
今はその件で若干落ち込んでるんでお許しを。
ご参考までに。

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