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一休さんを守った「地蔵院a.k.a.竹の寺」

苔寺・天龍寺と同じく、自然が美しく、心が澄んで行くような景観の地蔵院。もう入り口に立っただけでパワースポット感が半端なかったです。自然が美しい禅寺ー。と思っていたらやはり、天龍寺や西芳寺(苔寺)と同じ夢窓国師が関係していました。

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貴族・武家・天皇家、一休さんとの関わり

元々地蔵院がある地は、鎌倉初期の役人であり歌人であった藤原良家(衣笠義家ともいう)の別荘があったところ。彼が亡くなったあとの1367年、室町幕府3代将軍足利義満の管領(補佐役)を務めた細川頼之夢窓国師の弟子の中でも特に優れていた宗鏡を招いて開山しました。宗鏡は師匠の夢窓国師を開祖とし、自らは第二世となっています。

その後、南北朝時代の北朝(室町幕府側の天皇)の発願により、敷地を広げ境内に寺院を建てたり、26寺院を支配下に収める(末寺)など拡大していきます。

そんな中、1394年、北朝第6代にして最後の天皇、後小松天皇の皇子「千菊丸」の名で生まれたのが、のちの「一休さん」こと「一休宗純禅師」です。母親はもともと南朝に仕えた家柄だっため子供を身篭ったことで妬まれました。そこで御所を出て、地蔵院近くの民家に隠れ住んで一休さんを出産し、地蔵院内で育てたそうです。南朝方の血を引く我が子の命が奪われる恐れを感じた母親が、出家させ命を守ったという事ですね。境内に母子像があります。

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一休さん、命を狙われていたけど将軍と仲良かった?

一休さんは6歳で安国寺へ。ここがアニメ「一休さん」の舞台にもなっているお寺です。現在は日本海よりの綾部という場所にありますが、当時は足利義満が建て隠居としていた金閣寺のほど近くにあったそう。「屏風の虎を退治して欲しい」という義満の訴えに対し、一休さんが「では捕まえますから虎を屏風絵から出して下さい」と切り返したという説話が有名ですが、南朝の血を引くとは言え、一休さんは幕府側には愛されていたのかなー?いや、一休さんは幕府との結びつきを嫌い、“本来の禅の在り方”を求めて修行したり、各地を転々としており、幕府とは何も接点がなかったというのが本来の姿のようです。実際には一休さんが生まれた時には将軍は息子の足利義持に譲られていたり、逸話やアニメは史実とは異なるようですね。ただ、並外れた知恵、鋭い洞察力があり、独自の生き方を貫いた一休さんが多くの方に愛されていたことは間違いないですね。

庭園で傾く石

さて、話を地蔵院に戻します。入り口(総門)から本堂へ続く竹林や苔の絨毯も圧巻ですが、やはり見どころは、宗鏡禅師の作のお庭。住職の質素な居室「方丈」にある、「十六羅漢の庭」と呼ばれる枯山水庭園です。お庭に置かれている十六個の石が、それぞれ羅漢(最高の悟りを得た、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者)の修行の姿を表現しているそう。しかも男山の八幡宮に願をかけているので、その方向(左手後)に少しずつ傾いていると言います。男山の八幡宮とは、現「石清水八幡宮」で、朝廷から特別の奉幣を受けた22社の一つとして、そして武家からも武神として信仰されていました。

おーぉここまっで知った上で拝観したかった・・・。やはり景色を楽しむだけではなく、背景を知った上で訪れ、しっかり己と向き合う時間を持つという拝観をするべきですね・・・。

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この時訪れた時の感想は、方丈の窓が、ハート型に向こうの景色を切り取っているのが素敵!ということでした。本人は楽しんでいますが大変、薄っぺらいですね・・・

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△こちらは本堂。昭和10年(1935年)に再建されたもので、本尊の延命安産地蔵菩薩のほか、夢窓国師、宗鏡禅師、細川頼之の木像を安置しています。この南側には宗鏡禅師、細川頼之のお墓があります。自然石を積んだだけの、とても簡素な感じが禅宗らしいなと思いました(ここまで復習してきて禅宗らしさというものがわかるようになりました)。

※参考:京都-竹の寺 地蔵院HPそうだ京都、行こう。Japan's Travel Manual

※参考情報をもとに記事を作成しています。情報の正確性を保証するものではないことご了承ください。

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mariina
母がドイツ人の父が日本人のいわゆる「ハーフ」ですが、ハーフって言われるの嫌い。ピザじゃあるまいしw。アウトプット力・文書力向上を目指してnoteを活用します。そして記事の内容が誰かの役に立ったら嬉しいです。