非二元を土台においた投影について
私たちはオギャーと生まれた瞬間に、皮膚の内側が自分で、外側が自分以外のものだと感じ取ります。
世界から分離された私を感じ取る。この分離した私は小さくて弱くて、守られなければならない。
この身体をもったこれが私だと。
自分がいて世界があるというこの思いができた瞬間に投影が始まります。
やがて幼児期に言葉を学ぶようになると、言葉で世界を切り分けていきます。
これは人形。これは私の人形。お母さんは優しい。お母さんは怖い。私は無力だ。・・・というように。
自分や世界を把握し続けることで、そこに意味を与えていきます。
自分が見ている世界はすべて自分の知識を通して見ていることになります。つまりありのままを見ていない。
見るやいなや、「あ、これはこれだ」「あれはあれね」というふうに声に出しても出さなくても頭の中で瞬時に変換しています。知識のほうが速く走ります。
これが投影です。
これはあたりまえすぎて、気づかないですよね。これをやって何が悪いの?っていう感じもあると思います。
自分の見ている世界はすべて自分の投影です。
このように、私たちは自分と自分をとりまく世界について、すべて意味づけをしていき、意味づけのない世界があることを忘れていきます。そして、意味づけされた世界に反応しているんです。
そこに反応して、もちろん楽しいこともあれば、時に怒ったり泣いたりもしてる。
ありのままに見ることはできなくなっています。
「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」
↑ これは日本マインドフルネス学会のマインドフルネスの定義です。
私たちの多くはものごとをありのままにみることをしていなくて、そうすることがいかに難しいことか。ただ、そんなふうに生きなきゃいけないということではなくて(日常生活では厳しいですよね^^)、輻輳的に、つまりAかBかどっちかを選ぶんじゃなくて、相互作用的に、こういうのもあるんだということをわかっておくことで、身体がいい意味でゆるんでくるように思うのです。
非常にタイトだった分離感がゆるんでくるような感じ。
このように、自分がいかに投影して自分や社会、他者を解釈しているか、そこを改めて認識して、じゃあどうしようか、と進んでいくことは意味のあることだと感じます。