アートと悟りの間
もう何年も心の学びをしてきて、今も続けているんだからやっぱり好きなんだなあって思う。
膨大な時間と何百万ものお金をかけて、自分の中のドロドロに向き合ったり、思わぬ宝に出会ったり。
20代の頃、私はあんまり自分が好きじゃなくて、いつもまわりがうらやましくて、理由もなくみじめで不安で孤独だった。
子供なんてぜったいに育てられないって若いころは思っていたけれど、今は可愛い子たちが2人、毎日うれしそうに私と一緒に過ごしてくれている。ママだいすきって何万回も言ってくれる。
感謝。
だけど、今もずっと分からないことがある。自分の中の「絶対的価値」。
どれほどの人がこれを握りしめて生きているんだろう?
そりゃ、大事にしたいものはたくさんある。
自由、解放、笑顔、ときめき、わくわく、感動、成長、正直、真実、子供、家族、お金、、
「それをひと言で自分の言葉にすると?」
心の学びの場でいつもぶち当たる壁がこれ。ずうっと分からない。
これだ!と言うものを掴んでいる人も少なからずいて、その人たちはエネルギー体そのものであるかのように輝いて、いつも定位置にいて太陽のように見える。
その場にいるだけで安心する存在。絶対的価値を握りしめている人は強い。
その「絶対的価値」を外側から与えてしまうのが「宗教」なんだと思う。宗教の場合、その価値を皆で共有するのだから、そりゃ大きな力になる。宗教が支配、侵略の道具に便利に使われてきた理由がよく分る。
でもやはり、外側から与えられるより自分の内側から見つけられたらこれ以上の価値はないだろうなと思う。私もそれをつかみたい。
でも、つかめずにもがきさまよっていること自体もまた素敵なことでもある。
多くの人が迷いに迷いブレにブレ、その痕跡が文学や芸術などのアートなんだとしたら、それはそれでとても愛すべきプロセスなのかもしれない。
本人は苦しいのだけれど、その中にこそ多くの人の胸を打つ物語がある。
心理学者、河合準雄の「治さない方がいい病もある」というとても味わい深い言葉がある。
ある種の病というのは、誰かの役に立ち救いとなり、昇華されたとき「才能」と名付けられる。それを治すのではなく、活かし共存する道をも示している。
ユングが言うところの「創造の病」だ。苦しみを原動力に何かを生み出し、病を昇華させてしまうのがクリエイターと呼ばれる人達なのだろう。
悟りに近づくことで人を照らす生き方もあれば、さまよい続ける姿そのものが誰かを励まし勇気づけたり、共感や癒し、カタルシスとなることもあるのだ。
とは言っても、やっぱり生きているからには自分だけの「絶対的価値」に今生で出会い、その先の世界を見たいと思う。
そこに行きつくまでのさまよう旅路は、思い切りもがけばアートにもなりえるし、またもがかなければたどり着けない境地なのだとしたら、「思う存分もがいてみればいいじゃん」とちょっと楽観的な気分にもなれる。
けっきょく、今を精いっぱい味わい尽くす、ということに尽きる。のだと思う。
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