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(2)旅立ちの空港

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2019年秋、十数年ぶりのひとり旅は、バックパックではなくスーツケースを引いて。 
エストニア・ラトビアをあるく旅の記録。
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 飛行機がこわい。空を飛ぶのもこわいし、置いてけぼりを食らうのもこわい。
 飛行機に乗るとなると、半日くらい前から緊張でずっとおなかを痛くしている。前日の夜はたいてい飛行機に乗り遅れるとかパスポートを家に忘れるとかいう夢を見て、ガバッと汗をかきながら変な時間に起きて、夢でよかったと胸をなでおろす。

 空港に着くまでの間じゅう、時間通りに着けるか心配でたまらない。だから、せめてチェックインを終えて出国手続きエリアを通過してからくらいは、コーヒーと軽食でまったりしたいと毎回思ってはいる。それなのに、免税店やコーヒーショップには目もくれず、まっすぐ搭乗ゲートに向かい、気がつくと、まだひとのまばらな搭乗口の待合席に陣取っているのだった。

 飛行機がよく見える場所に座って、充電ポイントも確保して、それがよく晴れた朝なんかだと、こんないい場所を確保できたのに動くのもったいないな、なにか食べるって言ったって、乗ったら機内食すぐ出るしな、などと思いながら、搭乗開始のアナウンスをじっと待つ。時計の針が進むにつれて、がらんとしていた搭乗口に、潮が満ちてくるように、人が増えてくる。待合席が少しずつ埋まっていって、旅立ち前のうきうきしたざわめきが広がっていく。

 かばんに旅行会社のバッジをつけて、仲良く集まっている人たちを見るとハッとする。そうだった、向こうの空港についてからの流れを把握しなくては。私にはお迎えバスも添乗ガイドもないのだから。
 せっかく飛行機乗り遅れの恐怖からは解放されたのに、今度は中継地での乗り継ぎや、現地空港からホテルまでのアクセスのことで頭がいっぱいになる。

 ああ、いいなあ、お迎え。忙しそうな旅行社の添乗員さんの仕事ぶりを目で追ううちに、飛行機が現地に到着したあとのイメージトレーニングが、私の脳内ではじまる。

 税関の、人はたくさんいるのに比較的静かで閑散とした感じ、チェックゲートから出口までの妙に何もない空間を抜けて、自動ドアが開いた瞬間に目から耳から鼻から身体の中になだれこんでくる過剰な新情報。いつもとは違う言葉や音楽、におい、人々の顔つきや服装、知らない文字。まだ片付けていないパスポートを握る手が汗ばむ。
 出口の自動ドアを抜けた瞬間、「現地」がばーっと幕を開けてせまってくる、その先に、入国者の通路を確保する手すりの向こうで待ち人の名前を掲げて待っているひとたち。私の名前があるはずがないのに、なぜかひとつひとつ名前を読んでしまう。あ、日本人の名前がある。掲げている人はちらっと私を見て、それからまた自動ドアの奥の方に視線を戻す。そうですね、あなたの待っているのは私ではないです。お迎えがあるなんていいなあ。この国にはお仕事で来ているのかなあ、YUKAさんどの人かなあ、と振り向いてみたり。初めて訪れる国が私を出迎えてくれる、最初のこの場面。間違わないように、だまされないように、高まる緊張感。決して余裕をもって味わうことはきっとないだろうこの瞬間が、しかし一番ぐっとくるのだ。

 空港についてまず探すのは、以前は有人の両替所だったが、今はATMである。ATMの四角い機械は、両替所みたいに自分の存在を派手にアピールしてくれない。地味な見た目で、素知らぬ顔をして、入国した人たちの流れから外れた柱の陰にいたりするので見つけるのが厄介だ。ようやく探し当て、クレジットカードのキャッシング機能を使って、四角い鉄の箱から現地通貨を引き出す。見慣れない操作画面をおっかなびっくりタッチして、吸い込まれたカードがちゃんと戻ってきますようにと祈りながら、キャッシュが出てくるのを待つ。そうして現金を少しだけ調達できたら、今度は市内までの移動手段の確保にかかる。
 今回現地では、空港からホテルまでの移動は配車アプリを使って車を呼ぶつもりで、準備は万端。アプリをインストールして、クレジットカードも事前に登録済。あとは空港でネットにつながって、近くにいる車をボタンひとつで呼べばいい。行き先もアプリで指定しているから、ドライバーとお互いにあやしい英語で伝えあう必要もない。
 安心を確保するつもりで準備しているのに、それでも心の中には不安の種が次から次へと生まれてくる。妄想から現実に戻り、これから乗る飛行機を横目で見ながら、空港のWi‐Fiにつながったスマホで、配車アプリを起動してみる。画面には、「あなたのいる位置からはご利用できません」と英語でお知らせが。ええ、よくわかっております。ご忠告ありがとう。

 変な汗をかきまくる私とは正反対に、通路を挟んだ向かいの席では、体格のいい男の人が余裕な様子で膝の上のノートパソコンをいじっている。暇すぎて頭の中が不安でいっぱいになってしまうのを避けるため、視線のすみっこでじっくり彼を観察しはじめる。これから向かう先の地方の人らしい、白っぽい金髪に大きな体。白いまつげ。
 中国に留学していた時によく遊んでいた、デンマーク人の男の子を思い出す。髪もまつげも腕毛も白くて、おじさんかと思っていたら自分と同じくらいの歳だと知った時の驚き。中国語はまだ全然できなくて初級クラスで一生懸命漢字を習っていたデヴィッド。この人ももしかすると私が想像している年齢とは全然違うかもしれないなあと、彼の向こうに見える飛行機に注目しているふりをして、視界の隅で熱心に観察を続ける。

 私の乗る飛行機に、荷物が運び込まれ、その機体の向こうを別の飛行機が滑走し、びゅーんと離陸していく。何百人も乗っているあんな重いものが空に浮かぶのがやっぱり信じられない。何十回も乗っているのに、また同じ恐怖がぶり返す。
 また胃袋がきゅーっとする。おなかがすいたときのために買っていた大好物のじゃがりこも、今は食べる気になれない。

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 この十年は子供たちと一緒の旅だった。子どもたちが小さかった頃は、彼らの安全を確保することだけで頭がいっぱいだった。「おしっこ!」という子と、「おしっこいま出ない!」と言い張る子の手を引いて、荷物も一緒にトイレに向かい、待合席に戻ってやっとひと息つけると思ったら、今度は、おしっこ出ないと言った子が、「う、うんち出そう」とせっぱつまった顔で言い出す。そんなアクシデントの波状攻撃で、休む間もなかった。

 手を貸さなくてすむ十代になればなったで、今度は小さな頃とは別の種類の、思春期キッズの不機嫌が私を待ち構えていた。彼らは彼らで、母親主導の旅につきあわされて大変なのだろうけれど。
 思えば彼らとの旅では、自分以外のことに気を取られ過ぎて、自分が飛行機嫌いなことも忘れていられたのだった。悩んでもしかたない現地についてからの心配事も、準備するだけしたら、それ以上は悩まない。というより、悩んでいる余地がない。
 子供連れでなくひとりで旅ができるなら、こんなにいろいろ考えなくてすむのに、と思っていたのに、実際こうして一人になって、自分と自分の荷物のこと以外何も気にかけなくていいこの自由な状況では、私はのびのび解放されるのではなく、もともと自分の中にあった心配性気質で余白を埋めてしまうのだった。

 搭乗口に数人のスタッフが到着し、ゲートを開ける準備を始めると、気の早い乗客たちが続々と列を作り始める。優先搭乗のアナウンスが入り、列を横目に、どこかからあらわれたビジネスクラスの乗客がゲートの先に姿を消していく。
 ゲート前に列ができていると、心配性の虫が騒ぎ出して、つい並んでしまいそうになるけれど、このたびうっかり者は前夜スマホの充電をするのを忘れていたため、充電スロットのある待合席にできるだけ長く座っていなければなりません。余裕しゃくしゃくで座っているように見えるかもしれないけれど、スマホのバッテリー残量は38%とまったく余裕がない状態。搭乗する飛行機の座席にはコンセントやUSB電源がないことはわかっている上に、荷物のどこかに入っているはずのモバイルバッテリが見つからないという、かなり切実な状況だ。それなのに、無慈悲にもスマホのロック画面には、「低速充電中」という表示が出ている。こういうときこそ、高速でお願いしたかった。

 さあ、いよいよ搭乗の順番が回ってきた。
 スマホに表示させたデジタルチケットを使ってゲートを通過するひとたちもちらほら見える。画面に表示されたコードを機械にかざし、ピッと読ませてペーパーレスで手続き完了、とてもかっこいいけれど、やはりスマホという電気がなければ無用の長物になってしまうデジタル機器、および大事な時にもスマホの充電を忘れるポンコツな自分に自信が持てず、紙のチケットを発行してもらった私。旅ノートに貼れるから紙のチケットがほしいのよ、と誰も訊ねていないのに胸の内で言い訳をする。

 ゲートを抜けて、エスカレーターで下り、途中で立ち止まっては窓ガラスにはりついて飛行機の写真を撮りながら、細い管のような通路を通って機内に入る。ここを通るときに不安が最高潮に達する。飛行機と連結通路が不自然に接続している、ガタガタしたところを通るときは、私が踏んだ途端に外れやしないかと妄想が炸裂するけれど、必ずそこに何人か立っているスタッフの人たちの、にこやかな挨拶に救われる。

 自分の座席を見つけて、荷物を頭上の棚に入れる。背が高いので、だいたいいつも、誰かの荷物を上げるのを手伝うことになる。ひとに親切にしたぶん、旅先で幸運が私の身に訪れますように、いいことしたんだから飛行機落ちませんように、と祈りながら、荷物棚の扉をばちんと閉める。

 座席指定したのは窓寄り二列席の通路側。お隣は小柄な日本人のおじいさん。お互いに細身なので、トイレに行ったりの出入りがラクそうでほっとする。ごあいさつのことばを短く交わして、シートベルトを締め、背もたれに体を預けて目を閉じる。離陸の瞬間がとても嫌いなので、できればとっとと眠りたい。現地で待っている楽しい出来事を妄想できればいいけれど、通路を挟んだお隣の女子たちが「きゃーかわいい、枕カバーがマリメッコ!」とテンションを上げているとき、私の頭の中で繰り広げられているのは、(落ちませんように。シートベルトきついな)(二点式のシートベルトは上手に着けないと万一のときに内臓損傷するんじゃなかったっけ)といった悪夢のような想念ばかり。周囲の人たちの楽しげな様子、荷物棚を開けたり閉めたり、足元の鞄から機内で快適に過ごせるグッズを入れたり出したり、ウキウキした感じが伝わってくるがさごそ音を聞きながら、心を無にすべく、ひたすらじっと目を閉じている。大丈夫。心配御無用。飛行機が着陸するまでは、何も心配せず座っていよう。そう自分に言い聞かせるのに、閉じたまぶたの裏で、「変換プラグは持ったっけ?」「配車アプリで呼んだ車ちゃんと見つけられるかな?」と不安の種が芽を出していく。

 不安を封じ込めるため、感度の悪いタッチパネルにイライラしつつ、目の前のモニタをいじり回して、こうなったら無理矢理にでも睡魔を召喚しようとゆるい音楽を聞いていると、機内放送がガリガリとした音質で耳に飛び込んできて私の眠りを邪魔する。イヤホン経由の機内放送は、なぜあんなにも大音量で割り込んでくるのだろう?

 そうして結局また目を閉じて、起こるかどうかもわからないアクシデントの妄想が脳内を駆け巡るのを追いかけ、つかまえ、もう出てこないように押さえ込んで引き出しにしまい込むのを繰り返す。飛行機が飛び立つまでに、私の心はもう、時間も空間も超えてしまって、ここにはいない。頭の中ではもう私は現地でスリにあったりバスに乗り遅れたり迷子になったりして、ひいひい泣きべそをかいている。

鞄を引いて知らない街へ(←Amazon商品ページへのリンクです)
【もくじ】
ことの発端
旅立ちの空港
機内食
車のなかで
列車の見えるホテル
マトリョーシカ
本屋の中にあるレストラン
度胸足らず
以心伝心
通してもらえない
ひとりのテーブル
旅の感懐
名前を知らない
あそこに行きたかった
ピスタチオ・フィーバー
朝のビュッフェ
パイプオルガンコンサート
ドミニコ会修道院
たどりつけない
いつもの道、いつもの一日
長い脚・短い脚
ラッパの郵便局
いわくつき
時差
バスから海が見たかった
旅の点描
ヘルシンキ空港の卓球台
教会の裏の黒い猫
旅の買い物
おしゃべり
最高のごはん
わすれもの
夜の乗りもの
めざして歩く
ことばをかわす
寂しさを手懐ける
ペール・ギュントのはなし
しあわせの箇条書き
おわりに
【著者について】
Marie
2006年より運営するブログ「Mandarin Note」(http://mandarinnote.com)では、Kindle・スマホなどガジェットを活用した英語・中国語学習法や、手帳術・タスク管理など、デジタルとアナログの両方を使って暮らしをマネジメントする方法を紹介している。バックパック1つでアジアやヨーロッパを旅した若き日の記憶が忘れられず、今もときどき子どもを引き連れ旅に出る。
『「箇条書き手帳」でうまくいく はじめてのバレットジャーナル』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『英語が身につくちいさなノート術』(KADOKAWA)、『超時短イングリッシュ 今すぐ始めるお手製学習法』(アルク)ほか著書多数。

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Marie
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