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UTOPIA 第一夜「夕立の悪魔」


第一夜 夕立の悪魔

 小紫色の積乱雲から、四つ目錐のように鋭利な雨が大地を穿つ。岩と樹木の表面に、無数の蜂窩(ほうか)が描かれる。それらは忽ち集合、今、一際立派な大樹が崩れ落ちる。木粉が煙のように立ち上がり、それすら降り注ぐ雨に叩き伏せられる。頭を垂れ続けろと言わんばかりに。岩は尽く砕かれ小石へ、小石から砂へ。突風が砂を掬い上げ、鉄風となって、少女と羊の真横を通り過ぎた。

 夕立の悪魔が現れる時、空は緋色に染まり、地上のあらゆる物体は粒子に変わる。それが立ち去る頃、水が命の欠片を押し流し、そこには何も残らない。

 雲はしなやかでいて、先鋭。金糸雀色の角膜と鮮血のような瞳孔。一つ限りの瞳を指差すように、サリーは石突きを夕立の悪魔に向け、みすぼらしい黒い傘を開いた。激しい雨音一色の中、傘の開く音、それが法螺貝の代替品。

「こんな物でやり過ごせる?」とサリーは言った。 

「全く問題ない」と足元で羊は言った。

 頼りない生地が先程大樹を打ち倒してみせた雨粒を受け止める。受骨が軋み、中棒から伝わる振動が、ハンドルを握る小さな掌に伝わった。

「大丈夫だよ」と羊は言った。

 機銃掃射のような雨は、傘を貫通する事はなかった。傘下は、その周囲とは切り離された空間のようだとサリーは思った。

 夕立の悪魔は抵抗を認識していた。風の指向性を変化させた。

「傘を正面に向けて」とすかさず羊は言った。

 サリーは少し戸惑いつつも言われたように傘の向きを変えた。轆轤(ろくろ)を中心に骨が同心円状に拡がっている。その規則正しい並びを綺麗だと感じた。次の瞬間、全身を揺さぶる激しい衝撃を感じた。

「気を抜くなよ」と羊は言った。

 サリーは咄嗟に左足を後退させ、支え棒のようにして、右足を軸に、体制を整えた。右足親指にぐっと力がこもる。拇指球が靴を通して地面に押し込まれる。体重が乗った。

 夕立の悪魔は、やり方を根本的に変えなければいけないと考えた。このままでは、あの人間は殺せない。自然と憎しみが募り、獣の中で長い間放棄されていた回路へ血が通う。

「恐らく、次は全部を出してくるぞ」と羊は言った。

「全部って何?」とサリーは言った。

「全部と言ったら全部だ」

「実際に体験してみるしかないね」

 雨音は次第に減退していった、風も止まった、終に雨が止んだ。勿論何も終わってはいない。サリーは初めて、恐ろしさを感じた。これは備えだ。雑な間引きは終わった。本腰を入れた暴威がやって来る。獣の怒りが静けさの中から染み渡る。

 やがて、何か固い物が傘の生地を叩いた。開かない扉をノックするように、何度も何度も叩いた。それでいて未だ静かな調子だった。鍵のかかった部屋を、必ず抉じ開けると、閉じ籠もった少女に向けて宣言するような、断固としたノック。今から行くぞと、誰かが言った。

「風に消えないでくれ」と羊は言った。


 雹が降り始めた。


 夕立の悪魔が過ぎ去った後、約束通り、その土地には自然も民家も残されてはいなかった。大量の水と氷の礫、穴だらけで脆くなった地面、サリーと羊だけがそこにいた。その寂し気な景色にサリーは清々しさを感じた。

「向かっていた街は消し飛んでしまったね」と羊は言った。 

「うん、でも良い感じがする」とサリーは言った。

「良い?」

「そう、お祭りが終わった後みたいな、上手く言えないけど、どこか解放感があるの」

「君の感性は難しいよ。雷を打たれなくてよかった」

 災禍は常の通り全てを攫っていく筈だった。それが叶わなかった。だから報復心を雲に秘め、空に流れていった。サリーは心地よい疲労を覚えていた。


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