映画「夢見る小学校」
映画「夢見る小学校」を見てきました。
以下は、映画の詳細な内容ではなく、自分語りも含む、個人的な感想が中心です。内容が気になる方はぜひ、劇場に足を運んでみてください。
「きのくに子どもの村学園」に保護者として関わっている友人知人が少ないながらいますが、映画を観て、想像した以上の「私の知らない学校の在り様」に心がざわつきました。
こんな体験ができるなんて素晴らしい!と思うと同時に、これが合わない子もいるだろうと少し斜めから見ていました。
しかし、子どもたちの笑顔や楽しそうにしている姿に、何故か涙が溢れ止まらなくなってしまいました。泣ける音楽や映像だったわけではありません。理屈じゃないんでしょうね。
この映画に出てくる大人たちに比べて、自分が子どもの力を低く見積もっていたことにも気づきました。私の「推し」の辻信一さんも出演していて、「問いを育てない。そんな時間あったら答えを覚えろ。それが日本の教育」とおっしゃっていました。
私の子どもたちの学校の先生はよく「規則は規則」といいます。それこそがまさに問いのない態度でしょう。教育だけではなく、ニュースを見ても「これはこうです」という「誰か」が用意した同じような模範の答えばかり。「定型」の因果関係以外の可能性や、違う視点から物事を眺める姿勢、それこそ問いや、真実を見たいという思いは感じられません。
「多様性」という言葉は頻出しますが、認められるは、お決まりの「これが多様性ですよ」とされているものばかり。
話は変わりますが、私の父はドイツで美術教育を学んだ後、長く大学の教員をしていました。お察しの通り変わった父親です。以前に実家で、その父が、定期テストへの取り組みについて学校への提出物に書いたコメントを発見しました。
教育者=いい親 とは限りませんから、葛藤やわだかまりがありますし、当時はまた恥ずかしいことを・・・としか思いませんでしたが、今になって、父って「そういう人」なんだと理解しました。
性格が違うので、私たち親子の「大切なもの」は異なるかもしれませんが、私にとっての「問う姿勢」は、子育てを通して身についたように思います。
子育ての中で、大切なものや理想があることは大切な指針となりますが、だからこそ経験する苦労や落ち込みもあります。
似ていない親子だと思っていましたが、映画を観て、私の中にある理想や問いというものは父から受け継いだものでもあるように思いました。

映画は「もっとこどものチカラを信じてみませんか?」と結びます。
農も食も医も教育も、今ある問題は何もかも、信頼の欠如から始まるように思います。信頼する相手は他の誰かや何かではなく、まずは自分自身です。自分に力があると信じられるかどうかです。
長々と書いてきましたが、こんな感想は後付けで、観ていて理由のない涙が流れたように、意図せず心の深いところに届き、癒しの起こる映画かもしれません。
ここ数日で目にした関連記事を2つ紹介して終わりにします。
追記:発達障害の記事について
本人や家族、当事者にしかわからない側面があるため、服薬を一概に否定するつもりはありませんが、「最後のやむなき手段であるはずの薬が、いつの間にか最初の手段になっているのが問題」という記事中の指摘は重要です。
映画「夢見る小学校」には、学校から発達障害の疑いを指摘され、受診・服薬することでようやく学校生活を続けてきた少女が登場します。彼女は「子どもの村」への転校を希望しますが、子どもの村からの条件は「服薬をやめること」でした。服薬でおとなしくなっている彼女ではなく、本来の彼女の姿で来てほしいと望んだのです。初めて自分らしくいられると感じたと、彼女は映画で語っていました。
他の学校では発達障害を指摘される子でも、この学校では問題なく過ごせるし、むしろ利発な子が多い。発達障害は画一的な教育が作り出したのではないか、という指摘も映画内でされていました。
近頃「窓ぎわのトットちゃん」を子どもにせがまれ、寝るときに読み聞かせています。発達障害と教育という観点でも興味ぶかい書籍です。もしトットちゃんのような規格外な個性を受け入れる環境がなかったら、それは世界にとって損失だと考えます。