心中論

『曾根崎心中』
義務教育を受けている人ならば「あー、聞いたことがある」となるだろう。
江戸時代にブームになったという三大心中の1つらしい。
そのブームに危機感を覚えた(当たり前だ)幕府は心中禁止令を出したほどであるという、詳しいことは調べれば出てくるので是非。

さて、心中とはなにか。今更説明するまでもあるまい。
端的に言えば『最大の愛情表現』である。

は?と言いたい理由もわかる。
人間とは『男女の番が子を作り、その子が孫を作り、家族に看取られて死ぬ』ことを生きる証、最大の幸せとして刷り込まれている生物だ。
無理もない。我々は男女の性行為の落とし子として生を受け、望む望まないや家庭事情はともかく、男女から生まれた事実は覆せない。
円満な家庭の元に生まれたなら、それを最大の幸せであったり目標として設定する人が多い。
では逆に片親だったり喧嘩が絶えない家庭ならどうだろうか。自分のところは円満なので想像の域を出ないが、家庭に対し何かしら負の感情は抱いているはずだ。

なぜ子供を作るか。
子供とは望まれたものであるならば『未来』『希望』と昨今のJ-POPでも聞かないような耳障りの良い言葉を孕んだ結晶であると断言できる。

そして平均寿命と健康寿命。
男性であれば平均寿命80歳、健康寿命72歳。
女性なら87歳、74歳。
そこまで生きる人生設計をして最後は家族や仲間に看取られて死ぬ、なんてことがゴールに設計されている。
呪術廻戦の主人公の祖父も「お前は大勢に囲まれて死ね」と主人公に言い渡し老衰?で病室で亡くなる。

議題を元に戻して『心中』
それは7,80年健康に生きたとしても決して味わうことができない最大の愛・最良の人生と言える。
人のゴールとは何か、定年退職ではない。長さ短さはともかく前述した通り死である。
人の最期なんてのは結婚しようがしまいが全員が全員、病室で看取られて死…で終われる訳がない。

では幸せな結末はどうすれば?心中である。
男女(同性でもよい)が現状だったり、未だ来ない潜んだ不幸に対して絶望し、誰にも知られることなく決行する死、すなわち愛。
幸せの象徴である「看取られて死ぬ」なんてのは自己満足から浮き出た灰汁でしかなく、残された者の気持ちなど考えたことがない。どうせ「大往生」と片づけてほしいという浅い考えだろう、一番嫌いな分類の自己満足だ。

だからこそ、2人で命を落とすような、後に引けない、後がない最期の逃避行である心中は後ろ向きのポジティブであり、2人で完結した満足の象徴である。
残された者?知るか!愛だよ愛!それでいい。
一生を添い遂げる決意なんかよりも一瞬を添い遂げる決意の方が愛の濃度は高い。そう信じている。
かく言う自分も年金を貰うまで生きたり子供を作るような人生設計などなく、25くらいで(来年)死を添い遂げられる人がいればなぁ。と思う次第である、勿論誰でもいいわけではない。

そんな自分でも『めぞん一刻』は良い。
「一日でもわたしより長生きして」という言葉に集約されてる響子さんの心情。
ある意味心中よりも重い。
この場面を読んだとき、唯一の男女の正解だと信じてしまった時期があった。

ここまで心中の良さについて語ってきた自分でも、いざ決行!となると足がすくんでできなくなるだろう。
人には死と生の天秤を持っている。それが生に傾いている限り自殺はしない。
その天秤をひっくり返して「一緒に死のう」なんて言ってくれる、まるで少女漫画のような展開を夢見る女の子の気持ちで、ヘドロと下痢を煮詰めて一週間経って掬った沈殿物のような自分を救ってくれることを夢見て、明日も生きていきます。
ないがままで。

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