7 おおげさなことは言いたくないけれどこれが使命です
実はタイムラインコントロール(仮)として、求めに応じて、本格的に始動する前年にセッションを始めていました。
まりあタイムラインは起点を観るので、本格始める時のために敢えてエネルギーを弱めて(仮)としたのです。
翌年の秋、数秘まりあタイムラインとして世にだしました。
数秘で人の人生をナビゲートすると決めてから、わたしのタイムライン通りの二年後のことです。
まりあタイムラインと名前を決めた2日後の夜、わたしは医師も首をかしげるインフルエンザの重症化から意識不明になり、救急搬送されました。高熱が続き、薬も効かない過酷な頭痛に、髄膜炎の緊急検査をしても原因がわからず、半月以上も寝たきりになりました。
12月21日、冬至で朔の夜、夢うつつのなか、広い原っぱの遠くむこうに両親が立っているのをみました。自分が熱を出して臥せっているのもわかっており、これがいわゆる向こう側へ行く機会なのだろうかと思いながら父たちを何度呼んでも振り返ってはもらえず、歩き出したのか走りだしたのか足を踏み出した瞬間、堕ちる!と思ったのをはっきりと覚えています。
ひとは死ぬときに自分の人生を走馬灯のように生まれた時まで還って視せられると何かの本で読んだことがありますが、わたしは逆回転だったのでしょうか、生まれてからの記憶のタイムラインをまるで映画か何かのフィルムのように視ながら、螺旋のスロープをくるくると滑り落ちていました。
どんとなにかに突き当たるように感じた時、熱が高く節々がきしむように痛むリアルな身体、わたしはそこに戻っていました。
家族に聞くとそれまで声もかすれてほとんど話せないような状態だったわたしがなにか大きな声を出したようで、当のわたしはといえば、夢うつつの中ではしなやかに楽な居心地が、呼吸もままならない重苦しい現実を認識したところでした。
それから9日ほど、生きている身体の重みと痛みと闘いながら、頭の中では数秘のさまざまな階層がぐるぐると渦巻いているのを感じていました。ようやく身体を起こせるようになった頃に、すぐにはじめたのは、いまインサイドナンバーの月次予測として、毎月執筆しているインサイドメッセージのもととなるインサイド(1から9)の質と9年の巡り年数(1から9)と、月毎(1から12)月数との基礎的な応答、つまり一つのインサイドナンバーに対して108の応答をすべて整理することでした。
生還した 今やネタのようなエピソードは、 わたしにとってはやるべき仕事として真剣に大切な位置づけを確認させられるような節目のときとなりました。