生体肝移植を考えた時のこと
数秘まりあタイムラインのはじまり(1から7)
が、母の癌の闘病に何かできることがないかというきっかけがあったことを書いています。肝臓の治療ができない、癌の治療もできないという中で、残されたアクティブな選択が、わたしからの生体肝移植でした。
母とわたしの生体肝移植をめぐるお話です。
C型肝炎の罹患
母は、旧ミドリ十字社の血漿分画製剤の一種であるフィブリノゲン製剤の投与によるC型肝炎ウイルス(厚生労働省/フィブリノゲン製剤によるC型肝炎ウイルス感染に関する調査報告書 平成14年8月29日 より引用)
から肝臓病にり患しました。
肝炎になっても自覚症状はほとんどありません。そのため、気づかないままおよそ 20~30年で肝がんへと病気が進んでいきます。進むスピードは個人差があり、60歳をこえると肝がんになる確率が高くなります。(国立国際医療センター 肝炎情報センター より引用)母が、慢性肝炎と診断された時にはかなり肝炎が進行しており、まもなく肝硬変と診断がされました。
母の12歳年上の姉(伯母)も同じ病院で、フィブリノゲン製剤の投与から慢性肝炎にり患しています。~肝硬変、(静脈瘤破裂、全身状態の悪化から)母の逝去から10年前に逝去しました。
病態の経過は、人それぞれのようで母と、伯母の経過は同じではありませんでした。
治療ができない
肝硬変と診断された時には、肝癌への移行も間もないと考えられました。
小さな癌細胞が発症しても肝臓自体に余力がないという判断から、検討はされましたが当時の治療方法であった手術による切除、ラジオ波、塞栓術、重粒子治療どれもできないという結果になりました。
肝臓を新しくする
主治医から、「出来ないかもしれないが」と前置いて
「生体肝移植を検討してはどうだろうか」と大学病院を紹介されました。
わたしからの生体肝移植ということに躊躇した母に、そこで何ができるのかとにかく一度診察を受けに行こうと、紹介状をもらいその大学病院を受診することにしました。
当時、世界初の成人生体肝移植を成功させたその大学病院です。
また時の外相が、ご子息から生体肝移植を受けて成功された例があり、生体肝移植に注目が集まっていたころでした。
大学病院という性質上、症例数を増やすため、かなり積極的に生体肝移植へのアプローチがあったと思います。母のための生体肝移植チームが編成され、まず、母の現状を把握するため母が検査入院をすることになりました。
約一ヶ月、検査と検討が続きました。母の検査が終わり次第、わたしが入院して検査を始めるという流れがきまっていました。
母が手術をしたいかどうか
その間、母はさきの、大臣親子間の手術について書かれた本を読んだり、同じ病棟でその検討をされている患者さんや、ご家族のお話を伺っていたようです。家から車で1時間半のその大学病院に、三日おきに母を見舞う度、出来るかもしれないという希望を見出す明るい側面と、自分自身よりも、ドナーの方の「摘出手術のあと、宇宙空間をさまよっているようだった」といった楽観できない様々な話を聞いて「あなたの身体にとんでもない負担がかかる」という面ととても揺れているようでした。
わたし自身は、ドナーになる場合の説明を一定の制限が出るものの通常暮らしていくには問題ないとの見解と生体肝移植手術の流れの説明を一通り受け、健康な身体であっても、まして臓器の一部を切り取るということに正直不安がなかったわけではありませんでした。
ドナー
わたしにとっても、母の検査入院の一ヶ月は、肝臓移植をしてあげたい、でも大丈夫なのか、出来ることだからやろう、でももし私に障害がでたら、、、ぐるぐると決意と不安が交差する時間でした。それでも手術は怖い、正直どうなってしまうかわからないけれど成功例があるのだから、楽観的な見方を移植チームから伝えられていたこともあって、唯一出来る事ならしてあげたいと心が決まり始めていました。、
家族には、どちらかの選択をするならば自分を優先してほしいと、わたしの臓器提供には賛成はされませんでした。
「お母さんにはあなたが大事なの。子供(孫)たちの大切なお母さんを傷つけるわけにはいかない」
検査入院も終盤に差し掛かるころ、母を見舞ったときに
「家に帰るよ。手術はしない。」
母が突然切り出しました。
「お母さんには、あなたが大事なの。子供(孫)たちの大切なお母さんを傷つけるわけにはいかない」
気持ちだけで、もう十分だというのです。
とにかく母の検査結果を待って、改めて考えようと、
その日は家に帰って間もなく、 移植にとても積極的だった移植チームのチーム長の医師から、
「二日後にお母様に知らせずに、面談に来てほしい」と連絡がありました。
また
・・・この感じ、まただ。
何とか自分を励ましていた勇む気持ちが、沈んでいくのを感じながら、
手術ができないという返答だろう。
手術が怖かった気持ちも、唯一だった希望も投げ出されたように
行き所がなく、なんともいえないような思いで二日間を過ごしました。
約束の日に、手術の不可を聴くつもりではいった面談室。
そこで告げられたのは、精密検査の結果、主治医に告げられたよりもさらに短い、母の余命でした。
泣いてもなにも変わらない。
そう思っても涙が止まりませんでした。
慣れている。
そう、いつも母の病のことをきいて、心がつぶれる思いには慣れていました。
だからそれが、とても悲しかった。
さらに事実の説明が必要だったのでしょう。
教授から、生体肝移植をして、(これは母の場合なのか、一般的な話だったのか記憶が定かではありません)血液中にあるウイルスが新しい肝臓に影響を与えた場合、その経過(病気の進度)は、以前よりも早くなると。
そのために、インターフェロン( 当時 /C型肝炎の治療 5-1インターフェロンを基本にした治療)をするが、母にはその適応もないとのことでした。
泣きはらしたわたしに、教授は、
「いま手術をしないことで、今が生きられます」
というようなことをおっしゃったように覚えています。
担当チーム長に、
「母は、手術をしないと言っていました。今日の話を母が聴く必要はありません。手術で体に負担を与えないことが、母の最善だと伝えてください。」
と、頼みました。
退院の連絡が来たという体で、翌日(母のパワーデー)に迎えに来ることにし
その日、わたしは母の病室には行くことなく家へ帰りました。
1時間半の車での道のりは、家に帰って子供たちに泣き顔を見せないためには、
そこそこにいい時間です。
いつものこと、そう、母の病が極まってきて、こんなことはいつものこと、
だから泣きました。
命の期限をどうとらえたか
余命宣告を受けた気持ちは言い表しようがありません。
死がいつも頭から離れない。それは、とても苦しいものでした。
だから、母には知って欲しくなかった。
と言っても、母は自分でいろいろな本を取り寄せて、相当に肝臓病について勉強していました。
それでも、医師から告げられる言葉は、どれほど厳然と感じられるか。
わたしは、母に知らせない選択をしました。
自分の余命を知ることについては、いろいろな意見があると思います。
わたしには、母の病と同時進行で、義父、母の姉(伯母)を介護して看取った経験があります。
その経験を通しては、義父にも、伯母にも、母にも、余命宣告を受けなかったことが良かったと思っています。
わたしなら、どうかと言えば、今の年齢だったら知りたいですし、いわゆる余生と思う時期ならば流れに任せたいと思います。
いずれにしても、逝く人は自ずと自分の流れを感知して、それはある意味自分で決めて逝くというのが、わたしの3人を看てきた経験から思っていることです。
手術をしないという結果
それが良いことだと思うことにしたのは、わたしが手術をしないことになったこと。 手術するとなったらしていたでしょうし、でも本心は怖かったのだと思います、身体の負担も考えていました。いろんな思いは渦巻いていましたが、結果が決まった以上そのなかで、良いことをみていました。
こんなセンシティブな時でしたが、わたしはもちろん当該の大学病院の住所が、わたしのパワーナンバーであることを見ていました。
だから、手術をしても大丈夫。
そして、手術をしないという結論がでたなら、わたしにとって良いと受け取ったのです。
自分が決めたからそれでいい
翌日、退院した母が
「あの病院、わたしの数じゃなかったよね」
と、言い出しました。
「やっぱり、移植手術しない方がいいんだわ。お母さんね割と早いうちに手術しないっておもってたのよ。
それにね、あなたがわたしを思ってくれるように、わたしのためにあなたの身体が傷つくのは嫌なの。」
「それで、延命できないとしても?」
わたしは思い切って訊きました。
「それが、寿命だよ。この1カ月やれることを追求した気がするのよ。移植をしないって決めたことがいいの。出来るかもってぐずぐず思ってても仕方ない。この入院で、なんだか元気になった氣がするし、うちに帰れるのがうれしいよ。今日はわたしのいい日でしょ。今日からまた切り替えるんだよ。」
この頃を境に、母は自分は癌と闘っていないと、切ながることはなくなったように思います。わたしがドナーになるという状況ととことん向き合ったことは、母になんらかの思いがあったのかもしれません。
母の闘病はそれからも続きました。大変なことはたくさんありました。
でも、わたしたちは数を使って、「結果が良い」と進み続けました。
良い面を見出すことに数字がつかえたのは、わたしたちにとっては救いでした。
テレビCMで
C型肝炎は治る病気です。といわれてひさしくなりました。
いま希望を持っている人がいると思うだけで、心底ほっとする思いがあります。わたしには、関係のない病になったけれど
なすすべがないと思っていたあの苦しさを思い出すと、余計にそんな風に思います。(国立国際医療センター 肝炎情報センター より引用5-2. 飲み薬だけの「インターフェロンフリー」の治療)
わたしは、その経験がありませんが肝炎患者であるとかその家族で差別を受けたという話を当時聴きました。
まだ医療関係者の間でも認知が低かったころがあって、看護師さんや医師に勧められ、わたしは何度か肝炎のスクリーニングの血液検査を受けました。
いずれもすべて陰性でしたが、認知がないというのは怖いことです。
(C型肝炎は常識的な社会生活のうえで、他人の血液に直接触れることが無ければ、家庭や集団生活での感染のおそれはほとんどありませんし、握手や抱擁、食器の共用や入浴での感染はありません。)
これはあくまでもわたし個人の体験です
わたしは、伯母や母の介護をする中で 肝臓病の経過についてインターネットでいろいろな検索をしました。
経過の長い病気だっただけにどんな状態が何につながるのか知りたい、そこには居てもたってもいられない思いがありました。それでも、何かを知れば変わるのではないかという淡い期待を持っていました。
この記事は、それを書いた記事ではありません。
何処まで行っても、どうしようもなかったなかで
「数をつかうということ」が少し後押しになった話です。
母が亡くなって、今年で9年目になります。
9という数字には統合という意味があります。時間の流れの中でにこうした話をあきらかにしているのも、数秘を扱う私にとっては意味深く感じるところです。
数秘まりあタイムラインHP
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