なぜ毎日の定点観測写真を撮るのか?/「わたしという絶対」と「揺れ動くわたし」という視点
定点観測の本に感動したのは約20年前です。
それは、いくつかの定点から街の変遷を撮り続けた写真集でした。
動かない定点。
動いていく風景。
積み重なった記録に、圧倒的な時間を感じました。
何十年分もありましたから、その間に詰まった情報は膨大でした。どれだけでも思いをはせることできました。
小説で言うなら、「行間を読む」の行間に当たる部分の奥行きはどこまでもある。
しばらく、読後の余韻が止まりませんでした。
動かない(動けない)定点は、「わたし」を指しています。
文学や、写真や絵画などの作品って、この「わたし」をめぐる表現だと思うのです。
「わたし」の捉え方は、大きく二つに分かれる、ように思います。
1、動かない私(わたしという絶対)から見た周囲の移り変わりを描くか
2、揺れ動く私が周囲からどう影響を受けるか
前者は、小説でいうと、吉本ばななさんや村上春樹さんの作品のような視点、と思います。
後者は日本の恋愛小説や純文学に多いと言いますか、例えはあれですが、うつ病的に病む時の視点といえますでしょうか。いわゆる他者軸です。
他者も自分も、同時に振りまわっている視点です。
両者の視点とも自分の中にあると感じます。
パーソナルな日常は、動かない私と揺れ動く私をどちらも感じながら、折り合いをつけるのが日々です。
でも、作品は、後者を経由しての、前者からのものでありたい、といつも思っています。
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