日本で一番美味しいパウンドケーキの話
そのパウンドケーキと出会ったのは、
釧路川のカヌーの上だった。
2015年7月。初めての北海道、初めての釧路、初めての川カヌー。
そのカヌーツアーは、友人が企画し、誘ってくれた。とにかく、そのツアーガイドである「がってん」氏に会わせたいという友人の誘いだった。
転職と引越しが多い人生ゆえに、
人生そのものが旅のようだという言い訳で、
旅そのものは、あまりしない。
のだが、このツアーは、話を聞いた翌日には申し込むことにした。
旅に奥手な自分の中では、異例の即決だった。
ツアーを知った5月、6月末で退職すべく重圧中の中にいた私には、7月の涼やかな北海道の川の流れに浮かぶカヌーの世界は、夢のようにとにかく光って見えた。
釧路に到着して、その即決は予想を上回る正しさだったと感じた。
釧路に降り立ってすぐから感じた、緩やかにどこまでも広がる空気は、生まれ育った庄内平野のものとも、今住む東京とも、経験したどこの空気感とも、異なっていた。
人より牛の方が多いかも、というのがこのあたりの人口密度、その、のびやかな空間に合わせて、自分の体が、どんどんとゆるんで広がっていくようだった。
釧路川は、日本最大の湿原・釧路湿原の中にある。夏の晴れた日には、大変穏やかで涼しい表情。
そして、旅行の当日は見事に、快晴だった。
到着してすぐに、湖の流れの緩やかな場所で少し練習をして、それからカヌーで川に出た。
カヌーは、人間の原初の乗り物。
川と私の間にあるのは木造の舟だから、乗っていると、水のリズムと自分の体がすぐに同期する。自分の体が水でできていたことを、実感する。
水に揺られていると、脳の中の、色々な声が、気が付くとすべて止んでいる。
水に触れなくとも、水に揺られるだけで、脳の中に澱のように溜まった言葉の端や、思いの残像みたいなものが静かに洗い流されていく。
川には川のリズムがあって、逆らわないで、流れと水の力を利用してカヌーを進める。
二人ペアで漕ぐ。
二人で、流れに乗る。
少しコツが必要で、慣れてくると、それが、ひょいとできるように、なってくる。慣れるまでは少し難しい。
パドルの漕ぎ方に、その人の性格が出ているような気がするねえと、水と同化しているかのような、がってんが楽しそうにいう。
水の上は、
夏の土の、香木のようないい香りと、
水面だけに抜けていく爽やかな風と、
川の流れる音と、4槽のカヌーのパドルから聞こえる水音と、鳥の声と、
あるのは、それだけだ。
漕いでいくと皆、無口になる。
自分の中も、水に揺られて無音になっている。
絶え間なく、漕がなくてはならないから、体は水と共に動いている。
そうやって、数時間漕いでいると、自分の体が、一枚、何かを脱いだみたいな状態になる。
会社を辞めた後の私は、保障ないフリーランスになる、ということだけ決めていた。
長い会社員経験の私にとってそれは根本的な部分の恐怖でもあってフルストレスでもあった。
会社員は、ゼリーのような保護膜だった。
その外にある社会は、見知らぬものだし、敵のようでもあった。
ゼリーは、鎧みたいなものでもあった。その、鎧を、川の上でいつの間にか脱いでいた。
という体感が出始めたあたりで、川の中洲で休憩になった。
その休憩で、パウンドケーキが差し出された。
ガッテンの奥さんのさなえさんが作ってくれたパウンドケーキだった。
一口食べて、うわ、っと体が反応した。
私の祖父は、パウンドケーキを作る人だった。
小さな田舎で呉服屋をつぶした祖父は、そこにいられなくなり逃げるように田舎を脱出し、しかし憧れでもあったのであろう東京に向かい、謳歌するように東京で働き、遊んだ。
その後20年ぐらい経って、ふらりと祖母の元へ帰ってきたという素性。
お菓子が大好きで大好きで、東京へいる間に、有名な菓子店を巡って歩き、自分でレシピを作り、好きな時にお菓子を作った。
好きは高じて、レシピを近くの菓子店に譲ったり、地元の新聞にお菓子紀行のような小さな連載を書いていた。
糖尿病と大腸がんで死んだ。
テレビでやる数十年前から、おめざ、という習慣を、祖父は持っていた。祖父は庭仕事を終えた後の、小さな頃の私は朝起きてすぐの、朝ごはん前の、お菓子とお茶。
祖父の家に泊った時だけ遭遇できる、特別な儀式だった。
丁寧に、ゆっくり入れたお茶とともに
出されるお菓子は、いつもほんの一口だった。
お菓子を美味しく食べることができるのは、一口。
だから、どんなに美味しいお菓子も、絶対に一口。
どんなに子供が懇願しても、その量以上は、出さない。
そこには彼の美学があって、美味しくないことと、粋ではないことに、非常にうるさかった。
祖父のくれるお菓子は、禁断の味として、絶対的美味しさとして、記憶に残った。
そんな祖父の作るパウンドケーキは、子供ながらに本当に美味しかった。
何年も漬け込んむ果実酒や、
手順と時間をたっぷりかけて作ったジャム、
祖父の作るお菓子や食べ物は、大体そのような感じだった。時間と手間とが必ず入る。
子どもながらにどのお菓子より美味しかった。その中でも、パウンドケーキは、絶品だった。
次も一口食べたくなる食べ物、というのは、本当に控えめな優しい味をしている。身体にすっと溶けて、口の中でよくなじむ。舌が喜ぶような後味が残るって、身体が満たされていく。元気になる。
という、祖父のあのパウンドケーキの味を、30年ぶりに、思い出したのだ、釧路川のカヌーの上で。
味って、記憶にとどめておくことができないように思っていた。
でも、一気に思い出した。身体は味覚も保管するのだった。
それぐらい、祖父のパウンドケーキの味に似ていた。
というか、祖父の思い出を差し引くと、祖父のパウンドケーキより美味しいかもしれない、と思った。
あまりの記憶のよみがえりに、その夜のキャンプ時に、がってんにこの思い出の一部始終を話す。
祖父は、私があまりにパウンドケーキを好きがり(それでも一口以上は絶対にくれなかったが)
何度もリクエストするので(それでも1年に1度ぐらいしか焼いてくれなかったが)
死ぬときに「レシピを残しておいてやるから、探しな」と言い残して死んだ。
でも、レシピは出てこなかった。
というか、祖母が、祖父の遺品に触らせなかった。
私はだからといって、パウンドケーキを再現しようと思ったことはなく、代わりに、パウンドケーキを見つけては購入する、という方を取った。
だが、世の中の、ほとんどのパウンドケーキは残念ながら、味がきついと感じていた。
同じ感覚のパウンドケーキは、世の中にないのかもなあ、と思っていた。
なのに、北海道の、川の上で会うとは。
興奮して話す傍らで、がってんは、私の同じように興奮した人に、銀座で二つ星レストランをやるシェフの方がいたと教えてくれた。
同志!私はそのシェフに、もう、がっつり握手をしたい気持ちにかられた。
そのように美味しいと言ってくれる人がいて、だから1年のうち、1か月間だけ販売しているんだよ、パウンドケーキ、と教えてくれた。
半年後、私はようやく待ちに待って、そのパウンドケーキを注文した。
注文をする中でメールでやりとりをした、作り手のさなえさんは、本当に素敵な文章を書く人だった。
料理が上手な人に、いい文章を書く人が多いのはなぜだろう。
-20度を下回る、空気も凍ってきらめく、美しくも厳しい冬の釧路の景色、鼻毛やまつげが凍る中、薄着で学校に通う子供たちの事、
読んで目の前に広がる風景。美しい短編小説のようだった。
そうだ、手紙とは、こういうものだった。
仕事の殺伐としたメールに慣れていた私は、パウンドケーキの味だけではなく、小説を読んでいる時の満たされる心持も一緒に取り戻した。
久しぶりに、手紙の嬉しさに心が躍り、私たちはとても長い、往復書簡をやりとりした。
そのようにして焼いてもらったパウンドケーキは、当然、本当に美味しくて、美味しくて、山形の両親、東京の妹と友人、皆に少しずつ、おすそ分けした。
うちの家族には、
「日本一美味しいの、やっと見つけた、おじいちゃんのより、多分美味しい」と一言添えて。
私の家族は、おじいちゃんを筆頭として、全員が料理にはたいそう手厳しく、褒める、ということをめったにしない人たちだし、全員が好物が違うので、同じ食べ物を褒めるということはあまりないのだったけれど、
狙い通り、この味のすばらしさは、彼らの心をちゃんと溶かして、何度も言うが本当に珍しく、全員が美味しいと言った。
後味が優しくてするっと、一切れ食べてしまえる。
でも、一切れで、ちゃんと我慢する。
美味しいから食べ過ぎないように、冷蔵庫の奥に、急いでしまってしまう。
でも翌日になると、また、一口食べたくなる。
食べて翌日、母からすぐに連絡が来て、
また二週間ほどたって、父がそう言った、と母から伝言を受けた。
よほど美味しかったのだと思う。
祖父のパウンドケーキの話は、家族の誰も、しなかった。
(変わり者の祖父をそのような方法で慕っているのは私だけであった)
でも一切れで、すっと止めるのは、きっとうちの家族の食べ方だと思う。
祖父の、美味しいものは少しだけ、
という食べ方ごと、みんな思い出したのだなあと密かに感じた。
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