それはきっと、“凪“の様に穏やかな始まり
「お散歩ですか?」
玄関前でそう声をかけられたとき、心がゆるっとほどけていく心地がした。
ずっと家から出ない日々が当たり前で、それでいいと思ってさえいたのに。
少しでも早く、とカメラをひっつかんで靴をひっかけようとしていた自分が可笑しくなってしまったから。
*
なんだか、息苦しかった。
ずっと。
朝、出勤時間30分前にもがくように布団から出る。
それから、適当に身支度を済ませて、部屋に戻ってPCに向かう。
休憩時間に窓の外をちらりと見やっては、今日は空が青い、もうすぐ日が暮れる……を何度も繰り返していた。
夏は快適な空間にいられるし、満員電車にだって乗らなくたっていい。退勤したら、プロ野球中継までたった1分。
悪くない。
きっとこんな生活も悪くない。家から出なくたって仕事はできるし、窓からいつでも空は見える。
でも、
心地よくはなかった、のだと思う。
自律神経が乱れていたのか数ヶ月単位で体調を崩していたし、散歩どころか外に出る気力もなくなっていたと気づいたのは9月のこと。
ずいぶん心も体も止まっていた私に、夏よりずっと柔らかくなった風が秋を教えてくれる。
「そろそろ動く頃だよ」
*
きっと、この時期だ。
なぜかそう思うのが分かっていたかの様に。
寸前に入った仕事と格闘するPCを追加して、いつもながらずしりと重いスーツケースを引きずって、「やっぱり我慢ができなくなったね」って思いながら外へ出る。
行き先は、やっぱり「海が見える街」だ。
*
夕方16時。
バスが左に曲がると海沿いに出る。
傾きはじめた太陽が、海の一部を黄金色に染め始める。向こう側は青い世界が広がっている。
それでも、つやつやのゼリーみたいなエメラルドグリーンの南国の海とは違う。
淡く優しい水色。海って波はないんだっけ……?とふと思うほど、湖みたいな穏やかで。
周りの島と、絵の様な景色。
何度見てもきらきらと白く輝く水面は美しくて、この街で暮らす、ってどんな日々なのだろうって目の前の家を羨ましく眺めてしまう。
*
素敵な場所を堪能する間も無く、心にひっかかっていた仕事を大慌てで片付けにかかる。
タイムリミットは夕方17時半。
だって、どうしても、どうしても見たい。
瀬戸内の山の端に落ちていく夕日を。
眩い橙色が、淡い紫がかって、それから深い青に変わっていく、あの贅沢な時間を。
*
17時45分、私は答える。
「はい、夕焼けが見たくて」
この日の終わりは、まどろみと優しさにあふれた旅の始まり。
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