どこもここじゃない
久々に午前中に起床したので、いつも通りPS5のスイッチをオンにしたのだが、「今日は外に出られるんじゃないか?」という少しの活力が湧いたので、急いでお風呂に入って化粧をして、京都に行った。
お風呂からあがる、階段を上がる、髪を乾かす、服に着替える、トイレに行く、スマホを失くす、階段を登り降りして探す、の過程で、汗をかいて、息がゼエゼエと上がる。こんなことなら外に出ないほうがいいんじゃないかと思うほど疲れる。
それでもなんとか電車に乗る。日曜日なので人が多い。息が止まりそうになる。
京都のシーシャ屋にいく。緊張感がとれず、吐きそうになるが、スマホでテレビを見ることで、他人のことを見ないようにする。
それから、前々から気になっていたセレクトブックストアに行く。6時すぎで真夜中のように暗くなった三条、狭い本屋には5人ほどの人間が立ち読みしている。
セレクトブックストアは思想の宝庫だ。反戦、精神病の作家、映画、クィア、社会問題。高校生の頃だったら心が沸き立つような気持ちになった本たちが、今では枯れて見える。
10代の頃、私は精神病であることが、ある種、江戸時代の目病み女のような、美点の一つであるような気がしていた。
周りに、自殺について語る友達も、家庭に問題にいる友達もいなかった。私だけがはみだしもので、肩を並べて会話できるのは、太宰やドストエフスキーだけだと思っていた。それが若さだった。
大人になってみると、悲惨な生い立ちの人や、心の病気なんてありふれていて、今となっては、ADHDやHSPなんて流行語で、日本人の半分くらいは、私と同じだということがいやでもわかってしまった。
こんな寒い日の夜中に、狭いサブカルチャーブックストアに5人も客がいることが、その証左のように思えた。
私は立ちくらみがして、吐きそうになり、すぐ書店から出た。躁鬱病だけど、作家になりました、発達障害だけど、文学賞を取りました・・・だったら、私は何?作家にもなれず、なる努力もせず、自分の世界から出ることを拒み続けて、それでも、「私のような人間は、他にはいないんだ」と信じ続けることで保っていた自尊心は、もうどこにもなかった。
帰りに鴨川から三条京阪に乗った。
今日は朝からずっと嵐の曲を聞いていた。どちらかというと私はジャニーズ(今はスマイルアップか)よりkpopや洋楽派だった私は、ジャニーズを好んで追ったりしてはいなかったけど、平成中期が青春期だった女は、誰でも、いやでも嵐の代表曲が口ずさめる。ちょうどKAT-TUNがデビューした小学生の時から、嵐とKAT-TUNはまさに女子児童のスターだった。
KAT-TUNの中でも人気だったメンバーがまさかの結婚で脱退した頃から、人気は嵐に集中した。
大阪では関ジャニ∞も人気だったが、彼らはどちらかといえばコミックバンドで、正統派のアイドルソングを立て続けにヒットさせていたのは嵐だったと思う。
好きでも嫌いでも男でも、嫌というほど聞かされる、もはや軍国時代の君が代、それが嵐の曲だった。彼らは受験生や学生向けの応援歌のような持ち曲も多く、それが余計に学生に好意的に受け入れられた。
学年のマドンナ、めちゃくちゃ美人「新曲のさあ・・・Monster、いいよねぇ」
私「え?Monster、レディ・ガガの?」
(レディ・ガガにもMonsterという代表曲がある)
マドンナ「え?嵐に決まってるやん」
私「あぁ〜」
スクールカーストの頂点からアウトカーストまで貫く女子学生の耳と目のお供、それが嵐だったのだった。
あのときみんな大好きだった櫻井翔もとっくに慶應大時代からの彼女と結婚し、他のメンバーも、(松潤除き)次々結婚した。なんだか感慨深い。
公務員時代、あまりに無能だった私は、役所のお使い役だった。つまり、電池とか、掃除機とか、ちょっとしたものを、安く買える地方のショッピングモールで買ってくるのだ。当時から仕事が嫌で辞めたかった私は、お使いを頼まれると、ショッピングモールへ行けるとなると、そこで電気屋を覗いたり、本屋を覗いたりして、はやく時間がすぎることを願っていた。その時、ショッピングモールの電気屋のテレビから、嵐が歌っているステージが流れてきた。二宮主演の、野球ドラマの主題歌の『GUTS!』だった。
人は誰も弱いものさ泣いてるんだよ
雨は上がり 幕も上がり 僕らは誓う
VIVA青春 咲き誇れ 全てを変えられるさ
イチニのサンで さあ走り出せ やりたいように突き進めVIVA青春 声上げろ
まだまだ諦めるな
どんな小さい希望でも
明日のためのエール
青春ドラマ用に書き下ろしたようなベタベタな応援ソングだが、音楽のことはよく知らないが)なぜだか泣かせにきているようなコード進行で、メロディアスな曲に、ひねくれ者で人気者が嫌いな私も、純粋に「ああ、イイ曲だなあ。やっぱり嵐はトップスターだな」と、自分の置かれているミジメな状況もあいまって、何故か泣きそうになった。
見ていないと全国の学校でハブられたあのドラマ、『花より男子』の主題歌(ちなみに私は一度も見ていないのでストーリーを未だにわかっていない)、『Love so sweet』や、もろに受験生を客層にした『サクラ咲ケ』など、嵐は、ひねくれ者でも思わず「いい曲だなあ」と思わせる曲がある。嵐は、顔がいいとか話が面白いとかの前に、私にとっては、「いい歌を歌う、変なダンスを踊る人たち」だった。世代が違うと、「でも、どうせアイドルじゃん・・・」って感じだろうし、まあ、彼らは作曲にも関わっていない上に特に歌がうまいわけでもないので、そのとおりなのだが、平成の女子学生にとってのビートルズ、QUEEN、みたいな存在だった気もする。(両者は作曲してるので格は違うけど)若くてかっこいい男の人が、いい曲を歌っている、それだけで地獄のような学生時代をなんとかやりすごした女の子たちはどの時代にもいるものだなあ。
サブカルチャーブックストアという、「自分探し」の場所、そこには双極性障害や、マイナーな東欧映画や、難解すぎて解説すらよくわからない立派な哲学書の中には、もはや私はなく、国民がみんな聴いていた懐かしい嵐の曲に、私は少し、自分の居場所を思い出していた。ある意味で、この世に戦争や貧困や差別や労働のつらさなどないかのような、夢物語、ただひたすら恋愛や友情の素晴らしさ、楽しさ、切なさだけを歌っているアイドルの歌のほうが、今の私の吐き気がするような悲惨な状況から、逃避させてくれるのだった。