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12月 留学報告書

 この1ヶ月はその前の月に比べると、何か特別なことがあったわけではないのですが楽しかったです。今までよりも自然体でいられた気がします。周りの友達や先生、ホストファミリーなどに少し甘えられるようになってきました。しかしながら、報告書に書く内容が思いつきませんでした。したこと、あったことに関してはまだしも、最近考えていること、感じていることは書いてしまうと、先生たちは読んでいてどうしていいかわからなくなると思うので書きません。秘密です。ただ、それは悪いことではなく、日本に、岡山にいた時の澤田まりあのように、ありのままで過ごせている証拠だと信じています。街のライトアップを見に行ったり、ダウンタウンで友達と遊んだり、充実した毎日を過ごしているので安心してください。
 でもせっかくなのでカナダに来るまでの2023年の振り返りをします。2023年はとにかくじっとしていなかった、動き続けた1年でした。
 今年が始まったときは17歳、高校2年生でした。2022年に親友だったクラスメイトと絶縁した後、その子と被っている授業に行かなくなっていたので、毎日学校には行っていましたが、午前だけ、2時間だけと、半分不登校になっていました。もちろん半分以上の単位を落としたので、3年間で卒業することは無理だということももう分かっていました。そんな中でも絶望なんてことは全くなく、カナダ留学が決定し、準備と期待で大忙しでした。
 年度が変わって4月からは、毎日フルで学校に行くようになりました。それでも私の時間割は少し変わっていて面白かったです。1つ下の学年に1人だけ入れてもらって授業を受けたり、大量に体育の授業があったりしました。嬉しかったのは、年が違うのに仲良くなってくれた友達がいたことや、授業がつまらなくてもなぜか学校が楽しいと感じられていたことです。
 小学3年生から、毎年最低でも1人の先生とバトルを展開し、母親が学校に来るはめになっていましたが、高3では諦めることをなんとなく習得しました。理解しない、成長しない大人もいます。それでも毎年母親には迷惑をかけました。もし将来自分の子どもが同じようなことをして呼び出されたら、嫌な顔ひとつせず何回でも学校に行こうと思います。
 2023年を語る上で外せないのは、生理革命委員会の活動です。2022年に大きくなり始めたこの活動は、夏にはNHKのテレビ特集になっていました。様々な立場の大人に会い、がっかりしたり感動したりして、自分がどんな人間になりたいのかじっくり考えました。そして何より、一緒に活動したメンバーに、信じられないくらい恵まれています。もともと誰かと一緒に計画を立てたり実行したりするのが得意ではなく好きではありませんでしたが、あの2人とだから、こんなにもスムーズにできたのだと確信しています。とんでもなく素敵で個性的な人たちで、2人のことが大好きです。メディアに出ることで楽しいことも面倒臭いこともありました。でもお金を払ってできる経験ではないし、より客観的に物事を見る力をつけられたと思います。
 今年の2月ごろにトビタテに応募しました。1次審査は〆切ギリギリにほとんど徹夜で提出しました。2次審査の時には、プレゼンをするために母が広島まで連れて行ってくれました。少しでも目立とう、覚えてもらおうと思って、フル防具で面接会場に入りました。控え室が和室で、あぐらも正座もできずにひとり苦しみました。4月に採用結果を見て1番喜んだのは母でした。喜んだと言うよりは安心の方が正しいかもしれません。私費留学には多額のお金がかかります。返済不要の奨学金は本当に助かります。6月の事前研修もとても楽しかったです。目立ちたがり屋が出てしまい、気がついたらステージで話していました。今まであまり会ったことないタイプの友達ができて嬉しかったです。
 たくさん旅をした1年でもありました。3月は1人で福島県南相馬市に行って、久しぶりに原発事故の被災地を見てきました。離れた場所で暮らしていて、メディアの報道を見て復興は進んでいるのだと思い込んでいた私は、街のあまりの静かさにショックを受けました。人と建物が少ない大通りを歩いていると、住んでいる人たちのプライドと意地、悔しさと寂しさがなんとなく伝わってきました。住んでいる人たちはみんな頑張って生きていました。お魚屋さんはとても親切で、いっぱいおまけをくれました。でももっと国が何かできるはずだと思いました。
 そして3月後半には、1人で千葉県松戸市に行きました。私が3歳ごろから小2の終わりまで住んでいた場所です。インスタで松戸の小学校で同級生だった友達と連絡が取れたので、すごく久しぶりに再会しました。昔と比べて変わった人や全く変わっていない人もいて、意外とみんなが私を覚えていてくれて、不思議な感覚でした。自分にとっての故郷に帰って懐かしい人たちに会えたことは嬉しかったですが、なぜか今そこに住みたいとは思いませんでした。岡山での人間関係や生活が、今の自分にとって大切な存在になっているんだと気が付けたことも良かったです。
 4月から、弟が新潟の寮がある高校に入学しました。小さい頃からいつも一緒にいた2人で、私が小学4年生、奴が小学2年生のときは毎日家の中で戦争していましたが、その後段々収まり、どんどん仲良くなっていきました。性格の相性がいいこともあると思いますし、音楽や映画、読んでいる漫画の趣味がかなり近いこと、2人とも社会問題に不思議なほど興味があることで、親友のような存在です。いなくなって母親と2人きりで住むようになって、とても寂しかったです。インスタのDMやLINEで連絡を取っていましたが、彼は何かにつけていつも家にいた人間だったので、いなくなったことに強い違和感を覚えました。6月に、トビタテの事前研修で東京に行く前に新潟に行って、弟の文化祭と体育祭を見学しました。そこでは彼はたくさん友達ができていて、大好きな合唱を楽しんでいて、本当に生き生きしていて嬉しくなりました。しかし心配なのは、岡山の実家の奴の部屋は芸術的なほど混沌としていたことです。一体寮の彼の部屋はどうなっているのでしょうか。とても気になります。
 7月は親友に会いにまた松戸に1人で行きました。保育園のときからの仲で、私が岡山に引っ越してからは年に1、2回会うだけですが、会うととても安心します。友達は多い方ではないですが、何人かの最高の親友がいることが自慢です。
 8月は岐阜の山奥に住んでいる知り合いの家に家族で行きました。夏と冬によく泊まりに行く場所です。いい意味で変な人で溢れかえっている空間が大好きです。その直後に1人で沖縄に飛びました。那覇に母と離婚した父が住んでいます。73歳と高齢のため、カナダ留学の前に会っておこうと思ったからです。相変わらずぶっ飛んだ人で、父親というよりは面白い親戚のおじさんという感じがします。信じられないくらいピンピンしていて安心しました。このたくましさが自分のDNAに入っていると思うとまるで自分が強い人間かのような気がします。
 8月末には、毎年恒例の母のコンサートがあったので大島青松園に行きました。コロナ禍でたくさんのことができなくなったのに、諦めずに島と関わり続けた母を尊敬しています。この島には小さい時から通っていて、よく知っている大好きなおじいさんおばあさんたちがいます。きっともうすぐ会えなくなってしまうけれど、私がたかさん(入所者のおじいさん)を忘れないように、あの島も歴史も忘れられないで欲しいと願っています。
 カナダのクリスマスは日本のお正月のようなものなので、ほとんどのお店が閉まっています。イブにはホストマザーの親戚の家のディナーに行きました。ウクライナの家系なのでウクライナの伝統的な料理を食べました。いくつかの料理は気に入ったけれど、苦手な味と食感の料理もありました。あまりにもびっくりしてホストブラザーやシスターを見ると、彼らはもう味を知っているので、苦手な料理は取り皿にも取らずにパスしていました。先に教えてくれなかったので少し睨んでしまいました。25日にはホストファミリーから大量のプレゼントをもらってしまって驚いています。まるで本当にこの家の子どもかのような扱いをしてもらえて本当に幸せです。
 落ち着かない1年だったにもかかわらず、ずっとホッケーをする環境に恵まれ続けたことに感謝しています。カナダに来てからは小さい子どもと接する機会が激減しているので、岡山の生意気なホッケーキッズたちが恋しいです。2024年をどんな1年にしたいかはわかりませんが、とにかくホッケーをはじめとする自分がやりたいことができればいいなと思います。

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