1月 留学報告書
カナダでの初めてのクリスマスが終わって年越し、正月を過ごしての正直な感想は、日本の大晦日、正月の過ごし方の方が好き!です。クリスマスはまだイベントや用事がたくさんあって楽しかったけれど、年越しと正月はほとんど何もすることがありませんでした。まずお年玉がありません。ダメージ大です。ホッケーもなく、一般滑走もなく、お蕎麦もお餅もおせちもなく、家族ぐるみで遊びに行ったり来たりすることもありませんでした。現地の人々は新年パーティーという楽しみがありますが、留学生の私はパーティーに行くと日本に強制送還されてしまうのでただただ家で寝ていました。(120%パーティー会場にはお酒かドラッグ、もしくは両方があるので留学生は行くことが禁止されています。)おかげで悲しいことに正月太りすることも、夜更かしして不健康ライフを楽しむこともできませんでした。
そんな中、年越しの寸前に能登半島で起きた地震のニュースを知り、自分の経験や記憶と重なり気が気ではありませんでした。特に弟が新潟の寮から岡山に帰省していて、すぐに電話して安全だと確認できたことに感謝でいっぱいでした。
冬休みが明けて1週間ほど経ったある日のEarth Scienceの授業で、直接何かをされたわけではないけれど、クラスメイトの言動に傷ついて大泣きしてしまったことがありました。
授業で津波の映画を観ていたときの周りの人たちが自分にとっては信じられないような冷たい反応をしたので、先生に言って教室を出て、Mrs.Bがいるホームルームに行きました。映画はイギリスのもので、私が好きな俳優も出ていましたが、私はもともと怖い映像を見るのが好きではないので好きになれませんでした。その映画の中での津波の描かれ方は現実に比べるとそこまで残酷ではありませんが、人や動物が死んでいくシーンはあります。一緒に観ていたクラスメイトたちは、まるでアクション映画かのように楽しんで、時にはおもしろおかしい事を言って、全くもって映画のマイナスなムードがありませんでした。先生もそれを止めませんでした。
私にとって津波は、たとえ作り物の映画だとしても楽しめるものではありません。2011年の東日本大震災の時、私は千葉県松戸市に住んでいました。津波の影響はなく、私も幼かったのでその当時特に辛かった記憶はありません。しかし、3年後、私は家族で岡山に引っ越すことになりました。原発事故の影響や、震災に関係のない事情も重なってのことでした。丁度小学3年生になるタイミングで、友達や学校の先生たちなど、大好きな人や場所から離れるのは悲しくて辛かったです。また、私は岡山に引っ越す前まだ千葉に住んでいた頃、母と弟と一緒に東北の被災地を見に行ったことがあります。震災の1年後で、まだ町には誰もおらず、津波で壊れた建物がそのまま残っていました。窓が全部ぶち抜かれた学校や、跡形もない駅があったと言われる場所を見て、もし地獄があるのならこれがそうなんじゃないかとさえ思いました。その場所で、息子と夫を亡くしたという女性や、ペットの犬を置き去りにできなかった妻を亡くした男性など、全てを失ったように感じるほど悲しみの中に生きている人たちに会いました。その時から、私にとって地震、津波、震災は他人事ではなくなりました。私も当事者だということに、後になってから気がつきました。
今日同じ教室で一緒に映画を観ていたクラスメイトたちに悪気はありません。普段はよく話す仲のいい友達です。彼らはただ自分たちが思った事や感じた事を、いつものように言っていただけです。それが分かっていても、その部屋で私はひどく孤独に感じて、悲しくて辛くてその空間から逃げたいと思いました。だから逃げました。我慢する意味はないと思いました。先生に退室することを伝えて廊下に出た途端、涙が止まらなくなっていました。ホームルームに着いてMrs.Bの顔を見たらまた泣き出してしまいました。先生と友達が心配してくれて、優しい言葉をかけてくれて、日本のお菓子までくれたので、お昼には立ち直ることができました。
昼休みに母が電話をかけてきてくれて、40分ほど話して、気持ちを整理して、少しだけ客観的になれました。今回のこの出来事はアンラッキーだったけど、決してアンハッピーなだけじゃなくなりました。
泣いている間、私は自分のことを被害者だと思っていました。そして、カナダの人たちも何か過去や現在に辛い出来事があるかもしれないと必死で考えていました。そうすることで気分が楽になると思ったからです。でも見つかりませんでした。過去にしても現在にしても詳しい歴史を知っているわけでも毎日新聞を読んでいるわけでもないからです。カナダの人は辛い自然災害の経験がないから、あんな反応をしたんだ。たまたまそこにいた自分がアンラッキーなんだと思い始めました。
ところがその考えは少し視野が狭いものだと、母と電話していて気がつきました。母は私の話を最後まで聞いた後、でもあなたも同じことしてるかもよ、気がついていないだけで。と言いました。ハンセン病の日本での隔離政策で生まれた人々の偏見や元患者の人たちの様々な思い、関東大震災の際に起こった朝鮮人虐殺がなかったことにされている事、第二次大戦の従軍慰安婦問題を無視し続けている現状など、日本が、日本の人たちが気がつかないうちにしてしまったことを思い出しました。傷ついた当事者の人たちに寄り添うことは、誰もがしようとは思っても、完璧に漏れることなく気を遣って暮らすことは簡単ではありません。言葉や仕草がほんの一瞬で、その人たちへのリスペクトを欠いて、傷つけることがあるからです。日本の人たちが加害者になった歴史は知っていたのに、自分が泣いているときは忘れてしまっていました。価値観の違いはちょっとしたささいなものなので、必ずしも加害者と被害者が相互に成り立っていないことがあります。でも周り回って自分がしていることが返ってくることがあるように思います。
今日の様に傷ついて周りが見えなくなっていると、人は誰もが自分が一番かわいそうで不幸で辛いんだと思いたがります。時にはそう思ってしまう方が楽な場合もあるかもしれません。でも私はここで踏ん張って、落ち込みすぎないことにします。自分が今日傷ついた様に、傷ついた人、弱い立場にいる人たちに寄り添える優しい人間になりたいと思うからです。優しいか優しくないかだったら、どちらかと言えば優しい人間になりたいです。私のクラスメイトたちが優しくないという意味ではなく、私自身が気づける、そして思いやりを持って動ける人でありたいです。そうしていれば、私の周りも優しい人が増えるはずです。今回は辛かったけれど、乗り越えつつあるので自分がまたグレードアップしたような気がします。日本は小さな島国なので、良くも悪くもみんなが同じような価値観、感覚を持っていて、今まではそれに守られて当たり前のように過ごしていました。でも私はこれからも他の国で暮らしたり他の国の人と関わったりして生きていきたいので、今回のようなこととはこれからもたくさん向き合わなければいけません。傷ついて泣いたり落ち込んだりすることは悪いことではないので、また同じようなことがあるかもしれないけど、頑張ってその度に立ち直ろうと思います。
最近は楽しいことがいっぱいありました。近くの池が凍ってスケートリンクになったので、人生初の天然リンクで滑りました。そこにいた人は全員がホッケープレーヤーで、ホッケーのゴールもあって、ミニゲームをやっている子どもたちや友達で集まってパスをしたりハンドリングをしたりしている人たちを見て、ホッケー人口の多さに改めて感動しました。雪もたくさん降りました。庭でホストシスターのElenaとかまくらのようなものを作ったり雪合戦したりして遊びました。驚いたのは、かまくらを作った直後に壊すことです。日本だったら次の日までそのままにしておいてただただ溶けるのを見守っているのに、カナダの人はすぐに破壊してしまうのが常識のようです。あと、人生初のスキーに行きました。スキー場でバイトしている私のホッケーの友達が連れて行ってくれました。スケートができるからなのか、初めてとは思えないほどセンスがあってすぐにターンもできるようになりました。飲み込みの早い自分が好きです。ストップは日本で言う八の字がPizzaなので、私の友達は永遠に”Pizza!!”と叫んでいました。
留学期間が半分過ぎました。来てからずっと寒いので早く春になって欲しいです。ちょっとずつ今後のことも考え始めていますが、考え過ぎるとうんざりしてしまうこともあります。自分がなりたいものに少しでも近づけるように、でも無理しないように頑張ります。
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