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10月 留学報告書

 10月になって一気に寒くなってきました。この地域では乾燥した夏と湿った冬が気候の特徴です。最近は雨がたくさん降っています。どういうわけか、傘をさしている人はほとんどおらず、レインジャケットを着ている人もいますが、普通の服のまま雨の中を歩いている人がたくさんいます。私は傘をさして歩きたいのでホストファミリーに傘を貸してもらっています。ジャンプ傘だけど上手くいく時といかない時があるので、日本のコンビニのジャンプ傘のクオリティの高さを思い知りました。
 ここのところ学校と家で気になっていることがあります。それは先住民族、いわゆるインディアンと呼ばれていた人たちや、LGBTQの人たちの扱いと、それについての友達の考え方です。
 カナダには2021年に始まったNational Day for Truth and Reconciliationという祝日があります。ヨーロッパから来た開拓民が先住民族の人々へしたことを反省し、真実を伝え、これからの共生に向けた動きのための日だと学校の先生が言っていました。別名をOrange Shirt Dayと言って、先住民族の子どもたちを親から引き離して寄宿学校に行かせていたときに、ある女の子が着ていたオレンジのシャツを取り上げられたことに由来しています。寄宿学校は同化政策の一部で、教会が運営していました。その環境は劣悪で、食べ物も少なく栄養が十分ではなく、たくさんの子どもがなくなりました。しかしきちんとした埋葬が行われず、学校の周りにただ遺体が埋められていたことがわかりました。その数は4000人にものぼり、実際に亡くなった子どもはさらにたくさんいたと推測されています。祝日が制定されてからは、学校では先生がオレンジのシャツを着ていたり、生徒は先住民族について授業で学んだりします。私が一番衝撃を受けたのは、最後の寄宿学校が閉鎖されたのが1996年だということです。カナダは人権を尊重している印象を持っていたので、遅すぎるということには驚きました。
 国としての動きは先住民族の文化を尊重し、和解の方向へ向かっています。しかし、私の友達やホストファミリーと話していると、全員が全員その方向に向いてるのではないということを感じています。
 例えば、私が通っているCowichan Secondary Schoolは、現在新校舎が建設中です。場所はすぐ隣のような近くで、とても大きいです。その新校舎のデザインがOrange Shirt Dayに全校生徒に向けて紹介されました。まず名前が変わります。CowichanからQuw’utsunと、より先住民族の人たちが使っていた言語に近い発音です。キエフがキーウになったときを思い出しました。デザインは先住民族の伝統的な家屋のつくりを取り入れていて、色や素材が特徴的です。それと各教室のプレートに先住民族の伝統的な絵画が使われています。北海道でアイヌの博物館に行ったときに見たものと似ていて、サケやトリの絵です。そして学校の中には先住民族のお年寄りが住むスペースがあります。シャワールームから冷蔵庫まで揃っていると言っていました。
 その説明があった日の授業で友達と話していた時、ある女の子が「Quw’utsunなんて呼ばないから!カウハイ(学校の愛称)はカウハイだから!」と先生に言っていました。先生は「はいはい」というかんじでそこまで気にもとめていませんでした。家に帰って、同じ高校に通っているホストブラザーが夕飯のときに新しい学校のことを話し始めると、「ほんとに頭おかしいデザインだし、Quw’utsunなんて呼ばないし、学校にお年寄りが住んでるなんて意味わかんない」と言っていました。
 今の学校には先住民族のデザインはあまり多くありませんが、LGBTQの人たちを尊重するためのデザインがどこでも見られます。例えば、校舎と校舎の間にある渡り廊下はレインボーにペイントされています。それはレインボークラブの人たちがしたものです。廊下も教室もレインボーの旗や、トランスジェンダー、ノンバイナリーのスティッカーや旗で溢れています。ホストシスターとブラザーはよく、「全てをレインボーにする必要なんてない!渡り廊下がレインボーなんて気持ち悪いしダサい」「なんでもレインボーにする意味がわからない」と言って、マザーになだめられています。
 私から見た先住民族の人たちは、やっぱり少し変わっています。先住民族の生徒は、アジア人よりの見た目をしていて、着ているものが少し清潔感がなかったり、髪型が不気味だったりします。そして授業に来る生徒もいれば来ない生徒もいて、授業には来ないけど学校にはいて、廊下や階段の隅で座ってじっとしています。外でスピーカーで大音量で音楽をかけながらたむろしたり、急に知らない人に話しかけたりしている人もいます。全体的に近寄りがたい雰囲気で、フレンドリーとは言えません。LGBTQの人たちに関しては、見た目で分からない人もいるし、特に変わっているようには見えません。
 カナダと先住民族との関係性の構築過程を見ていますが、本当にこれで正しいのかわかりません。先住民族の生徒とそうでない生徒が一緒に話しているのを見たことがないし、先生の扱いもこれに関しては曖昧です。もともと学校に来る文化のなかった民族の人たちが学校に来ているわけなので、本当に来るのが彼らにとって必要なのか、幸せなのかもわかりません。もちろん開拓民が先住民族にしたことは間違っていますが、政府、学校のやっていること、言っていることと、それを受けている生徒、子どもたちの反応がずれている気がします。一部の大人が突っ走っていて、子どもたちを置いて行っているように見えます。今のまま学校に先住民族の生徒とそうでない生徒が一緒にいても、子ども同士の溝は埋まりません。当然、その子どもが大人になって埋まるとも思えません。よく”They’re so weird.”という言葉を聞きます。生徒たちは全体的に先住民族の存在を良く思っていません。「真実と和解」のその先にどうなることがゴールなのかが見えません。これ以上傷つけてはいけないし、前に進まないといけないことはわかっています。それでも、今の学校の環境は決して良好だとは言い難いところがあります。廊下や入り口、学校の周りに何をするでもなく、ただただうろうろしていて目つきが良くない人たちがいるのは、私は少し怖いです。一緒に同じ場所にいることだけが和解の方法ではないと思います。本当に先住民族の文化を尊重し、同時に開拓民の子孫も尊重できる方法がきっとあるはずだと思います。日本にもアイヌの問題があります。カナダとアメリカにはインディアン、ネイティブ・アメリカンの問題があります。間違っていた過去を認めた後、どのように共生していくのかは難しい課題です。犯罪者の子どもは犯罪者ではないというのと同じで、開拓民の子孫は悪気があってこの地に生まれたわけではありません。その人たちがどうしたら過去を受け入れてこれからを考えられるのかを、毎日のように考えています。

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