ロシアの世界遺産 ノヴォデヴィチ修道院の散策 「かもさんおとおり」
前回、コローメンスコエ公園を散策した際、モスクワにもユネスコに登録されている世界遺産がいくつかあることに気付きました。
そこで、今回は、それらの内の一つである、ノヴォデヴィチ修道院を散策しました。
まず、この修道院について少し説明をします。
修道院は、モスクワ市の南西部にあります。モスクワ市のセンターから車で30分くらいのところです。
修道院は、スモレンスク占領を記念してヴァシーリー 3 世の命令により1524年に設立されました。
ここにはスモレンスキー大聖堂と、かつてはイワン大帝の鐘楼に次いで高く優雅な鐘楼があります。鐘楼から時々、鐘の音が聞こえてきます。
現在、ノヴォデヴィチ女子修道院は、古代の記念碑やロシアの歴史の一部であるだけでなく、伝統と伝説に包まれた場所でもあるため、現役の修道院と博物館の展示が共存しています。
ロシアで最も古く最も美しい修道院の1つであるノヴォデヴィチ修道院は、ロシアとイタリアの建築家、石彫刻家、画家の傑作として、2004年にユネスコの世界文化遺産及び自然遺産リストへの登録証明書を受け取りました。
17世紀末に形成されたこの建物群は、その保存に於いて独特であり、再建も再構築もされることなく、何世紀にもわたって「モスクワ バロック」様式の建築の驚くべき美しさを伝え続けてきました。
修道院のある地点は、歴史的に、デヴィチエ・ポーレ(乙女の原)と呼ばれてきました。
その呼び方には、いくつかの言われがあります。
1つは、黄金の大群(ウルス ジョチ)からロシアに派遣された貢物収集人がお金だけでなく女の子達を集めたことからと述べています。
モスクワの美女たちが捕虜に送られる前に家族に別れを告げたこの野原は、「乙女の野原」と呼ばれたというものです。
2番目の伝説によると、この修道院の名前は、デヴォチキナという愛称で親しまれた初代修道院長エレナに由来しています。
3番目の、最も平凡な伝説では、この名前は、1929年に破壊されたクレムリン昇天 (スタロデヴィチ) 修道院と区別するために付けられたと言われています。
何世紀にもわたるノヴォデヴィチ修道院の歴史は、常に多くの高貴なロシア女性の悲劇的な運命と絡み合ってきました。リューリク朝最後の皇帝フョードルの死後、彼の未亡人であるボリス・ゴドゥノフの妹ツァリナ・イリーナは修道院に隠居していました。有名な分裂主義者ボヤリーナ・モロゾワは、追放される前に修道院に監禁されていました。
反抗的な王女ソフィアは、権力闘争で敗北した後、スザンナという名前でノヴォデヴィチ女子修道院で修道女として剃髪されました。
ピョートルの望まない妻、エフドキア・ロプキナも、この修道院の修道女としての運命に直面しました。
王家の血を引く人々に加え、望まれないボヤール(支配階級)の妻、未亡人、未婚の娘や姉妹も修道院に送られました。
ノヴォデヴィチ修道院の外観は、今日私たちに見えるものと常に同じではありませんでした。
当初、その壁と塔は木製でした。
ノヴォデヴィチ修道院の石の壁と12の塔は、16世紀末にボリス ゴドゥノフの統治下に登場しました。彼らは西からモスクワへの進入路を守った。
修道院の新たな繁栄は、ロマノフ家の到着とともに始まりました。
それは修復され、王室の巡礼地になりました。
しかし、この場所の神聖さはナポレオン・ボナパルトがここに砲台を置くことを妨げず、モスクワを離れる前に教会を燃やす命令を出しました。
ナポレオンは長い間モスクワ川の対岸に立って、ノヴォデヴィチでの大規模な火災を待っていました。しかし、修道院の隣にある家の所有者が建物に火を放ちました。猛烈な火は皇帝を欺き、修道院は救われました。
1922年に修道院は閉鎖され、その壁内に女性解放博物館が設立され、後に歴史博物館の分館となりました。
大祖国戦争中、ノヴォデヴィチ女子修道院の教会で神聖な礼拝を行うことが再び許可され、その領土内にモスクワ神学コースと神学研究所が開設されました。
現在、ノヴォデヴィチはクルチツキーとコロムナの府主教の邸宅となっています。
修道院には、ロシア正教会モスクワ教区教会博物館の興味深い展示物も展示されていますあいにく、ノヴォデヴィチを訪問した時には、まだ、建物の内部が工事中で、ほとんどすべての建物の中にはいることはできませんでした。工事が終了したら、中を見に行きたいと思います。
ノヴォデヴィチ修道院を訪問した翌々日、ノヴォデヴィチ修道院の遠景をとるために、修道院の隣の公園に行きました。
ところが、前日の雪のため、風景は、白一色、雪景色となりました。
雪景色のノヴォデヴィチも美しいものです。
ところで、ここの公園には、「かもさんおとおり」の銅像があります。
ロシア語のサイトでの説明には以下のように書かれています。
アメリカの作家ロバート・マクロスキーは子供向けのおとぎ話「かもさんおとおり」を書きました。子供たちは本をとても気に入ったので、ボストン当局はセントラルパークに母アヒルのマガモ夫人と8羽の子アヒル (名前はジャック、カック、ラック、マック、ナック、クアック、パック、クアック) の記念碑を建てることにしました。
長年のマクロスキーファンであるナンシー・シェンによってデザインされました。
ロシアでこの記念碑が初めて披露されたのは1991年で、アメリカ大統領夫人 バーバラ ブッシュがソ連大統領夫人ライサ マクシモヴナ ゴルバチョワに贈りました。
これは、ボストンのセントラルパークにある、母を追いかける8羽の子の鎖の彫刻の正確なコピーです。
同年、この彫刻はノヴォデヴィチ修道院の公園に設置されました。
しかし文字通り次の夜、かもの子1羽が盗まれました。2000年初頭、さらに3羽が行方不明となりました。モスクワに住むアメリカ人だけでなく、ロシアの人々もこのような破壊行為に衝撃を受けました。そこで、いくつかのアメリカの大手企業が、彫刻を復元することを決定しました。
「かもの家族の再会」の厳粛な式典には、彫刻家のナンシー・シェン氏本人のほか、ミハイル・ゴルバチョフ氏、ミハイル・シヴィドコ文化大臣、ジェームズ・コリンズ米国大使も出席しました。
ところで、彫刻のそばに張られている案内には、「この彫刻は、愛と友情の心でアメリカの子供達からソ連の子供達へのプレゼントです。」と書いてあります。
心を打つプレゼントです。プレゼントされてから、33年以上も経ったのでしょうか。
雪の降った翌日でも、道は、きちんと雪かきがされています。カモたちは元気です。
旅行者や、ロシアの子供達が彫刻のそばによってきます。
それは、ボストンの「かもさんおとおり」の彫刻と同じですね。
ここまで読んで下さりありがとうございます。
私なりの目線で捉えた動画です。ぜひ動画もお楽しみください。