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ツァリツィノと黄金の秋、そして建築家バジェノフ

モスクワの秋を楽しむために、ツァリツィノへ行きました。
ツァリツィノは、モスクワ南部にある宮殿と公園の集合体です。
近くには、ツァリツィノという同じ名前の地下鉄の駅があります。
ツァリツィノは広大な敷地です。なお、ツァリツィノの公式サイトのアドレスは、The Museum & Nature Reserve«Tsaritsyno»(https://en.tsaritsyno-museum.ru/) です。今回、ツァリツィノへ動画を撮りに行くにあたり、そこへは数回訪問しました。

10月の秋の天気は、不安定です。朝晴れていたと思っていたら、お昼過ぎには、曇ってきたり、次の日には曇り、時には、小雨が降ったりと、なかなか大変でした。

ツァリツィノについての最初の動画では、ツァリツィノを建てた建築家バジェノフに焦点をあてながら、ツァリツィノにある、種々の建物を歩きながら回ってみました。

今回、改めて、公式サイトやインターネットのサイトで、ツァリツィノについて調べて見ました。以下は、私が理解したツァリツィノの歴史です。

16世紀の終わり以降、ツァリツィノの土地はロシア皇帝の所有でした。
1775年の春にエカチェリーナ2世がこの場所を訪れたとき、彼女はツァリツィノの美しさに魅了されました。そこで地所を購入し、ツァリツィノと改名し、ここに田舎の邸宅を建てることを決めました。

邸宅を建設するため、エカチェリーナは、建築家ワシリー・イワノビッチ・バジェノフを招待しました。バジェノフは、クレムリンのような赤レンガの宮殿、廷臣や召使の家、別棟を備えた町全体を構想し、中世のモチーフと伝統的な古代ロシア建築の要素が組み合わされたアンサンブルを考えました。

彼はファサードに赤レンガを使用し、装飾に白い石を使用し、フランススタイルの公園を考えました。

エカチェリーナは、バジェノフのプロジェクトを承認しました。

しかし、彼女はいつものフランススタイルの公園の代わりに、英国の風景公園を邸宅内に配置することにしました。そのため、イギリス人のフランシス・リードを招待しました。彼は今日私たちが見ているようなツァリツィノ公園を創設しました。その後、建築家イワン・エゴトフが招待され、公園内にパビリオン、洞窟、橋、遺跡を建設しました。

バジェノフは 1776 年に建設を開始しました。彼は新しいプロジェクトに全力を注ぎ、精力的に働きました。エカチェリーナとその息子のパーベルのために2棟、同規模の宮殿を建て、廷臣のために騎兵隊のための大きな建物を建てました。 周囲には小宮殿と中宮殿、厨房棟(パンハウス)、使用人用の建物を4棟設置しました。

建設には多額の資金が必要でした。しかし、エカチェリーナからのお金が届くのは、不定期でした。さらに、実際の費用が見積もり額を超えることもありました。資金が不足した際、バジェノフは、妻の不動産を抵当に入れ、モスクワの家を売却して、建設現場に引っ越ししました。建設資金の確保のため、1万ルーブルのローンを組んだこともありました。それほど、彼は仕事に打ち込み、本当に建設を中断したくなかったのでした。

1785年までに建物は準備が整い、漆喰を塗り、あとは内装を決めるだけという時に悲劇が起こりました。エカチェリーナは、7月に来る予定でしたが、何か疑わしく思えることがあり、6月初めに建設現場に来ました。エカチェリーナは景色が気に入らなかったし、彼女にとって、宮殿は狭くて棺のようでした。階段は狭く、天井は低かった…お金は無駄だったと彼女は言い、すべてを取り壊すよう命じました。バジェノフは解任されました。

バジェノフの生徒であり助手でもあるマトベイ・カザコフ(ペトロフスキー旅行宮殿、クレムリンの元老院の建物、モホヴァヤにあるモスクワ大学の建物の作者)が建設を続けるために招待されました。

エカチェリーナのこのような行動の理由について、専門家がいくつか仮説を出していますが、どれが正しいのか不明です。最も人気のある理由の 1 つは、宮殿の装飾にフリーメーソンのサインがたくさんあることにエカチェリーナが当惑したというものです。

公式サイトには、以下のように書かれています。
エカチェリーナの不満の本当の理由はバジェノフ自身にありました。
建築家はフリーメーソンと緊密に連絡を取りており、モスクワのロッジの責任者であるノヴィコフとも連絡を取り合っていました。ノヴィコフはエカチェリーナが彼女の息子のパーベルへ権力を移譲することを主張していました。エカチェリーナはこれらすべての行動に陰謀があることに気づき、関係者全員を一度に終わらせることを決定した。そこで、バジェノフ氏を解任しました。

エカチェリーナからツァリツィノでのさらなる仕事を託された、弟子で助手のマトヴェイはすでに完成していた宮殿の本館を完全に解体し、新しい宮殿を建てることになりました。

しかし、そのプロセスは遅々として進まない。新たなロシア・トルコ戦争の影響で資金が再び削減されつつありました。その後、ポチョムキンは亡くなり、そして1796年、エカチェリーナ2世自身も亡くなりました。仕事が止まってしまいました。

宮殿の前の広場に、バジェノフが作成した図面による模型と、カザコフによる新しい模型が展示してあります。バジェノフが作成して建てたが撤去された建物の基礎が残されています。歴史の1ページとは言え虚しさを感じます。建築家が心血注いで建てた建物を解体されるということは、どんなにつらいことだったでしょう。

バジェノフにとって、これは本当に悲劇でした。彼は打ちひしがれ、ほとんど破滅寸前でした。案内してくれたガイドさんの話では、解任された後3年後にバジェノフは亡くなったそうです。

そして、仕事を引き継いだマトヴェイ・カザコフ、彼もまた不運でした。
宮殿は完成することなく、統治者がそこに住むことはありませんでした。

エカチェリーナの息子パーベルは「ツァリツィンの村には一切建物を建てない」ように命じました。

19世紀初頭、ツァリツィノは文化とレクレーションのための公園として整備されました。石造りのパビリオンが現れました。

1860 年、皇帝アレクサンドル 2 世は、朽ちかけた宮殿の建物と土地を貸与するという決定を下しました。

この頃から、ツァリツィノではダーチャ(別荘)の長い開発期間が始まりました。作家や芸術家、作曲家、アーチストたちがここで寛いでいます。19世紀の終わりまでに、ツァリツィノは快適で高級な休暇村に変わりました。

十月革命後、ツァリツィノとその周辺地域はレーニノ村に改名されました。
ダーチャの没収が始まりました。古い建物を利用して共同アパートが建設されました。

1927年、十月革命10周年に、建物の 1 つでツァリツィノ歴史・芸術・郷土伝承博物館が開館しました。これは人気があり、毎年2万人以上の市民がバジェノフの絵画のコレクションやヴャチチ古墳からの出土品を見に来ていました。

しかし1930年代に、博物館は庭園と野菜地区のレニンスキー郷土伝承博物館に改名されました。展示会の性質は、農業の成果を展示する方向に大きく変わります。肖像画と燭台の場所は、トラクターと鋤の模型によって占められました。

第2次世界大戦中、村の住民は防衛線を構築していました。ドイツ軍の飛行機がエカチェリーナの建物の廃墟の上空を飛んでいました。いくつかの爆弾が古代のパビリオンの近くに落ちました。宮殿の周囲には地元住民が菜園を設け、ニンジンやキャベツを栽培していました。ジャガイモの苗床が花壇の代わりになりました。

戦後、ツァリツィン アンサンブルの建物は地区執行委員会と地区古文書館、クラブ、音楽学校となりました。

1984年、国立ソ連人民装飾応用芸術博物館がモスクワに開館しました。
初代館長で芸術家のイリヤ・グラズノフの尽力により、ツァリツィノのアンサンブルとそのすべての建物は博物館の管轄下に置かれるようになりました(1992年の初めに、この複合施設はツァリツィノ国立歴史建築・芸術・風景博物館保護区に改名されました)。同時に、Mosproekt-2 ワークショップでは大規模な修復プロジェクトが準備されていました。

1986年、ソ連文化省はポーランドの国営企業「国の記念物修復ワークショップ」と作品制作に関する協定を締結しました。1987年から1995年にかけて、古代の建物の修復する作業が進められました。ロシアとポーランドの職人がほとんどすべての建物を修復しましたが、宮殿とパンの家だけが残りました。そこで、それらの修復および、公園やパビリオンの改善工事作業が2005年から2007年にかけて実施されました。再建プロジェクトは同じMosproekt-2ワークショップが構築しました。

2007年9月2日、再建されたツァリツィノ宮殿複合施設が正式にオープンしました。

この時から、ツァリツィノは新たな命を吹き込まれました。

長い年月を経て、ツァリツィノは、やっと完成し、人々を楽しませて癒してくれる素晴らしい場所になりました。

また、ツァリツイノの建設に携わった建築家達の喜び、悲しみ、くやしさ等の気持ち、また、再建に携わった人達の気持ちを思うことにより、ツァリツィノの美しさを一層深く理解できるような気がします。

ツァリツイノの動画は、次回も続きます。

今回も、前回と同様長文になってしまいました。

ここまで読んで下さりありがとうございます。

私なりの目線で捉えた動画です。ぜひ動画もお楽しみください。


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