その時々を最大限に愉しむ_グラフィックデザイナー菊川法子さん
今回インタビューをさせてもらったのは、大阪府の中でも里山の風景が残る交野市私市(きさいち)を拠点に、グラフィックデザイナーとしてご活躍されている菊川さん。本業の他にも、つくつく造形教室を開催したり、私市駅前の協働プロジェクトスペース「たねtane」を運営されていたりと忙しい日々を送られている。「たねtane」には老若男女いろいろな年代の人が集い、みんなに『きくっぺ』の愛称で親しまれている菊川さん。今回のインタビューでも『きくっぺ』と呼ばせて頂きました。二人のお子さんを育てながら、途切れること無く仕事を続けて来られた経験談には、「子育てに関するヒント」や「人生を楽しむ秘訣」もちりばめられています。
name: 菊川 法子 ( Kikukawa Noriko )
出身地: 大阪府
お仕事: グラフィックデザイナー
活動の拠点: 大阪府の里山 (交野市私市)
●きくっぺ Instagram (@kikupppe)
https://www.instagram.com/kikupppe/
●たねtane Instagram (@tane_tanabatake)
https://www.instagram.com/tane_tanabatake/
●菊川制作室HP(現在改定作業中)
http://www.kikuike.com/
幼い頃に見つけた”夢のかけら”
あまり記憶が残っていない幼少期の頃から、いつも紙に何かを描いていた記憶だけはあると語るきくっぺ。周りからおとなしいね〜と常に言われる、どちらかといえば内気な子だった。”自分の世界に入り込み、妄想して絵ばかり描いていて、そんな時間が大好きでした”。
きくっぺに話しを伺うと、小・中学生の頃からがっつり仕事のイメージをしていたというから驚きである。小学生の頃は、大好きだった少女漫画雑誌『りぼん』を発行していた集英社の編集部に入って、付録などを考える人になりたいと思っていた。中学生になると、雑誌の企画やレイアウトを考える仕事にも興味を持つ。
“本や雑誌を読むのが好きで、そういうものを作る人になりたい、編集する人になりたい。当時からそんな漠然とした方向性は決めていました。結果的にずばりそういう道に進んだわけではないですが、好きだった本や雑誌が、将来を考えるきっかけになりましたね。小さい頃から、本や雑誌は頻繁に買ってくれていた環境が良かったのかもしれません”。
挫折もありながら進んだ”自分の道”
小・中学生の頃は勉強がわりと好きだったきくっぺ。進学校の高校に進んだが、入学早々、人生初の挫折を味わう。”結構何でも一番がいいタイプだったんですけど、高校に入ると一番には絶対になれないとすぐに分かって。たちまちヤル気を失い、ぱったりと勉強をしなくなっちゃいましたね。笑”。
高校では落ちこぼれだったと語るが、大好きだった絵だけは続けており、地元の絵画教室や大阪市内の画塾に通いながら絵と離れることはなかった。当時はまだ具体的に絵やデザインの仕事がしたいとは考えていなかったけれど、得意な分野で進むのがいいかもしれないと、芸大や美大への進学を考え始める。
「浪人」と「一人暮らし」は禁止という制約があったため、家から通える範囲で志望校をしぼっていった。進学校から美大に進むのは少数だが、”高校生の頃はいかにみんなと同じことをしないかばかり考えていたので。ちょっとした思春期とか反抗期の変形版だったのかもしれません。自分の道を行くぞ!といった感じで。なので、自分一人ちょっと違う道を進むことに不安は無かったですね”。
大学入試では、芸大美大志望でも今で言う共通テストを7科目も受けなくてはいけなかった。”落ちこぼれ気味だったので、学科試験は中途半端な受験勉強のままのぞみました。第一志望の芸大には一次選抜では合格したものの最終は落ちてしまい、推薦で合格をもらった併願校に通うことになったんです。でも通ってみると、その美大の空気感が自分にはとても合っていて。高校時代は思春期特有の生きづらさを感じていたのですが、やっと自分の生き易い空気感に出会えた気がしました。入試に落ちた時は落ち込みましたが、結果的に良かったんだなって思っています”。
未来を描いて、決めた独立
きくっぺがデザイン事務所や広告制作会社を経て独立をしたのは29歳の時。
”結婚し(て子どもができ)たら、この仕事は会社勤めでは無理だなと思ったんです”。当時は仕事によっては徹夜は当たり前で、子育てをしながら勤めている先輩は周りにはいなかった。”結婚して子どもを育てながら仕事を続けるなら、独立するしかない。それなら今のうちに独立しなくては!”と独立することを決めたというが、当時は結婚の予定どころか、彼氏すらいなかったというから驚きである。
”実家暮らしで、収入が無くても最悪餓死はしないから大丈夫”と自分に言い聞かせ、独立を決意した。とはいえ、大阪市内に事務所を借りるなど資金は必要なため、収入が無くても1、2年はやっていける程度の貯金を貯めて独立をした。”自分から営業に行くのは苦手で、独立した当初は 「仕事が来ますように〜」ってひたすら念じていました。知り合いの経営コンサルタントの人に話すと、そんなんじゃダメですって怒られましたが。笑 最初は、暇な時はその他の出来ることをしたり、のんびりしたりして、仕事が来たらやったー!という感じでしたね”。
その頃はまだインターネットが普及していない時代。「独立しました」の挨拶状は、かなり気合いを入れて作成し、それまでお世話になった方に可能な限り渡した。まずは自分の人形を作成し、カメラマンに撮影をしてもらい、そこに挨拶文を入れて完成させるという力の入れようだ。この「挨拶状」をきっかけに、”立体物を作って撮影し印刷物に使うというスタイルが楽しくなって、お仕事の依頼もいただくようになったんです”。カタログの表紙や、JRやゆうちょのポスター、市営地下鉄のマナーポスターなどに使用してもらったりと仕事が広がっていった。
技術の移り変わりと仕事の変化
グラフィックデザイナーの仕事を始めてから、大変だったことの一つが「技術の移り変わり」である。「デザイナーアナログ時代」と呼ばれる、デザイン事務所で勤めていた頃は大学で学んだことも活かされたが、独立した後は、いよいよアナログからMacに切り替えないと生き残れない時代になった。
”どうしたものかと思っていたら、独立後の仕事が忙しい時期に、たまたま来てくれたバイト君 (なんと現在のご主人だそう!)がMacを扱えて。一から全部教えてもらって、わりとスムーズにアナログからデジタルへ移行できました”。
アナログ時代は、デザインを考えた後、印刷工程で必要な版下(※製版を行うための元となる原稿の作成)や写植(※写真植字機を用いた文字などの印字)といった工程を外注する流れだった。しかしデジタル時代は、その工程もMacを用いて全て自分でしなければいけなくなった。しかも仕事で必要な Macもプリンターも当時はかなり高額だったという。
”最初は慣れない作業に非常に時間がかかって必死だったけれど、いつの間にか慣れていきました。大変な時代だったけれど、外注しなくても完結させられるようになって、良い面もありましたね。しかも独立した当初は、会社に縛られないストレスフリーな環境が嬉しくて、仕事が楽しくて楽しくて、大変さよりも喜びの方がまさっていた感じです”。
私なりのバランス
先の未来を見越して独立を決めたきくっぺだが、今となってはこれが正解だったと感じている。 ”ばりばり頑張っていた人でも、子どもが生まれると仕事をいったん辞めてキャリアが止まってしまう人が当時は多かったけれど、細々とでも途切れ目なく、今までずっと同じ状態で仕事ができているのは独立しておいて良かった点です。子どもが生まれてからも、独身の時と同じように仕事をいただけることが有り難かったですね。大変だったけれど、子育て大変だろうと気を使われて簡単な仕事だけとか、仕事の質を変えてまで続けたくなかったので”。
子どもを保育園に預けることも一瞬頭をよぎったが、ご主人(同業で同じ事務所のデザイナー)と共同で子どもの世話をしながら仕事を続けた。”産まれた当時は、SNSといったものもなかったので、家にこもって仕事と子育てと。乳児と暮らす自分も新鮮で良かったけれど、心のどこかで 『私は職業人』『私はデザイナー』という部分に支えられていました。それがあったから子育ても楽しめた。子育てで息が詰まったら、仕事!仕事で行き詰まったら、子育て!といったように自分の中で上手くバランスを取っていました”。
子どもが生まれてからは、交野のお住まいを自宅兼事務所にしている。”「仕事と私生活の境目がなくて大変じゃない?」とか、「24時間旦那さんと一緒で大変じゃない?」とか言われるけれど、大変というよりむしろ楽です。子育て中はがっつり2人体制で育児が出来て助かりました。 対面の打合せのために大阪市内に移動することが多かったのですが、どちらかが家で子守をして仕事を回していましたね”。
大切にしたい時間を楽しむ
産後も仕事を続けるための環境を自ら整えてきたきくっぺ。子育て中はわりと仕事中心の生活 だったのかと想像していたが、意外にも、”幼稚園ママ時代が妙に楽しかったんですよ!”と、生き生きとした顔で語ってくれた。
大学生の頃から、将来結婚して子どもができたら、幼稚園バックを作って自分好みのアップリケをつけたり、刺繍したりするのが夢だったと語るきくっぺ。子どもが幼稚園に入ると、幼稚園ママとしての自分を楽しんだ。”仕事ばかりしていた世界から、ママ同士の繋がりという新しい世界が待っていて、新鮮でとっても楽しかったんです。幼稚園バックを作るのはもちろん、幼稚園のお祭りで看板を作ったり、自分の好きなことを発揮できる場がたくさんあったんですよね”。
幼稚園ママ同士で合奏グループを組み、幼稚園のお祭りや養護施設で演奏を行ったりもした。”私以外はみんな本格的な演奏者だったんですが、私は「かぶり物担当」で、いろんなかぶり物を楽しみながら考え作っていました。もともと音楽は全く出来なかったので、ピアニカやリコー ダー、打楽器などで参加していたのですが、リーダーの友達の「音楽は楽しむもの!」という言葉 が音楽活動を楽しむきっかけになりました。子どもたちがとっても喜んでくれて。それまで経験したことがない新しい世界でした”。
当時は、子どもが幼稚園から帰ってきてからも一緒にお友達の家に遊びに行ったりと、仕事どっぷりではなかったという。”仕事を完全に閉じることはしていないけど、ママとしての時間もたくさん取っていました。決して表には出さなかったけれど、「今は超フルでは仕事できません!」 というオーラ(?)だけをずっと出し続けていた気がします”。
仕事も大事にしながら、その時にしか味わえない時間も大切にしていたきくっぺ。自分が大切にしたいものが分かっていたからこそ、自分の中で納得出来るバランスが取れていたのだろう。
繋がりから新たな”つながり”へ
いつも周りに人が集まっている印象のきくっぺだが、本人はネットワークが広い、顔が広いという意識はないという。”仕事は個人でやっているし、交野が生まれ育った地元というわけでもないし、これはもう『年の功』ですね。年月が経つと、自然と知り合いも増えて、物事が面白い形で 繋がることが増えてくる気がします。最近は「歳とってきたほうが楽しいやん」とさえ感じています。笑”。
”全ては成り行きで現在に至っている”と語る「たねtane」の活動。今では私市駅前の2階建てのスペースを利用して、カフェやオリジナル商品の販売、平日夕方からは学習塾になったり、様々なイベントやワークショップが日替わりで開催される場となっている。
この「たねtane」を通じて、地元の中高生や大学生とも繋がりが生まれているきくっぺだが、最近よく耳にする「居場所作り」とか支援的なことをしているわけではないという。”たまたま顔を出してくれた子が、次の日に友達を連れて来てくれたり、話をしているとお互いが楽しくて。年齢は全然違うけれど、何か面白いことを一緒にしたいねって”。お互いにアイディアを出し合い、カフェや駅前マルシェを手伝ってもらう中で、学生さんたちからは”貴重な経験ができる”と言ってもらえている。
”最近は、年の功で(笑)出来た人との繋がりやご縁によって、企画や考えたことが驚くほど形に なりやすくなったと感じています。昔よく、学校の先生や先輩から『繋がりは大事だよ』とか、 『出会いが全てだよ』とか言われて、全然ぴんと来なかったけれど、最近になって少しずつ、こういうことなのかなと実感し始めました”。
私なりに大事にしていること
デザインはここまで出来れば完成という決まったゴールはない。 ”コンサートであれば、練習の積み重ねがあって、お客さんの前で披露するコンサートの場が最終だけど、デザインはお客さんに見てもらって、必要であれば修正して、お互いが納得出来て最終です。依頼を受けた時に、自分が思い描いた着地点があって、そこに達した時にお客さんに見せるようにしています。自分の中でちょっとこれはまだと思う案を提示するのは、後悔してしまうので絶対にしません。先方が求めているものであり、納得してくれるデザインであり、且つ自分も納得ができるもの。感覚だけではなく、これは私のデザインですと世に出ても、恥ずかしくないものという自分なりの基準を大事にしています”。
今まで個人でデザイナーをされてきて、全く仕事が無くて困ったことは無いという。”レギュラーの仕事が無くなった際はピンチ!と思ったことはあるけれど、逆にこれは何か新しいことをするチャンスかもしれないと、わりと前向きに考えるタイプです。また「今忙しい?」と聞かれたら「普通です」って涼しい顔で答えるようにこころがけています。忙しくてスケジュールが詰まっていると言うと、恐らく仕事を頼むのをためらわれてしまうので。逆に「暇です」って答えると、「この人、人気無くて暇なのかな?大丈夫かな?」と思われてしまう可能もあるので、「普通です」と伝えるのが、唯一の私なりの経営戦略です。笑”。
根本的には家族が平和で、自分がやりたい仕事が出来ていたら十分と語ってくれたきくっぺ。”やりたいことを楽しくやっていくこと、依頼に応えて喜んでもらうことに全力投球するだけです。独立してからは、自分の裁量で何でも出来る可能性があります。可能な限り楽しいことだけをやりたいですね。もしもやりたくないことがきたら、なるべく楽しむにはどうしたら良いか考えるようにしています。”
きくっぺのSNSを見ていると、楽しむことが本当に上手だなと感心させられる。面倒なお弁当作りも”ネタ”を盛り込みながら楽しんだり、「たねtane」であさかつ部を立ち上げて、朝6時からモチベーションを上げながらタスク管理の時間を作る朝活をしたり、苦手な片付けや運動は宣言をして取り組んでみたり。上手く周りもSNSも活用しながら、気分を上げて日々を楽しんでいるのだ。
今後の新たな一歩
子育ても仕事も両方頑張って来られたきくっぺだが、”どっちも上手くやってきたわけではない。どっちもダメダメです。”と苦笑いしながら語ってくれた。”息子二人とも中学受験をして無事に入学したけれど、入ってから不登校になったり。中学受験さえ終われば、子育てもちょっと落ち着いて楽になるのかなと思いきや、全くそんなことはなくて”。
実は5年ほど前に長男を亡くされ、辛い経験をされているきくっぺ。現在でもまだ人に話せない、 自分の中でも消化しきれていない部分がたくさんあるが、毎日泣いていたのが、段々と笑顔も出せるようになってきたという。
”悲しみは一生自分の中にあり続けて、この悲しみを抱えながらずっと生きて行くことになるけれど、この『悲しみ』との共存の仕方が少しずつ分かってきたような気がします。一時期は自分の至らなさに押しつぶされそうで、周りからの優しささえも痛みに感じて、誰にも会わない時間を過ごしていました。でもこうしてまた人と関わって、何かが出来ていることは嬉しいです。『悲し み』も自分の一部として大切にしていきたいなと思っていて、少しづつ感情の整理が出来たら、新たに挑戦したいと思えることが見えてきました”。
”「不登校時代の親」としての経験を通じて、似たような境遇の人たちに、寄り添える存在になれたらと思っています。今までいろんな人に助けてもらってばかりだったので、恩返しじゃ無いですけど、今度は私がしんどい思いをされている親御さんの助けになりたいと思うようになりました。これまで「変な自信」というか、自信満々でやって来た自分もいるけれど、一方で「へなちょこ」で全然ダメという自分もいて。どんなスタイルになるか模索中ですが、少しでもほっとなってもらえたらなあと”。菊っぺはあえて自分の弱さを見せることで、他の親御さんの支えになりたいと考えている。今温めているやりたい活動の一つだ。
最後に、自分の道を模索している方へ伝えたいことを尋ねてみました。”早く自分の夢を決めよう!とか、好きなことを見つけよう!とか言うつもりは全く無いけれど、自分の好きなことを早めに探ると人生の助けになるかなと思います。他の部分が「へなちょこ」でも、細い細い一本の筋さえ持ち続けていたら、自分の軸になるので。私のように消去法でもいいので、これはずっと好きかなと思えることがあると、生きて行く上でずっと心の支えになるかなとは思います”。
Profile
大阪府枚方市出身。
大阪府立四條畷高校、嵯峨美術大学ビジュアルデザイン科卒業。 制作会社にてアートディレクター・グラフィックデザイナーとして勤務。 29歳の時、広告全般、パッケージ、WEBデザイン、立体イラストレーションなどを手がけるデザイン事務所『菊川制作室』を大阪市北区に設立し独立。企業や店舗、個人のトータルブランディングや企画なども手がける。
2000年より大阪府交野市に自宅兼事務所として移転。 夫のデザイナーいけちゃんと個別やユニットで仕事をすすめている。 他方で、協働プロジェクトスペース「たねtane」の運営や、オリジナル商品の企画&販売、造形ワークショップ(つくつく造形教室)を開催
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個展・企画展など
(立体作品・平面作品など)
1988年 二人展(ギャラリー16・京都)
1995年 初個展(ギャラリーパライソ・大阪心斎橋)
1996年 企画展(枚方市立牧野公民館・大阪枚方)
1996年 個展(オンギャラリー・大阪西天満) 1996年 二人展(日本工芸館・大阪西天満) 2001年 個展(ギャラリーCARBON・大阪空堀) 2001年 企画展(河原町阪急・京都・オリジナルグッズ人形の展示販売)
2002年 企画展(マニフェストギャラリー・大阪天満橋・企画グループ展参加)
2002年 企画展(DEPT WAY・大阪梅田・時計+人形の展示販売)
2014年 二人展(ソーイングギャラリー・枚方星ヶ丘・松前公高氏(音楽)とのコラボレーション)
2015年 企画展(嵯峨美術大学博物館・京都・松前公高氏(音楽)とのコラボレーション展)
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