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部下に手を出す上司は信用できない16~20

1話~5話 6話〜10話 11話~15話 (全31話)

16.堂道課長はもう恋なんてしない

「オラ、榮倉ァ! てめえ、ふざけんなよ!」

 二課の島に死んだ目でいる夏実から社内チャットが届く。

『どうにかして』

 糸に堂道をどうにかできる力があるのなら、今すぐこの場を和やかな職場にしている。

 堂道は清々しいまでに通常運転だ。

 結局、糸は告白したことになるのだろうか。
 あれ以降、堂道の態度はなにも変わらず、リアクションもまったくない。

 相変わらずよく怒り、よく怒鳴り、よくキレている。

 堂道は何も変わらない。だから糸も懲りずに続けいる。

 朝は速足で堂道を追いかけ、廊下やエレベーターで一緒になる機会を狙う。しかし、今までもほとんどなかった偶然が急に起こるはずもない。ごくたまに廊下ですれ違うだけ。そんなチャンスがあったとしても堂道は足を止めてくれるわけもなく、話すわけでもなく、送ったラインにも返事はほとんどない。

「拒絶されないだけましだと思うべき……?」

 好意を歓迎されているのか、迷惑がられているのかくらいは知りたいところだが、勇気を出して飲みに誘ってみても当然誘いに乗ってくれたことはない。
 糸は、長いため息をついた。

 しかし、ある朝のことだった。

「たまゆらサン、今夜暇?」

「へっ?」

 突然で予想外な展開に、糸は驚きのあまりその場に立ち止まってしまった。
 と、堂道も糸を振り返って、足を止めて待っている。

「ひっ、暇です!」

「んじゃ、今日俺、直帰できそうだから。夜、空けといて。また連絡するわ」

「はいっ!」

「最近すんげぇ仕事忙しくてさぁ、時間とれないでいたんだよ。悪かったな」

「いえいえいえ」

 その日の午後、堂道が出張に出るとき、糸の後ろを通った。
 二課と一課の間の通路になっているのでいつものことなのだが、今夜のことで何らかの合図でもあるかと思ったがそれはなかった。しかし約束は確かにした。緊張で、それからはまったく仕事にならなかった。

 初めて堂道の方からラインで送られてきたのは、会社から一駅隣の小料理屋のURLだった。

 小洒落た店など端から期待はしていなかったが、たとえば大人の隠れ家とか割烹と呼べるほど粋ではないが、居酒屋というほど他人行儀でもない店に糸が着いたとき、堂道は先に居て、すでに一人で始めていた。

 店はほどほどに混んでいる。
 テーブルも床も年季が入っていたが、掃除は行き届いていて、どの備品も丁寧に使われていることがわかった。

 給仕をするおかみさんは堂道の知り合いのようで、訪れた糸を見て、「あらあら、こんなに若い娘さんとは」と笑うと目のなくなる顔で言った。

 堂道は瓶ビールを一人で傾けていた。
 自分もグラスをもらおうと、顔をあげておかみさんを探した糸に、「生だろ?」と聞く。

「えっと、はい。生中お願いします」

「ああ、いきなりだけど、酔って寝られたりしたら困るから、おかみさんに住所書いて預けといて。タク乗せるとき用」

「なんですかそれ。なんで、そんな用意周到なんですか」

「リスクヘッジは仕事の基本だ」

「……いつもこんなことしてるんですか」

「するか。ヤローだったらその辺放ってけばいいけどよ」

「女の人には?」

「女とサシで飲むことなんかここ十年ねえよ」

「えっ、そうなんですか?」

「ああン?」

 睨まれた糸は慌てて目を逸らすと、
「いえ、すみません! 寝ませんから。寝ませんけど、一応送っときますね」

 スマホを出して、堂道にメッセージとして送ってそこに住所を残しておく。
 堂道と飲むには届を提出しなければならない義務があるらしい。
 異性、ましてや意中の人と二人きりで飲むのに、これほど雰囲気のない始まりを経験したことはないが、その次には堂道は手書きのお品書きを広げて「何頼む?」と聞いてくれた。

 そんな扱われ方は女性に対するもののそれで、糸は胸が苦しくなる。
 そう扱われた自分と、そんなことができた堂道に。

「……課長のおすすめで。私、好き嫌いないので」

 堂道はいくつか適当に注文して、糸の生ビールが届いたところで、通過儀礼的な乾杯をした。

「たまゆらサンって珍味好きだろ? ゲテモノ食い」

「え? 別にそんなことは……」

 瞬きを繰り返し、小首をかしげた糸に、
「じゃあ、なんで俺?」

 堂道は肘をついた手にグラスを持ち、不敵に笑う。

「あー、そういう意味ですか……」

「誰だって思うだろ。俺も思うわ」

「美女と野獣的なアレですね」

「調子乗ってんなよ。美女って誰だ、オイ」

 糸は中ジョッキを高く持ち、喉を鳴らす。

「おいおい、酔っぱらっても知らねぇからな」

 堂道は止めるようなしぐさを見せたが、最終的には諦めた。
 糸は一気にジョッキの半分まで飲む。

 堂道はいつになく優しい。のに、甘くない。
 冷たくないのに、嬉しくない。

「酔いません。あ、課長は酔ってもいいですよ」

「男が酔えるかよ」

「うち、泊まっていきます?」

「話聞けよ。年下の女の家に泊まるとかダセェことできっか」

「なんですか、その昭和男のプライドみたいなの」

「てかさ、たまゆらサンいくつ?」

 一気に煽って空になったグラスを見て、糸が酌をしようと伸ばした手は、軽く制された。
 堂道が手酌でビールを注ぐ。
 
「女性に歳聞くのに全く遠慮がないんですけど……。二十六です」

「わけーな! たまゆらサン生まれた時、俺高校生だって。ヤバイわ。犯罪だろ、それ」

「歳の差恋愛で、それは言わないお約束です」

「勝手に歳の差恋愛とかカテゴライズすんな」

「あの、課長……煙草、どうぞ?」

 堂道が指でテーブルを叩いたのを見て、糸は言った。

「吸わねえだろ、あんた」

 糸が頷くと、「……別に」と目を伏せて、グラスのビールを二、三揺らした。

「はあああ。まいるわ、マジで」

 魂でも吐き出すかのような喉からの低い声でため息をつき、背もたれにどかっと体重を預ける。

 今、二人は四人掛けのテーブルに向かい合っていて、堂道は誰もいない隣の椅子の背を抱きながら、ネクタイを緩めてから、
「あんた、そんなにもカレシ欲しいの? 草太にもっと合コン頼めば?」

「そうじゃありません! 草太君との合コンの話も口実であって……。私は課長がいいんです! 課長がどんなものが好きかとか、毎日何を考えているのか、もっともっと知りたいんです!」

 一息に言うと、堂道はあっけに取られていた。

「……誰でもいいわけじゃないんです」
 
 伝わらないもどかしさに、図らずも拗ねた口調になってしまった。

 小賢しかったかなと反省したものの、
「うわ」

 その言葉に糸は顔をあげた。

「今ちょっとドキッとしたわ」

 しかし、堂道の顔は全くドキッとしていない。

「うわー、なんだこれ久しぶりだよ」

「ちょっとだけですか……」

「そりゃ、まーそうだろ。四十男が浮かされてたら、もうヤベー奴だろ」

 飄々と、照れる素振りもなく、まるで人ごとのように。

 ビールメーカーのロゴ入りの小ぶりなグラスの縁を持って、流し込むような飲み方は、熱烈な気持ちを伝えられているとは思えない気取りのなさで、まるで誰かの恋バナを酒の肴に飲む中年そのものだ。
 注文した料理がいくつか運ばれてきて、早速箸をつける堂道を前に、糸は食が進まない。

「まー、なんだ。俺もいろいろ考えた。で、結論としては『無理ですゴメンナサイ』だ」

 糸はぐっと握る手に力を込めて、耐えた。

 堂道は取り皿に渡し箸をし、腕を組む。
 腕まくりしてよれたワイシャツさえも、もう好きだった。

「俺、再婚する気はねえし。だからって火遊びするにしても、あんたのトシじゃあな。そうねー、アラフォーとかなら、なんかやりようもあるけどさ。まあ、二十代とか色々無理だわっつーことで」

「二十代って……若いって、セールスポイントになりませんでしたか」

「そりゃ男なら、みんなオイシイって思うだろうけど、実際なってみたら腰引けたわー」

「どうしてですか」

「二十六、七の頃の自分思い出したら青すぎて笑えるもんな。いや、別にたまゆらサンが青いとかじゃなくて、あの年頃かーって思うとさ」

 四十歳の今の価値観や考え方、意識、当然ノリやテンション、すべてが当時からは理解できないところにすでに至っていると言う。

「たまゆらサンだって、短い人生の貴重な時間を俺なんかで無駄にしちゃもったいねーし。ってことで、早くいい人見つけてください」

「……私の気持ちは迷惑でしたか」

「いえいえ、こんなオッサン相手にさー。ありがたいことですよ。たまゆらサンのお気持ちは有難く頂いて、メイドの土産にさせて頂きます」

 そう言って、堂道はぺこりと頭を下げた。

「酔ってますか」

「こんくらいで酔うわけねーだろ」

 いつもの悪い人相で顔をあげる。

「……課長は、もう一生、恋しないんですか」

「恋ねえ、しねえだろうなぁ。めんどくさいし、気力もねえし」

「人恋しくなることもあるでしょう?」

「そりゃ全般的に女は好きだけどさぁ。個人ってなると苦手、嫌。うるさいし、泣くし、勝手だし」

「今、堂道のくせにって、全読者を敵に回しましたよ」

「誰だよ、読者って」

 糸はようやく箸を手にした。
 せめて腹を満たしたかった。

「これからも、たまに、こうやって飲みに行きたいです……ダメですか」

「それはおかしいんじゃね? 上司と部下でもない二人だからな」

 店を出たのは終電にはまだ早い時間だった。
 最寄り駅まで送ってくれると言った堂道を、糸は断った。

17.堂道課長は忙しい

 正式にフラれたことを夏実と小夜に報告する。

「何様のつもりだよ! 嫌われ堂道の分際で!」

 場所が社内食堂なので、夏実は周りを確認してから小声でキレた。

「糸みたいな若くてかわいい子に好きになってもらえるなんて、宝くじにあたるより奇跡なのにねー。課長、バカだなー」

「ううん、中途半端に思わせぶりなことをしないの、堂道課長の優しさなんだと思う」

「解釈がもう惚れた弱みだし……」

「でもまー、私は結果的によかったんじゃないかなって思う……」

 小夜は複雑な表情で箸を置き、
「糸には申し訳ないけど。糸の気持ちを尊重して応援はするつもりだったけどさー。草太君や糸が言うようにホントはいい人なのかもしれないけど、全面的に推せるかって言ったら微妙な人だしさ」

「そうだよ、糸が親切丁寧に証明してあげるに値する人間じゃない! いくら実際はイイヒトだったとしてさ!」

「うん。言い方とかで損してるけど、普通の人なんだよ」

「あー、もう。わかったわかった、わかったからさー」

 夏実が糸の肩を叩く。 

「でもね、今回の事で前ほど課長の事、嫌じゃなくなったってのはあるかもー」

「……まあ、あたしも多少、ほんとちょびっとだけだけど、見る目変わったし。糸のおかげだよ。堂道はいくら感謝しても足りないね」

「二人とも、ありがと」

 糸は笑って見せた。
 悲しくて泣いてしまうほど、糸の中の思い出は多くない。
 少し寂しいだけだ。 

「それにしても二課、忙しそうだね」

 堂道を含め、二課の全員が今朝から慌ただしくしている。
 そもそも終業後に飲みに行って話をする予定が、夏実の残業が入ったので急遽この昼休憩に急ぎ報告することになったのだ。
 デリケートな話なのに。
 
「ああ、それが昨日コンペの結果出て、最終残ったんだよねー。その準備でしばらく残業続きそう。最悪」

 夏実は大きなため息をついたが、堂道がそんな忙しいなか、昨夜、糸のための時間をつくってくれたのかと思うと胸が痛んだ。

 堂道ありきになっている糸の生活は簡単には変われない。
 今朝、駅で待つのを糸はどうしようかと迷った。
 本来ならやめるべきだったとわかっている。

 昨夜の帰り際にたずねたら、
「明日から、普通に話したりしてくれますか。羽切課長と話をするみたいに、普通に話しかけたりしてもいいですか。過剰ではない程度で」

「普通の上司と部下の範疇ならな」

 普通の、と心の中で言い訳しながら、いつもの時間に電車の到着を待ったが、堂道は人の波にいなかった。
 時間をずらされたのかとショックを受けつつ、出勤するとすでに堂道は席にいた。

「この前の大口コンペ、負けたからね。今回も大口だし、余計に気合入ってるみたい。普段の仕事もあるし。来月まで地獄だわ」

 このまま堂道を好きでい続けるほど時間があるわけでもなければ、堂道こそがオンリーワンだったと夢見がちな年齢でもない。
 それでも、昨日の今日でいきなり気にかけなくなるほどの軽い想いではない。
 無理しない程度に頑張ってほしいと糸は心の中でそっと願う。
 心配する立場にはないけれど。

 それからしばらく二課は堂道だけでなく、榮倉も尾藤も椎野も夏実もみんな忙しそうだった。

 堂道は明らかに会社に泊ったとわかる朝もあり、目頭を押さえているところや栄養ドリンクを苦い顔で飲み干す姿を糸は何度も目撃した。
 デスクで思案するふりをして、寝ていたりすることもあった。

 たまらくなった夜に、『まだ残業中ですよね。遅くまでお疲れ様です』と一つメッセージを送った。
 もちろん、返事はない。
『普通』の上司と部下なら、返事の一つくらいは『普通』だと思うけれど。

「玉響さん、佐代田さん、ちょっと」

 ある日、羽切のデスクに呼ばれ、そこで、二人は予想もしなかった打診を受けることになった。

「二課の事務のヘルプに期間限定で佐代田さんか玉響さんに行ってもらいたいんだけど」

 確かに夏実の仕事が今大変なことは知っている。
 実際、内々で、課外に振れる仕事は糸と小夜とで手伝ったりもしていた。

「……えっと、それはどちらが行けばいいんでしょうか」

 小夜がちらりと糸を窺ってから、戸惑いがちにたずねた。
 時期が今でなかったら、即答で糸を推薦していただろう。

「どちらっていうのはないんだけどねー。俺としては、玉響さんにお願いしたいなって思ってる」

「り、理由をお聞きしても?」

「ほら、ここだけの話だけど。なんせ相手が二課だからさー。でも玉響さんは、なんとなく堂道に好意的かなーって前に思って、さっきの課長会議で『ウチから出します』って言っちゃったんだよねー。俺の勝手な思い込みだったらごめん」

 夢見がちに望んだこともあったいきなりの配置換え。
 時期が今でなかったら、羽切は満場一致でナイスアシスト賞に決定だっただろう。
 フラれた今、偶然か奇跡か、運命かいたずらか。ドラマか、嫌がらせか、幸か不幸か。

「わかりました。二課に行きます」

 糸は羽切に礼をした。

「やっぱり、あんただよなァ……。そうだよなァ。そう来るよなァ」

 デスクの前に立った糸を見て、堂道はため息をついた。
 その態度にショックを受けるよりも、糸は申し訳ない気持ちが先にきた。
 まるで、しつこく付きまとって、困らせてしまっているようで。

「すみません……。こうなったのは不可抗力で、私的な感情は一切ありませんから」

 とはいえ、易々とその言葉を信じてもらえるほど糸と堂道は無関係ではない。
 むしろ堂道への好意は正直なところ、先日から一ミリも減っていないが、この展開はあずかり知らぬところであって、糸の作戦でも策略でもないことは主張したい。

「あっち」と顎をしゃくって、打ち合わせのブースを差した堂道のあとを糸は「はいっ」と小走りで追いかけた。

 パーティションで仕切られた空間に二人きりだったが、さすがに今、堂道のシャツやネクタイや、個人的なあれこれを観察することは意識的に避ける。

「羽切がウチにヘルプを出すって言いだした時、嫌な予感はした」

「羽切課長は何もご存じないです。……私の気持ちとか。それに私、昨日課長に言われて、ちゃんと諦めようと思っていたし、今も思っていますから」

「それは助かるナァ」

 自虐的かつ皮肉な笑みを浮かべてから、堂道は腕を組んで、少しの間考え込んだ。
 考えたところで今さら、糸の事が嫌でも小夜にしてくれなどと言うことはできないが。

 また一つため息をついて、
「やりにくいようで、考えようによっちゃやりやすいような……気もしないではない」

「私でしたら、怒鳴られても耐えられると思います!」

「預かりモンに怒鳴れるか」

 悩ましげに眉間に手を当てながら、堂道はその下から片眉をあげて睨んでくる。

「少しの間なので我慢してください。いち部下として、精一杯頑張らせていただきますので。よろしくお願いします」

「……まあ、こっちこそよろしく」

 とりあえず、と堂道に資料を差し出される。

「V社は榮倉の担当。夏原は通常業務で手いっぱいだから、イレギュラーなV社関連をたまゆらサンに任せようと思ってる。その方が混乱が少ないだろうからな。それでいいよな」

「はい」

「最終コンペが来月の頭。ノー残で帰したいのはやまやまだけど、さすがにこのひと月は無理だろうから覚悟しとけ。ま、早く帰りたいときは帰っていいから」

 糸は自席に戻ると、共有フォルダから資料を確認した。
 どうやら今日まで、V社に関わる事務処理は堂道自らがフォローしていたらしい。
 自分の持ち仕事もあるなかで、さすがにこの仕事量を並行して片づけていくのは厳しいというより労力の浪費だ。無駄だし、もったいない。

 現状さえ把握しきれず、半日が経った。
 課題とやるべきこと、求められていることの分析までは届かない。
 定時を過ぎて、フロアの人間は半数近くに減っていた。

 そこへ、両手をポケットに突っ込んでクロックス履きの堂道が、テスト時間の監督教諭のような足取りでやってきて、「一日二日でわかるもんじゃねえよ」と糸のデスクトップを後ろから覗いた。

「整理もろくにできてねえし」

 榮倉のV社への営業は半年前に始まっており、膨大な量の資料があった。
 関連項目は多岐にわたっている。予備知識もない糸は用語の理解から始めなければならない。
 
「とりあえず今日は帰れば。明日、榮倉が来たらミーティングするから」

 榮倉は出張で、一日出社していない。

「……では今日はお先に失礼します」

 そう言って糸はパソコンの電源を落とした。

 思いのほか早く帰ることができたので、糸はスマホでネイルサロンの空きを調べた。
 しばらく、堂道と接近戦が増える。
 となると、女心としてはどうしても見られることを意識してしまう。
 堂道はそんな細やかなところなど、見てやしないだろうけれど。

 運良く予約ができて、施術が終わってもまだ二十一時だった。
 会社ではないビルの窓を見上げて、おそらく残業しているのだろう堂道を思う。

 帰りの電車の中で、久しぶりに堂道とのトーク画面を立ち上げた。
 艶めくヌードベージュの指先で、『しばらくお世話になります。よろしくお願いします。本当に、他意はありませんからご安心ください』と文字を打った。
 
 返事はなくとも、糸の満足げな笑みが車内の窓に映る。

 今は、恋愛感情の継続如何よりも、単純に堂道の助けになれるかもしれないのが嬉しかった。


18.堂道課長は仕事はデキる

「とにかく今は恋愛感情抜きで仕事に集中する」という糸の誓いはきっちり守られていた。
 というもの、そんなことを思う暇もないくらい業務が忙しかったからだ。

『あー、俺。あと三十分で戻るから資材部にサンプルもらいに行っといて。倉庫に過去三期分あるはずだ』

「はい!」

資材部に連絡をいれて鍵をもらいに行って、台車を借りに行って、三回は往復しなければいけないが間に合うだろうか。
 そもそも、堂道は会議か外回りかで席にいないことがほとんどで、たとえば仕事もせずハートの目で課長席を見つめているようなのんきは全くない。

『頼んでた発注先候補のリストアップは終わったか?』

「はい。終わってます!」

昨日からかかりきりで、なんとかできたのはついさっきだ。ぎりぎり間に合った。
 堂道の悪口の中に『鬼』と呼ばれるものもあって、糸は形相や口調からそう言われているのだと思っていたが、人使いの荒さのことだったのかもしれない。
 タスクが山積みの糸は、堂道の不在を惜しむより、むしろ堂道の帰社におびえるくらいだ。

「戻ったー。榮倉、いるなー? じゃ、V社ミーティング三分後」

「は、はい!」

糸が何をしていても招集がかかれば書類をかき集めてブースへ走る。
 女性社員にお茶くみ義務は強要されないが、飲み物の用意があれば喜ばれる。
 二人のやりとりの内容を一言一句もらさないよう必死でメモを取る。

「あー、たぶん書類、紙で残ってんな。資料室の90年代の棚だ」

「はい!」

資料室に行くのも一人だ。
 堂道がついて来てくれたことは当然ない。
 やはりあれはとても貴重な機会だったのだと実感する。

電話をかけて、受けて、メールを送って、受信して、手配して、コピーして、変更して、更新して……と内勤も地味に大変なのだ。
 充実しているとか「やりがいがー」とか、目指せ仕事のデキる女とか、もうそういう問題ではなく、本当に忙しくて、糸がヘルプに来るまで、これらの雑務をやっていたのかと思うと、普通に上司として見直さずにはいられない。

デスクの上のスマホが震える。
 堂道からだ。榮倉と糸と三人でやりとりしているグループSNSに、通知のならない暇はない。

『静岡終わって直帰の予定』

時計を見た。予定の新幹線に無事乗れたらしい。
 就業時間もとっくに過ぎて人の少なくなったフロアで、糸はゆるりと辺りを見回した。
 残業する人間がちらほらいる。二課には尾藤も、一課は羽切がまだ残っていた。

今日は榮倉も外回りからの直帰で、もっと早い時間に帰途につく旨の連絡が届いていた。
 久しぶりの早帰りで、今頃ゆっくり骨を休めているか、思いっきり羽を伸ばしているかのどちらかだろう。

『お疲れ様です。本社、急ぎの用件はありません』

『了解。おつかれさん』

堂道から返信が来たかと思うと、またスマホが震えた。

『あんたももう帰れ』

三人のグループラインとは違う、糸と堂道の個別チャットに届いたメッセージだ。

花だの月だのと他愛のない内容を堂道に送り付けていたのはもう過去の話。
 やりとりをしなくなり、動かなくなっていた二人のトークルームが、近頃はこんなふうに使われている。
 特別な気遣いは、普通の部下に対するサービスではないように思う。
 糸が『出向』している身分だからだろうが、ビジネスライクなようでいて、なかなかにプライベートだ、と思っている。
 榮倉のいる三人グループでやりとりしても、なんらおかしくない内容なのに。

糸は製品の試験データの整理をしていたところだった。
 今日中に終わらせたかったが、管理職権限でシステムに入れば、糸がまだ会社にいるのがウェブ上で見えてしまう。
 残業する他課の部下を差し置いては、堂道もゆっくりできないだろう。

『帰ります』

糸は退社する支度を始めた。
 帰れば、また堂道だけに宛てて『帰りました』と送る。
 そうすると『了解』という堂道に似つかわしくないギャグ風のスタンプが送られてきて、糸は一人で笑ってしまうのだった。

「オラ、榮倉! T物産の見積もり出しとけっつただろ!」

「すみません!」

「お前がどんだけデカイ案件抱えてようが、お前の都合に仕事は合わせてくれねえんだよ! 並行させろ!」

近頃、堂道の機嫌がすこぶる悪い。
 日に日に濃くなる目の下のクマが、さらに凄みを加えている。出勤は糸より早いし、退社も当然堂道の方が後だ。最終プレゼンは来週に迫っていた。

「堂道、機嫌悪すぎ。糸、マジどうにかして」

昼休みの女子トイレで、夏実がパウダーをはたきながら言った。
 最近は、糸も化粧直しに気合が入っている。
 特に気を配っているのはテカらないこと。

「そうは言っても、私自身が地雷を踏まないよう毎日必死なんだよ」

「課長、超高圧電線みたいだよねー。触れただけで即死」

「まあね、糸にしかあのポジションは無理だったよ。今回に限っては、糸が課長を好きでよかったと思った。人柱様!」

「役得って言えるのか……」

言いながら空しくなる。
 ほんのり嬉しく思っていた個別のやりとりも、いつまでたっても「帰りました」「了解」「帰ります」「了解」の連続で、業務連絡に毛が生えたような、よその課の人材だからこその気遣いの域を出ない。

「結構、残業してんじゃん? なんかないの、そこで」

「ホントホント、ないわけー? 深夜のオフィスで、上司と」

「ないよ……」

状況だけなら、深夜のオフィスに二人きりということがないわけではないが、そこに甘い要素は皆無だ。
 確かに、今は業務が最重要事項で、恋愛の進捗など二の次だと戒めているし、これを機に進展を望もうなど滅相もないが、それにしても堂道の態度はまるで自分に好意を持っている部下と仕事をしているとは思えない。 割り切り方が合理的すぎて、ぐうの音も出なかった。 夜食一つにしても「何か買ってきましょうか」の誘いさえ断られている始末だ。

自分に気があるとわかっていて、しかもフッた相手と来たならば、いい意味でも悪い意味でももう少し意識したり、気を遣われたりしてもいいのではないかと思う。 本当にただの上司と部下、むしろそれ以下かもしれない。 特別な気持ちのやりとりなどなかったことにされている。 確かに、糸の言動に他意はないとも、もう恋愛的なアレコレは諦めます的なことも言ったけれど。

「ま、榮倉さんもいるもんなぁ」

「飲み行く時間もないし、実際、そんな時間があるなら帰って寝てほしいとも思う」

「愛だねー」

「糸くらいだよ、堂道の身体心配してるのなんてさ」


19.堂道課長はラーメンを食べたい

そんな話をした日の夜だった。
 長々と続くミーティングの席で、堂道は資料を机に投げ置いた。

「なんかもっといい案ねえのかァ?」

プレゼンの資料はだいたい整ったが、構成で行き詰まっていた。
 糸には勝てるプレゼンテーションのノウハウなどない。多少、見栄えのいい資料作りができるくらいだ。
 的外れな発言をするよりはと黙っていたら、ただこう着状態を見守るだけの人になっていた。

「ったく、マジでなんかねえのかよー」

堂道は唸りながら上半身で伸びをする。
 そのままの姿勢で、腕だけ折り曲げて顔の前で時計を見た。

「二十二時前か……。たまには一杯やりながらアイデア出すか」

「え?」と糸が浮かれた声を発するのが早いか、榮倉が、
「あー! ……それが僕、今日用事あって……」

へらへらと笑いながら、頭を掻く。
 こんな時間から、いつ終わるかもわからないミーティング後に、用事などあるだろうか。

「あ、そ。じゃ、今日はもうやめな。このままやってもいい案なんか出そうにねえし。ハイハイ、かいさーん。さ、帰れ帰れ」

堂道は首を鳴らして、広げていた資料をばさばさと集めはじめた。
 ノートパソコンを閉じながら席を立つ。

「あの、課長は? お帰りにならないんですか」

「んー。ああ、そうな、俺は他の仕事もうちょい片づけるかな。たまゆらサンもはい、サヨウナラ」

「お手伝いできることは……」

「あんただけいてもしゃーないから。欲しいのは奇抜なアイデアなんすよ」
 
 慌てて資料を整理する糸に、
「玉響さん、M線だよね? 俺も」
 と榮倉が声をかけてきた。

「ああ、榮倉送ってやれば。この時間、M線は酔っ払いばっかだからな」

それ以上粘ることができずに、糸は榮倉と会社を出た。
 エレベーターに乗るや、どんと壁に背中を預け、榮倉は「玉響さん、褒めてよー」と脱力した。

「飲み断るの超勇気いったしー。グッジョブ、俺。回避できてよかったねー」

「……正直、私、行く気でしたけど」

糸が少しムッとしながら返すも、気づいてはいない。

「えっ、なんで!? 課長と飲みとか、玉響さん、そんなのジゴクでしかないでしょ」

「別に、そんなことないです」

自動ドアをくぐって外に出ると、頬に当たるビル風は湿気を多く含んでいた。

「いやいや、それもう神経摩耗しすぎておかしくなってきてんだよ。堂道ホリックの症状だよ。ホント頑張ってると思うよー、玉響さん。二課でもないのに堂道課長と仕事するなんてそれもう悪夢でしかないでしょ。でもさ、徳を積んどけばきっといいことあるって」

榮倉は解放された反動かやたらと饒舌だ。
 ふと、駅へ向かう足を止め、行先の変更を匂わせる仕草をした。

「せっかくだし一杯飲んでかない? めちゃ愚痴たまってるでしょ。近くにいい店あるんだー。隠れ家的なダイニングバーなんだけど」

榮倉の事は嫌いじゃない。勘違い野郎でもないし、社内の評判も悪くない。
 時間もあるし、堂道の愚痴もそれなりにはある。
 隠れ家的な店も気にはなる。

それでも、糸は、
「すみません。私、……今日はもう失礼します」

叫ぶように言って、駆けだした。

糸は乱れた呼吸を整えるのも忘れて、二課が寄せ合う机の手前に立った。
 窓際にある課長席からは少し離れている。

「あー? どうした?」

フロアは、糸たちが帰ったあと照明を必要部分だけに落としたのかひどく薄暗い。
 その中で、青白いモニタの光に照らされた堂道はもともと良くない顔色がさらに悪く見えた。

「なに、また忘れもん? つか、あんとき忘れたとか言ってたの、あれ口実だろ?」

「そうですよ」

「ヒェー、さすが肉食系。あ、確かあの日の送別会も焼肉だったっけ」

「……全然、食べさせてくれないじゃないですか」

糸の反論はあまりに意味深すぎて、口許で呟くだけに留めた。
 当然、堂道の耳には届かない。

「で? 今日はマジで忘れもん? 榮倉は帰ったのか?」

「やっぱり、私、一杯やりながらのアイデア出ししたいんですが」

「ああ、無理、無理。わかってんだろ。二人は無理。三人寄れば文殊の知恵って昔の人も言ってる。アイデア出しは三人限定っす」

「いい案思いつきそうなんですよ」

「……ヘルプに他意はねえんじゃなかったっけ」

ようやく視線をパソコンから糸に向けた堂道の目は、相変わらず冷たい。
 口調も突き放すように鋭くて、糸はゆっくりと薄暗い自席へ向かう。

「……明日までの仕事、忘れてました」

俯きがちにそう言って、デスクに鞄を置いた。
 力なく椅子を引いて、とすん、と座る。

端に積んであった資料の山から、数枚ずつセットにして角を揃える。
 BGMも人の話し声も電話の音もない空間で、ホッチキスでひたすら書類を綴じる。
 バチン、バチンとリズムを刻みながら、頭の中は新しい案でもなく、堂道とのこれからでもなく、終電の時間でもなく、堂道と二人きりだと言うことでもなく、ただ無秩序に様々なことが脳内をぐるぐる回っていた。無力感や絶望感にも似た何か。運命のいたずらで手に入れたこの状況に慣れてしまったのか、攻撃に必要なパワーは不足している。

「ホッチキス留めが明日までの仕事かよ」

気づくと、堂道が無表情で糸の後ろに立っていた。
 ポケットに突っ込んだ腕に鞄をひっかけているので、課長席を見ると、ノートパソコンは閉じられていた。

「帰る?」

「え……あ、はい!」

糸は机に無造作に重ねていた資料を揃えて、鞄を持つや席を立つ。
 先に行く堂道を追いかける途中で、フロアの照明が落ちた。堂道が消したらしい。

無言で、二人で、エレベーターを待った。
 何も余計な口を開かなかったのは、糸も疲れていたからだ。仕事に。この状況に。

エレベーターの中でも無言だった。
 駅までは堂道と同じ道だ。特に何か確認する必要もなく、ビルを出ると自然に二人共の足が駅のある方向へ向かう。
 しばらく歩いたところで堂道が言った。

「ラーメン行くか?」

「へ」

間抜けな声が出た。

「他意はない。腹減っただけ」

「い、行きます! 行きます、私もお腹減りました、食べたいです。ラーメン!」

「あ、そ」

駅までの道にあるラーメン屋の暖簾をくぐる。
 堂道が先に、糸が後に続いた。
 毎日前を通っているが食べたことは一度もない。興味もなかった。
 店内はすべてがきれいとは言いがたく、客も二人しかいない。見るからに活気のない店だった。
 覇気のない老年の店主がカウンター越しに水を持ってきた。
 露なのか溢れたのかわからないが、グラスのまわりが水浸しだ。

「私も同じもので」

会話らしい会話もせずに、堂道が注文した醤油ラーメンに倣った。 
 瓶ビールを注文して、小さなコップに堂道が注いでくれる。

「さ、アイデア出せよ」

「口実ですよ」

糸が平然と言うと、
「……知ってら。だからって、そんな素直に認めんな、ボケ」

初めて見た堂道の笑い顔だった。
 天井から吊り下がったテレビが、誰も見ることないバラエティを寒々と映している。
 
「はい、醤油二丁ね」

「ざっす」

「熱いからね。気を付けて」

「ありがとうございます」

店主は深夜のくたびれた社会人にちょうどいいテンションだった。
 行列のできるような人気店だと、こうは落ち着いていられない。
 出来立てのラーメンは湯気が立ち上って、それなりにおいしそうに見えた。澄んだスープに浮かぶもやしと新鮮なネギの匂いが食欲をそそる。
 糸が、肩下の髪をゴムで束ねていると、堂道は自らカウンター上の透明ケースから箸を出して、差し出した。

「ハイ、ドウゾ」

「……ありがとうございます」

割り箸を割る音からすする音までがしょぼくれた店内に聞こえて、糸は少し気を遣う。
 女友達と遠慮なく食べるのとはわけが違う。
 レンゲに取った一口分を、すぼめた口で二本、三本ずつしか食べられない。
 それに引き換え、堂道は当然ながら豪快だ。熱さを物ともしない。

「つか話戻るけど、マジでさ、俺なんかのどこがいいの? 後学のために聞かせてくれ」

音を立てて麺をすする合間に聞いてくる。
 時間が命の麺類で、糸はそれでなくとも熱くて食べるのに時間がかかって焦っているのに聞いてくる。

「話、戻りすぎですよ」

「……いや、ま、それは確かに」

「それに、後学ってなんですか」

一口水を飲んでから、
「課長、再婚する気ないんじゃなかったですか」

「ねーけど、女を口説く機会はあるかもしんねえし。普通に気になるもんだろ、そこは、やっぱ」

堂道は食べると答えるを秒単位で切り替えている。
 話の内容に対して、食事のチョイスが間違っていると思った。

また、糸は水を飲み、
「課長ってハンカチにアイロンかけてますよね」

「……ハイ?」

堂道の食べると話すのテンポが狂う。

「それが意外だなって、思ったんです。最初」

「なんだそれ、期待したわ。もっと、素敵エピソードじゃねーのか」

「それからなんとなく気になって、いつも課長のこと見てました」

糸はいつの間にか、堂道のように咀嚼と会話をスムーズに両立できていた。

「どんな素敵エピソードがあると想像されてたんですか一体」

「いや、だから、思い当たるところがなかったから! そういうきっかけ的なものがさ。たとえば仕事一緒にしたとか、指導担当だったとか、社内恋愛でありがちなそういうのがさ。だから不思議で!」

ラーメンに集中している糸の横で、一人、そーか、ハンカチが、へー、意味わからん、とあまり納得がいっていないようだ。
 どんぶりに口をつけ、最後にスープを飲んだ堂道は、残りのビールもぐいと飲みほした。

「ご自分でなさってるんですか。週末とかに?」

「俺、Tシャツにもアイロンかける人」

「え」

糸は思わずどんぶりから顔をあげる。

「さすがに仕事のワイシャツは面倒だからクリーニングだけどな」

「いつもパリっとしてますもんね」

「……別に。だいたい、アイロンなんてやり出したの最近だし。人にさ、清潔感大事にしろとか言われてやり出したんだよ。したら、もう皺が気になって気になってしょうがねーのな。まー、あれだな、育ってきた環境ってやつ。ウチの母親、タオルにもアイロンしてやがったから。さすがに俺はそこまでしねえぞ。それはヤバイだろ」

「え、お姑さん……?」

「いやいや、なんで。心配すんな。あんたの姑にはならねえから」

真顔で糸にツッコミを入れて、
「ま、一人も長いしな。すっかり家事のできる男になっちまって、まあその辺は時代に乗り遅れてねーな、俺。さ、食ったら行くぞ」

糸は慌ててビールのコップを空にした。
 店を出ると、堂道は駅の方を向かずその場で腕の時計を見て、
「たしか……、家、Nだったっけ?」

「はい。Nですが」

「ふーん、ま、通り道っちゃ通り道か……? 乗ってくか。タクシー」

「いいんですか。私はまだ電車ありますけど」

「電車で送るの面倒だ」

一人で帰れますとは言わなかった。
 タクシーを止め、糸が先に乗り込む。
 行先を言う段になって、
「家まで行ってもらえよ。大丈夫だ、心配せずともどこだか知ったからって押しかけたりしない」

「逆にうちでコーヒー飲んで行きません?」

「その手にのるか」

「課長、明日も早いんでしょ? 会社近いですよ。それに、うちを回ると遠回りなんでしょ?」

「ヒェー。男が草食で女が肉食ってマジだったんだなー。俺の時代にそうなって欲しかったわ」

「私、そんな肉食じゃありません!」

糸が語気を強めて言うと、堂道は窓にもたれ、顎に手をあてがった。車窓からオフィス街を眺めている。

「堂道課長だからです。全然相手にしてくれないからです」

深夜のタクシーに微妙な関係の男女が乗っているのに、どうしてこうもままならないのか。
 切なさを通り越して、もはや怒りにも似た感情が胸にあった。

やがて、堂道がこぼすように言った。

「ラーメンは一緒に食ったけどさ、やっぱり考えは変わってねえよ」

「わかってます……」

「けど、ヘルプに来てくれて正直助かったし、あんたでよかったよ、マジで。礼言う。サンキューな」

堂道が糸の部屋でコーヒーを飲んで行くことはやっぱりなかった。


20.堂道課長の家には嫁がいる

コンペは終了し、なんと二課は大手競合に打ち勝った。
 たったその一件で、半期目標額の三分の一を占めるビッグプロジェクトだ。

糸はコンペの会場には行かなかったが、二課に連絡が入るよりも先に、V社グループの三人ラインに結果の報告が来た。
 榮倉からだったが、堂道からも『お疲れさんでした』と送られてきた。
 そもそも、糸はコンペの前日に一足先にお役御免となり一課に戻っている。

本来なら当然、打ち上げの流れになるが、なかなか日取りは決まらなかった。
 榮倉があえてその話を『流してくれている』のかもしれないし、堂道には他の仕事もあり、榮倉自身も契約後の各部署とのやりとりで忙しそうだから流れているだけかもしれない。
 加えて二課は新しい契約社員を採用するらしく、椎野も大きな案件を抱えていてずっとバタバタしていると夏実が言っていた。
 
 堂道とのメッセージのやりとりもなくなり、糸の朝の待ち伏せも再開のタイミングを見失った。
 接点は以前の恐れ嫌っていた頃と同じレベルにまで戻っていたし、糸ももう諦めている。
 あの堂道と二人でラーメンを食べて、タクシーで送ってもらっただけでも、すごい快挙だ。

そんなとき、羽切が一課で慰労会をしようと言いだした。
 糸の不在は、当然小夜の大きな負担になっていたし、他のメンバーにも少なからず迷惑をかけていたので、糸と小夜をねぎらうと共に他の社員もお疲れ様というわけだ。
 予約はチェーンの居酒屋だった。

「玉響さん、二課での奉公、誠にお疲れ様でしたー!」

「糸ちゃん、よく生きて帰ってこれたなぁ」

「あ、みんな、今夜は堂道も持ってくれてるから。また礼言っといてな」

「さすが堂道課長!」

「堂道課長いないけど、勝手にごちになりまーす」

現金な平社員たちは、鬼の居ぬ間にとこぞって次の飲みものを注文しようとピッチを上げる。
 堂道の懐を痛めることで日ごろの鬱憤を晴らそうとでも思うのだろうか。もともとが飲み放題の設定だからいくら飲もうと会計に影響はしないのだが。

糸は、羽切と小夜と、営業職のメンバーとは一線を画したテーブルの端に席を取っていた。
 羽切がこっそり、コースにない単品料理を頼んでくれる。

「玉響さん、本当に今回はありがとう。感謝してる。嫌な役回りをさせたね」

「いえ、まったくです。二課の利益は会社の利益ですから」

「そうは言っても、正直なところ二課には誰も行きたがらなかっただろうし。ほんと玉響さんがいてくれてよかったよ。堂道も仕事がやりやすかったって感謝してた」

「……そうですか。よかったです」

「ぶっちゃけ、私じゃなくてよかったって思いましたもんー」

小夜が肩をすくめる。

「まあ、相手が堂道だからねぇ。逆に玉響さんが、堂道の何をもってそんなに好意的なのか知りたい気もするけど。あ、玉響さんってゲテモノ食い?」

「それ、堂道課長にも言われました」

糸が苦笑すると、
「え、堂道さんってそんな自虐的なこと言うんだ!?」と小夜が驚いている。

「ああ、あいつは他人からの評価をよくわかってるから。それでもなお、あんなままなんだけど。普通は多少なりとも変わろうとするよなぁ」

羽切も苦笑いだ。

「……堂道課長の意外な一面を知る偶然機会があって、それからよく観察するようになったんです。私も前は怖かったし恐れていましたけれど、あ、すみません」

「いいからいいから。オフレコオフレコ」

「よく見てたら他にもいろいろ発見があって……。怖いし、言動はものすごく悪いけど、中身はそこまで嫌な人じゃないのかもって」

上司に失礼千万だば、酒の勢いに任せて言った。
 羽切は堂道に近しいし、隠しておくべきが正解だろうとはわかっていた。ましてや上司に自分の恋の話をするなんてありえない。
 しかし、愛されない堂道を心配する羽切を安心させたい気持ちと、糸が知る堂道の一面を誰かに言いたい顕示欲でもあった。

「うわ、ほんと!? マジそう思った!? そうなんだよ! あいつは噛めば噛むほどいい味出るスルメみたいなやつなんだよ! ま、噛まないとわかんないんだけどさ! ねえねえ、玉響さんみたいな人、この世の中に他にもいるよね? 絶対いるよね!?」

「私みたいな……とは? さ、さあ……どうでしょう」

「堂道だって結婚もしてたんだし、あんなかもしれないけど、過去には好きになってくれた人がいたってことだろ!?」

「え、はあ……まあ、そうですね?」

羽切の熱弁に、小夜もたじろいでいる。

「堂道をいいって言う人が、まだこの地球上にいると信じて、俺は、その人をなんとしてでも見つけたいんだよ!」

「……何気に課長、ひどくないですかー? それに、そんな地球レベルで探さなくても、ここに……」

小夜の話を無視して、羽切は続ける。
 酔っているらしい。

「こんなにみんなに嫌われて、正直なところ寂しいと思うんだよ。まあ、素直じゃないし、虚勢張ってナンボと思ってるところあるし、実際、独り身も気楽は気楽なんだろうけどもさ」

「……虚勢張ってなんぼって考え方がさすが元ヤン」

小夜がぼそりと呟くも羽切には届いていない。

「最近さ、家庭にしかない幸せみたいなもんもやっぱりあるって実感するわけ。社畜人生だって家族がいるから耐えられる。なんのための給料かっつったらさ、家族のためなわけじゃん? あいつなんか金の使い道なさすぎて、最近AI家電ばっか買っててさ……。ルンバも二台もあるんだよ?」

「ルンバ二台……ウケますねー。それ、絶対名前つけてますよ」

「『ウチのアレクサがー』とかまるで嫁さんみたいに言ってる時あるし。だから、俺、堂道に嫁さん見つけてやりたくて」

「堂道の嫁、アレクサ! ウケるー!」

小夜もそれなりに酔っているらしい。
 糸は軽くため息をついてから、とうとう白状する。
 バラしちゃいますごめんなさい、と一応堂道に心の中で言い訳をしてから、
「……私、不合格でした。実は、立候補したんですけど」

「え?」

くだを巻く様相の羽切が、ぱっと顔をあげえる。

「え? え? マジで?」

「マジです」

「えー! そうだったの!? ……確かに、堂道のことをいち人間として広い心で理解しようとしてるなんて、玉響さんって聖職者か何かと思ってたんだよ」

「糸はただの恋する乙女ですよー」

「え、ちょっとこれセクハラになるかもしれないけど、玉響さんみたいな若い人が堂道を? それはそれで信じられないけど。恋愛対象になるの!? オジサンだよ? 優しくもなく、ジェントルでもない、むしろ嫌味なオッサンだよ!?」

「でも優しいところもあるって、知りましたし」

「もう糸ってばずっとこんな調子でー。恋って怖いですよねぇー」

「そうか、そうだったのか……。それ知ってたら、今日だって無理やりあいつ連れてきたのに……って、ちょっと待って。断られたって言った?」

「ええ、再婚する気もないし、年齢が特にダメな理由だそうです」

「えー、なにやってんの、あいつ……千載一遇のチャンスを……」

羽切は嘆きながら頭を抱えた。

そしてしばらく考えていたが、真面目な顔になって、
「それなら二課の事務も新しく採用するんじゃなくて、そのまま玉響さんに行ってもらう案を提案すればよかったね」

「いえ、それは、堂道課長もやりにくいと思いますし、私も余計な気を遣わせて迷惑かけたくないので……」

羽切はがっかりと肩を落とした。


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