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部下に手を出す上司は信用できない11~15

1話~5話 6話〜10話 (全31話)

11.堂道課長は今日はいない

 廊下ですれ違っても、糸はもう馴れ馴れしく声をかけたりできない。
 堂道を困らせるようないたずらなやりとりもできない。
 メッセージのやりとりも少し前の日付で止まっている。 ブロックされているかもしれないがあえて確かめてはいない。

「……お疲れ様です」

「おつかれさん」

 それは、社会人の常識としての最低限の挨拶。

 堂道はあれから何も変わらない。
 糸の動向が堂道にとって取るに足らないことだとはわかっている。
 糸が絡まなくなったからといって、いつもより機嫌がさらに悪くなるわけでもなく良くなるわけでもなく、従来通りの嫌われ者のまま。

 堂道に言われたことは、それなりにショックだった。

 軽い気持ちでもない。からかうつもりなんてもっとない。それを即座に弁解することもできず、その後そんな機会も当然糸にはなかった。

 それに、正直なところ、ひょんなきっかけから接点のできた嫌われ者上司を馬鹿にするような軽い気持ちがこれっぽっちもなかったとはいえなかった。
 興味本位であったことは否めない。

 スマホの、堂道とのトーク場面を過去にスクロールしながら、やりとりを何度も眺めたり、あの朝、堂道に言われた言葉のすべてを覚えていなかったが、覚えている個所を何度も繰り返し思い出しては、物思いにふけることもあった。

――それにしても。

「……漫画って、少女漫画のことかよ! って突っ込みたかったなー……。なんで少女漫画のそんな設定、知ってんの。キモいなー」

 少し笑える。

 泣きたいとも思ったけど、涙は出なかった。

 やっぱり、珍しいおもちゃを見つけて、一瞬夢中になっていただけだったのかもしれない。

 一課の営業二人と小夜と四人で、会社帰りに飲み行こうということになった。

 特別な理由もなく選ばれた店は、その時も飲んでいたところに堂道がやってきた店だった。会社からほどよく近すぎず、安くて旨いと評判だ。

「マジで二課じゃなくてよかったよなー」

「同じ課長でも羽切さんとは大違いだよ。俺もいつか、ああいう上司になりたいわ」

 相変わらず、会話の半分くらいを占める堂道の愚痴を、糸は切ない気持ちで聞いていた。
 
 何気なく眺めていた居酒屋の引き戸のガラスに人影が映ったかと思ったら、店員の「らっしゃーせー!」という声と、そこに堂道が現れたのは同時だった。

 瞬間、目が合った。

 糸はこの店で、偶然堂道と一緒になりはしないかと下心があって訪れたことが何度かある。

 しかし、今日に関しては全く予想も期待もしていなかった。堂道の予定が、今日一日出張で出社しない扱いとなっていたからだ。

「うわっ、課長たちじゃん!」

 羽切が一緒だ。椎野もいた。
 運良くなのか、悪くなのか――間違いなく糸以外の三人には『運悪く』になるのだろうが――糸たちのテーブルの隣しか空席がない。

 堂道が足を止めて、後ろに続いていた羽切に何かを言っている。
 おそらく店を変えようと言ったのだろう。

 堂道が体を半分ひねって引き返そうとしたとき、
「課長! ここ空いてます! どうぞ!」

 前の席に座る男二人が立ち上がって、隣のテーブルに誘う姿勢をとっている。

 即座にその行動がとれる二人は、ゆとり世代と言われながら、その実、社畜思想が確実に彼らを蝕んでいるらしい。
 得てして、若い世代の社会人に一番嫌われるイベント、『上司と飲む』形になってしまった。

「せっかく飲んでるとこ悪いね、邪魔するよ」

 羽切が上着を脱ぎながら申し訳なさそうに言う。

「いえいえ、全然大丈夫っす!」

 通路を挟んだ隣の四人掛けのテーブルに、後から来た三人が腰を下ろすと、この期に及んで糸と堂道は隣の席になった。
 通路は挟んでいるけれども、たまたま順番と並びと残った席がそうだったからだ。

「……糸ォ、平気?」

 小夜が小声で体を寄せてくる。

 堂道の追っかけをやめたことは、詳細は端折って夏実と小夜には報告済みで、さすがにいつもお気楽の小夜も複雑な表情だ。

「詫びと言っちゃなんだけど、どんどん飲んで。俺と堂道のおごり」

「は? まじかよ」

「俺らもしてもらったじゃん。こういうのは若い世代に返していかないと」

「あざーっす!」

 だからと言って、それからの時間、糸と堂道の間はもちろん二つのグループの間にさえ何も起こらなかった。

 あればいいのにとずっと願っていた堂道と一緒の酒の機会だったが、想像していたものではまるでなかった。
 堂道と並びにいるので、見ることもできないし、見えることもない。

 怒鳴り声ではない、普通に話す堂道の声が聞こえてくるだけだ。

 隣の席の話題は部長の愚痴、仕事について、取引先のことを普通に話して、飲んでいた。

 何度か、堂道は煙草を吸うために席を立った。

 ただそれだけだった。
 糸たちに絡んでくることはなかった。 
 例えば夏実が羽切と話すことがあるように、世間話くらいなら、隣りの課のメンバー同士に普通によくあることなのに、みんなから忌み嫌われている堂道だから、糸にはそんな機会さえ与えられないのだ。

 間にはばかる通路は、まるで一年に一度しか橋のかからない天の川のようで、向こう岸はとても遠い。


12.堂道課長は押しに弱い

 ある日の午後、一課の直通電話を取った糸は困り果てていた。

「申し訳ございませんが、ただいま営業担当が不在でして」

 取引先からだが、担当者も課長の羽切も出払っていて、今は糸と小夜しかいない。

「至急、折り返しのご連絡をさせていただきますので」

 何度そう言っても、相手はなかなか納得しなかった。
 どうやら、あえて不在を狙っての架電のようだ。
 営業担当と至急連絡が取りたいのではなく、さらには責任者がいないのを逆手にとって、所詮事務でしかない糸の言質をあえてとりにくる作戦にきりかえたのだろう。
 無意味に、不当に、粘られる。
 心配そうに窺ってくる小夜に、うんざりの表情を返す。
 
「わたくしの権限ではこの場でのお返事はいたしかねます。ええ、ええ、ですが……」
 
 相手がだんだんと高圧的になってくる。
 なんとなく、背中に視線を感じた。
 もし堂道にこの応対を聞かれていたとしたら、仕事のできないやつと思われてるだろう。
 電話の一本もさばけないのかと思われているのだろう。
 そんなこともできないでいるのに俺をからかう暇はあったのかと。

 ふいに泣きたくなった。
 あの朝、堂道に言われた言葉をやっぱりどうしても否定したくなった。そんなつもりはありませんでしたと無性に叫びたくなったその時。

『誰?』と書かれたメモが肩越しに差し出される。
 汚い、乱暴な字だ。

 振り返って見上げると、堂道が糸を見下ろしていた。
  
(え?)

 糸は相当間抜けな顔をしていたはずだ。

「デンワ、どこから?」

(え?)

 低く言われて、わけがわからないままパソコンのモニタを指し示した。
 受注の詳細ページにアクセスしている。

「ふーん……」

 堂道は糸の後ろから、同じ目線の高さにまで体をかがめた。

 ────あの香りだ。

 タバコに混じる、何かの香り。
 こみ上げてくる涙を、糸は必死に我慢した。

 糸は、もう堂道を怖くない。拒絶されても、怖くはない。
 それ以上に悲しい。
 この男の意外な部分を糸は知っていて、さらにこれ以上それを知ることができなくて悲しいのだ。寂しいのだ。

「代われ」

「えっ? え、あ、あの、少々お待ちくださいませ」

 堂道は電話を奪い取った。

 フリーになった糸は、相手の要求を急いでメモに書いて伝える。
 糸のすぐ後ろで、仁王立ちになって電話を受けている堂道に渡す。
  
「お電話代わりました。課長の堂道と申します。確認させていただきましたが、おっしゃっている期限は昨日までのようですが? 変更されるにしましても、再度お見積りさせていただいてからのお返事になりますので」

 糸のデスクに転がっていたペンを勝手に使って、堂道はメモに『ロクオンしてるか?』と書き足した。
 堂道を見上げて、糸は頷いた。目を見て、しっかりと頷いた。

 問答の後、ようやく受話器が置れると、
「……ありがとうございました」

「相手がクソ」

 そう言い捨てて、堂道は胸ポケットを探りながら、廊下の方へ歩いて行った。

 向かいの席で、目を輝かせてるのは小夜だ。
 でしょ、かっこいいでしょ? と糸は得意げに、そして、泣きそうだった。

 今までもこんな事態はあったのかもしれない。
 しかし、当然ながら助けてもらった記憶はない。

 被害に遭っていたのが糸だったから。そう思っていいのだろうか。

 駅で待つこと一時間半。
 いつもと逆の人の波。
 夜に待つのは初めてだ。

 緊張で少し手が震えている。

 少し、期待もある。この状況に、わくわくできる神経が自分でもわからない。一度、玉砕していると言っても間違っていないのに。

 二時間近く待った頃、ようやくホワイトカラーヤンキーが姿を見せた。

「堂道課長!」

「あー、あ?」

 糸と認めた瞬間、不機嫌な表情に怪訝が加わった。

「課長を待ってました」

「は? 懲りねーやつだな。ウザいって」

 すごまれたって怖くない。
 邪見にされても負けない。くじけない。

「おごります」

「は?」

「今日のお礼におごります!」

「ハァ!?」

 なんでだよ、意味わかんね、帰りたいんだよ、家遠いんだよ、会社のやつに見られたらどうすんだよと散々言いながら、糸に腕を掴まれた堂道は、五分後、居酒屋のカウンターに座っていた。

13.堂道課長はおしぼりで顔をふかない

「……おしぼりで顔ふかないんですか」

 気合と興奮と緊張とでテンションが少しおかしくなっていた糸の不躾な発言に、「するか、そんなオッサンくせえこと」と堂道はしかめっ面で言った。

 年齢自認はオッサンではないらしい。
 糸は自分が実は「オジ専」だったと認識を改めなければならないと思っていたところなのだが。

 勢いで居酒屋に引っ張ってきたものの、冷静になってみると、とんでもない状況であることに気づき、糸はとりあえずの生ビールの中ジョッキを、半分くらいまで一気に飲んだ。

「おいおい待てって。あんた酒強いの? 飲ませて酔わせたとか後で言われんのマジ勘弁なんだけど」

「弱くありません」

「それならいいけど。って、ここってやっぱり俺が払うんだろ?」

「私が払います。って、強くもないですけど」

「は? なんだよそれ。もう飲むのやめて。つーかさ、なんなの。今コレ、この状況」

 と言いながらも、「あ、すんません」と店員を呼んで、糸に配慮も遠慮もなく、オッサンくさいアテをいくつか注文した。
 不本意だろうが、糸とて若い女なのだから「なんか食べたいもんある?」とか、フツウ聞くべきでは? 
 そもそも、平常運転すぎないか。
「電話対応、ありがとうございました」

「いや、普通のことだから。羽切不在だし。だから、礼とか逆に迷惑なんだけど?」

「からかってるつもりはありませんでした!」

「は?」

「私、堂道課長のことからかうつもりなんてありませんでした。っていうか罰ゲームって発想、ウケるんですけど。もしかして、いじめられてたんですか? いじめる方じゃなくて? それより課長、少女漫画読むんですか? やばくないですか」

 思ったことか思ってもないようなことなのか、それすらも考えないままにすらすらと言葉を紡ぐ口。

 からからの身体がぐんぐんアルコールを吸収していくのがわかる。すきっ腹のビールは糸を強気にする。
案の定、酔っ払いのウザ絡みと思われたようで、堂道は返事をする気もなさそうだ。

「お、ハタハタあるじゃねーか」

 糸を見ず、メニューを見て、独り言を言っている。

「……私、部下として可愛がってもらってると思ってました。……一人で勘違いして、浮かれてたんです」

 言ってて、泣きそうになった。
 ウザ絡みの最終形だ。

「羽切にかわいがってもらえ」

 堂道は相変わらず糸を見ずに言った。

「課長、冷たい……」

「俺、部下に手ェ出すとか、マジけーべつしてっから」

 発言と内容とその矜持が、少し意外だった。
 糸の目はきょとんと丸くなっていることだろう。泣き真似はどこへやら。

「……あの、元奥様は部下とかではなかったのですか……?」

「ああン?」

「す、すみません!」

 糸は慌てて正面を向いて、ジョッキをあおった。

 何も考えずに、いきなりプラベートな部分に踏み込んでしまった。糸も聞く準備ができていたわけではなかったのに。

 人の噂はあてにならない。
 会社員をやるうえで、その信条はかなり重要だ。
 特に、私生活をよく知りもしない会社が同じだけの人間が言う同僚のプライべートの事など、尾ひれも背びれだけでなく、手も足もついている。

 それでも、堂道が転職した理由のなかに、離婚で前の会社に居づらくなったという噂があったことがふと思い出されて、つい糸は聞いてしまった。
 元嫁は部下の女性で、会社が女性側を守ったから、とも。

 糸の顔にそう書いてあったのか、しかし、堂道はまるで人ごとのように、
「前の会社を辞めた理由、不倫だとか部下の女略奪したとか言われてんだろ、俺」と目の前のビールを冷めた目で見ながら言った。

 いえ、もっぱらパワハラだと言われています、とは言えずに、首を傾げるだけにして、返事をごまかす。

「ま、どう思われててもいいんだよ、別に」

 妙に落ち着いた声でそうって、堂道は糸に視線を寄こした。
 ぎろりと睨まれると思ったら、これまた意外に他意のない、澄んだ海のような静かな視線。

「元ヨメは部下じゃなくて同僚」

「じゃあ、ホントに職場結婚だったんですか?」

「ああ? カマかけたのかよ」

「いえ、そういうわけでは……」

「とにかく、女の事で社内でごたごたすんのだけはカンベンだから、こういう席も避けたいわけ」

「じゃあ、たまにでいいから飲みにつれて行ってください」

「……オイ、話聞いてる?」

 堂道は顔をひきつらせた。

「悩みとか聞いてください。仕事のこととか、恋愛相談とか」

「だからー、俺じゃなくて、直属の上司に聞いてもらえよ。俺、優しく助言とかできねーし。恋愛相談ならなおさら専門外」

「諦めません。私、堂道課長と仲良くなりたいんです」

「……何が目的だよ。なんの陰謀? 人事の手先か? 美人局か?」

「美人局だったらカモられてくれます?」

 糸は酔ったふりして、腕と腕を密着させてやった。
 勢いに乗せてくれる酒の威力はすごい。
 どちらかというとマイナスよりの露出で、谷間など全く見えない服だが。

 触れた堂道の腕を、糸は「ああ、腕だ」と思う。
 物理的に当たり前のことで、肌と肉と骨と体温がそこにある。

「いや、マジ問題あるから。これ、逆セクハラ案件」

 堂道は全く表情を変えず、糸の腕を自分の腕で愛想もなく押し返した。


14.堂道課長の終電は二十二時


「それ、うまいの?」

 堂道の視線が糸の手元のジョッキに注がれている。

「これですか?」

 怪訝な顔で、「てかさ、それなんなの? その、どろどろしてるやつ」

「キウイのチューハイです」

 そう言って、糸はサワーのなかに沈む黄緑色のもろもろをマドラーで混ぜかえした。
 糸はキウイのチューハイが好きで、メニューにあると必ず注文する。

「ふーーーーん」

 堂道は長い納得をしてから、やがて、
「この前もそればっか飲んでなかった?」
 と言った。

「……気づいてたんですか」

「別に」

「私を、見てくれてたんですか?」

「違うって」

 糸は胸が痛くなった。

 この前、気まずい鉢合わせをした居酒屋で、確かに糸はずっとキウイチューハイを飲んでいた。五杯は飲んだかもしれない。同僚との会話にも集中できず、堂道の隣を楽しめる立場にもなく、ずっとマドラーでキウイを押しつぶしていた。まるで親の仇のように。

「生のキウイが入ってるんですよ。つぶつぶの。でもここのより、あのお店の方がおいしいです。『ごろごろキウイ』っていう名前がついてるくらい、あそこの名物なんですよ」

「女ってそういうの好きな」

「今度、あのお店の飲みに行きましょう! どろどろトマトもおいしいんです!」

「いらね」

「行きましょうよー」

「行かねえって。じゃ、俺、先に失礼するわ」

「はい?」

「そろそろ終電」

 あっさりと席を立つ堂道に糸は呆気にとられた。
 脱いでいた上着を片手に引っ掛けている。

「えっ、え!? もう? まだ十時ですよ! ちょ、待ってください。私、今、出汁巻き注文したとこ……」

 言ってる最中にも、糸は口をぐもぐさせている。

 お開き宣言はあまりに唐突で、糸はなんなら食事の真っ最中と言ってもいい。

「一人で食ってけば」

「ええー!? そんな、嫌ですよ……待ってくださ……」

「足りない分は自分で払え」

 堂道は財布から一万円を出して、カウンターに置いた。
 そして、ろくに別れを告げることもなく、威勢のいい店員の声に送られて、堂道は本当に帰って行った。
 
「し、信じられない」

 本当に信じられない。

「そりゃ強引に誘ったのは私だけどさー……」

 糸はごちゃごちゃした食器を寄せてそこに突っ伏すと、額をカウンターにぶつけた。
 完全に追いかけるタイミングを逃したが、もう追いかける気はない。
 たとえ追いかけたところで、堂道はさっさと自分の家の方向の電車に乗るだけだろう。
 送ってくれたりすることは、万が一にもなさそうだ。
 それに、緊張がぷつりと切れてしまった。

 顔をあげて、隣の空になった席を見る。
 酔いが回ってきたのか、糸は急に、ごくごくと理性的ではない飲み方でチューハイのジョッキを空にしていく。

 よく頑張ったと思う。
 時計を見ると、二十二時をすぎたところだ。
 
「早すぎだし。酔っぱらったふりする暇もなかった」

 スマホに触れて、アプリを立ち上げる。

『酔っぱらっちゃって帰れませんー』と送り、画面に向かって、「おーい、堂道。酔いつぶれたらどうしてくれるのー?」と誰にも届かない文句を呟く。

 間近でじっくりと見た堂道の手。
 堂道の頬。
 堂道のこめかみ。
 財布、時計、シャツ、ネクタイ。初めてじっくりと知る 堂道の持ち物。
 堂道が置いていった紙幣。

 ちゃんと、血の通った人間だった。
 ハートのある人間だった。

「……煙草、きっと我慢してたんだろうな」

 ときおり、持て余して泳いでいた手。
 そのまま、流れで、糸の手を握ってくれたら『始まった』のに。

 翌朝、また朝の待ち伏せは再開された。
 待ち伏せではない。体裁としては『電車の時間が同じなだけ』。

「おはようございます。課長、これ昨日のお釣りです。領収書はいらなかったですよね? 一応、レシート封筒の中に入ってますから」

 駆け寄りながら、話し始める。
 拒絶する隙を与えない。
 速足で前に回り込んで、思いっきりかわいいピンクのポチ袋を押し付けると、堂道は眉根を寄せた。

「ちゃんと帰れてるじゃねえか」

 そして、歩く速度をさらに早めたので、遅れをとった糸も駆け足になった。

「帰りましたよ! どうにか! だってどこかの課長が置いてくから!」

 昨夜送った『酔って帰れません』メッセージには、既読がついただけだった。しかし、それは想定内だ。ショックでもなんでもない。

「せめて、ラインの返事くらい下さい! 次は酔いますから! 酔って記憶なくしますからね!」

「そんな奴、放って帰るし」

 憎まれ口に、糸は怒った顔をしながらも、口許が緩むのを抑えられなかった。


15.堂道課長は座りたい

「いやいやいや、糸ちゃんマジ女神じゃん。救世主! メシア!」

 グラスビールを傾けながら草太はさも楽しそうに言った。
 重低音が響く店内は、いつもよりも大きな声でないと聞こえない。

「そっかそっかー! ゲシさんにもとうとう春が……!」

 涙を拭く真似をする。

 終業間際、草太が糸たちの会社近くのスタンディングバーで待っていると小夜が言ってきたので、糸もついてきたのだ。
 夜勤明けだという草太は、ラフな格好で合コンの時より若く見えた。
 座っているとわからないが、草太もそこそこの長身だ。
 しかし、堂道の方が高いような気がした。草太ががっしりした体つきなのにたいして、痩せ型の体躯のせいかもしれない。

「それが全く相手にされてないんだけどね。むしろ嫌がられてるくらいで」

「いやいや、嬉しくないわけないでしょ。嫌がってる風に見せてるだけだって」

「堂道課長をよく知る草太君のその言葉を信じたいよ……」

 糸は拗ねたように、フローズンカクテルに刺さったストローを口をすぼめてちうと吸った。
 シャーベットの甘さよりも強いアルコールが口に残る。

「しかし、ゲシさん会社でそこまでひどいのかぁ」

 小さな丸のハイテーブルを三人で囲み、堂道の悪行は一通り、女性二人によってばらされた。
 堂道伝説なら売るほどあるのだ。

「うん、モラハラ、パワハラ全開。ある意味尊敬するよ」

 肩をすくめる小夜に、草太は代わりに謝るような仕草を見せ、
「ま、普段も大して変わんないけどさ。もうちょっとましかなぁ。しょうがないんだよ。根っからの体育会系育ちだから」

「え、ヤンキーじゃないの?」

「ヤンキーキャラではあるけど、ヤンキーじゃないよ。ゲシさん、中高大とバスケ部でバスケ一色だったって。ゲシさんの高校、強豪校だし」

「へえー、すごいじゃんー」

「意外……」
 
 小夜も糸も驚いて顔を見合わせた。
 スポーツと汗、と堂道の組み合わせは全く想像できない。

「ねえ、草太君。正直さー、堂道課長って地雷物件じゃないわけー?」

「地雷物件?」

 モダンで赤黒い店内に、グラスの中は本来のリキュールの色を消されている。
 小夜の飲むカクテルは何色かもわからない色をしていた。

「そう。糸がさ、本気で押していいかどうか。地雷かもしれないでしょ。ま、そもそも見た目の時点で人畜無害じゃないけど」

「そんなことないよ」

「ハイハイ、糸は正常な判断できなくなってるからね、もう」

 あばたもえくぼを地で行く糸の言葉に説得力はない。

「バツの理由がDVとか浮気とかだったら困るでしょ」

「ゲシさんの離婚原因ってこと?」

「まあ、一番はそこだよねー」

「離婚原因かぁ……」

 考える仕草をした草太を手で制止した。

「糸ちゃん?」

「うーん。やっぱり詳しくは堂道課長から聞きたい気もするから。でもそれなりに知りたいから、要点だけよろしく」

「なんだよ、それ難しいなぁ。どこまで言えばいいの? とりあえず、離婚は俺が知る限りだけど、DV、浮気、ギャンブル、借金ではないと思う」

「じゃあなに、性格の不一致とか? すれ違い?」

「そこは当事者夫婦にしかわからないことだから俺からはノーコメントで。まあ、実際よく知らないし、女の人みたいにいろいろ詳しく話さないしね」

「実家とか姑とかはー?」

 小夜は可愛く頬杖をついて草太に尋ねた。

「うーん、それも、よそのお家のことだからなー。俺から多くは言えないけど、ゲシさんと実家とは絶縁まではいかない疎遠さって感じかな。ほら、ゲシさんって荒くれ者ポジションじゃん?」

「ポジションっていうか、荒くれ者そのものだけどねー」

「弟のトージさんは全然タイプ違うんだよ。ご実家はトージさんが継いでるみたいな感じになってる」

 堂道の家族親族と言われても全くピンとこないし、イメージもできない。
 そもそも、つい最近まで、堂道が人の暮らしをしていることすら信じられないほどの存在だったのだ。
 人の子だとも思えなかったのだから仕方がない。

「あ。そうだ、堂道課長の家って遠いの?」

 糸はずっと気になっていたことを聞いた。

「横浜だよ」

「近いじゃん!」

 聞けば、堂道の実家はもう少し西で、草太の出身もそこなのだそうだ。

「分譲ー?」

「詳しくは知らないけど……」

「けど?」

「……糸ちゃんには知りたくない内容かもだけど。それでも聞く?」

「聞く!」

「言っちゃえ、言っちゃえ!」

 言いためらった草太をたきつける。
 女子同士の容赦ないノリにまだついていけないらしい。

「……買ったやつだと思う。結婚してたときに……」

「……まあ、ありえる話だよね」

「そこは家付き! って喜ぶとこなのかなー? 微妙だねー」

 急に、堂道のバツイチ歴が現実味を持った。
 堂道が過去にだれかと結婚し、生活をしていたこと。

 顔に出るほどショックではなかったが、気分は確実に重くなった。
 それに気づいてか、小夜が思いついたとばかりに手を叩く。

「ねえねえ! 堂道課長呼ぼうよ。帰るとき、会社にいたよね?」

「ゲシさん、来ないと思うけどなぁ」

「うん、絶対来ない」

 このメンツで、どうプラスに考えても堂道が来る展開は想像できなかった。
 堂道をよく知る草太もやはり同様らしい。

「だったら、私と糸がいること伏せて、草太君が呼び出せば? 会社の近くにいるんです―とか言って」

「それって、ゲシさんマジで来たとき、俺、殺されるやつじゃん?」

「怖いー」

 小夜はふざけて怖がってみせているが、実際怖い。
 しかし、せっかく会社の近くにいて、草太という餌もある。これはチャンスだ。

「草太君、お願い!」

「糸ちゃん、責任取ってくれるのかよー」

「取る取る」

「まじかー。ゲシさん、ああ見えて無駄に義理堅いし面倒見いいんだよ。だから……」

 二対一で負けた草太は、ぶつぶつと呟きながら堂道に電話をかけた。
 かくして、三十分後、堂道は現れた。

 万事休すなどという漫画みたいなセリフが頭に浮かぶ瞬間は糸の人生で初めてだ。

 店内の騒がしさにか、すでにしかめ面だった堂道が、草太と同じテーブルに糸と小夜を見つけたとき、「ハァ?」と言ったのは読唇術の心得がなくとも理解できた。

「ゲシさん、おつでーす……」

「お疲れ様です」

「お疲れ様ですぅ……」

 糸は、堂道が来るとわかってから、ピッチを上げてカクテルを三杯の飲んだ。酒のおかげで感覚が鈍感になっているし、それなりに耐性もある。
 しかし、小夜には嫌悪と恐怖の対象でしかない。糸の陰に隠れるように小さくなっている。
 ノリで呼ぼうと言ってみたものの、確かに、軽々しく一緒に飲むような間柄ではけしてない。

「なにやってんだ、お前ら……」

「俺、小夜ちゃんと飲もうと思ってさー。会社の近くでってなったから、ゲシさん暇かなーって」

 暇じゃねーよと顎でしゃくられ、草太は小夜の方によってスペースを作った。

「で? たまゆらサンは何を?」

 不機嫌極まりない目で見下ろされて、糸はたじろいだ。

「私は付き添いと言うかー……」

「草太、お前余計な事言ってねえだろうな」

「言ってない言ってない」

 睨みつけるような視線が草太から糸に移動する。

「聞いてないです、聞いてない」

 糸はぶんぶんと首を横に振った。
 堂道は舌打ちをしてから、荷物入れにカバンを投げ入れた。
 息をのんだ小夜の小さな悲鳴が伝わってくる。

「草太、お前のおごりな」

 メニューを持って近づいてきた若い店員に、「ハイネケン」と言いながら、堂道がネクタイの結び目を緩める。

「一本飲んだら帰る」

「ええー!? 俺たち、次行くつもりなんだけど。なー? 小夜ちゃん」
 
「あ、はい! これ飲んだら! 私たち行きますので! 玉響さんをお願いします! ねっ?」

 小夜はそう言うや、ロングカクテルを一気に飲み干した。

 想像以上に剣呑な雰囲気だった。どう転んでも四人で楽しく『ダブルデート』風とはいきそうにない。

 事前の打ち合わせでは、楽観視していた。それなりに和気あいあいと四人飲みができるはずだった。
 イライラが目に見えるように、人差し指でテーブルを小刻みに叩きながらビールをあおっている。
 少しは糸に気を許してもらえるようになったと思っていたのにそうではなかったようだ。

「ゲシさん、怖いよー? いつもこの人こんななの?」

「はは、まあ……そうですねー……」

 糸は下手な笑いでしのぐ。

「ゲシさん、もうちょっと優しくー。ごめんねー」

「うっせぇ。お前が呼んだんだろうが」

「はいはい。すみません。せっかく久しぶりに会えたのにさー。小夜ちゃん、もう行こうか」

「あっ、うん。課長、お先に失礼します」

 手に負えないと判断したのか、おびえる小夜を不憫に思ったのか、このままでは堂道が帰ってしまいかねないと機転を利かせたのか、草太は早々に切り上げることにしたらしい。

「悪さすんじゃねーぞ」

「しませんしません。ゲシさん、糸ちゃんまたね」

 さすがに遠慮したのか、堂道は二人と一緒に「俺も帰る」とは言わなかった。
 結果として、一応は計画通り二人きりになることに成功だ。

 二人を見送って、
「なんなの、あいつらマジでつきあってんの?」

「いえ、まだそうではないと思います」

「ふーん。どこで誰と誰がいい感じになるとか、わかんねーもんだな」

「そうですね。……あの、課長」

「なんだよ?」

「おごりますから……、もう一杯だけ付き合ってもらえませんか」

「別にあんたにおごってもらいたくはない」

 テーブルにのせた肘に体重の半分以上をかけながら、
「それより座りたいわ。スタンディングとか老体に厳しすぎ」

「定年近いおじさんたちでも、立ち飲み屋で飲んでるじゃないですか」

「うるせえ」

「じゃあ、お店変えますか?」

 糸が身を乗り出すと、「いや、ここで立ち飲みがんばらせてもらいますわ」と即答された。

「しかし、うるせーな」

「音がねー。課長はここ初めてですか?」

「いや、何回か来たことある」

 たわいもない話をしながらもう一杯ずつ飲んで、二人で店を出た。
 糸は、今日も先に帰られるんだろうなと思っていたのだがそうではなかった。

 店を出ると、スピードの出た車が何車線もある道路を走る音が耳に爽やかに届く。
 騒がしい店内で声が聞こえるように、さっきまで顔を寄せ合っていたが、夜空の下の都会は人も少なく、そんな開放感が今は残念だった。

 堂道は、後ろに続いていた糸を振り返って、「駅だよなー?」と言った。

「え、送ってくれるんですか?」

「駅じゃねーの? 方向一緒だろ」

「はい」

 堂道と並んで歩いた。
 朝のように、息切れしない速さであることに気づく。

「課長、終電大丈夫ですか」

 すでに二十二時は回っている。

「まだいける」

「もう一軒行きます?」

「終電もうやばい」

 堂道の適当なかわし方は腹立たしかったが、糸も負けじと頑張った。

「じゃあ、電車ないんなら、うち来ます?」

「行くか、ボケ」

「酔って帰れないかもー」

「ああ、驚くほど自力でしっかり歩けてる」

 駅の中は、煌々と明るかった。しらじらしい色の照明は現実感があって、いやおうなしに夢の終わりを告げてくる。

「……私こっちの線なんで」

「あ、そ」

「失礼します。今日は急にお呼びたてしてすみませんでした」

「んじゃ、おつかれー」

 堂道はホームに向かう足を止めて、肩越しに振り返った。

「たまゆらサンさー」

 そう言ったのを最後に、堂道はポケットに手を突っ込んだまま、空に向かって息を吐いた。
 そしてまた、糸に視線を戻す。
 冷めた目だ。じっと見つめられる。

「俺のこと、好きなわけ?」

 糸は、瞬間的に体が熱くなるのを感じながら、
「……はい」
 
 声は震えていたがしっかり頷いた。

「……理解に苦しむ」

 堂道はまるで嬉しくなさそうな顔で前を向き、
「んじゃ、また明日」

 首を左右に鳴らして歩いていく。
 疲れた背中が、いつまでも糸の脳裏から離れなかった。


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