全身麻酔で異世界にぶっ飛んだ話

流産の手術をしてきた。
思うことは色々あるけれど、とにかく全身麻酔の体験が個人的には衝撃的だったので残しておく。

前処置を終わり、手術室に入った私は、足をぱっかーんと開いて両腕を固定されていた。
一度この病院で子供を産んだことがあるから、身体のことなんて全部バレてるし、と羞恥心はゼロだった。

そう言えば麻酔でどれくらい眠るのだろう。
今が11時40分で、15時ごろ帰るって聞いてたから、2時間くらい寝てるのだろうか。

間抜けなポーズのまま看護師さんに聞いた。
「麻酔で寝てるのって2時間くらいですか?」

「いや、処置が10分くらいで終わって、終わって声かけたら大体皆さんいったん起きますよ」

え!麻酔で寝てるのってたったの15分くらいなの?
そんなもんなのか〜寝て起きたら終わってて、痛みを感じないなんて有難い…などと考えていた。

看護師さんが優しく、「私が数を数えるので、いーち、と言ったら古川さんも、いーち、と返して下さい」と言った。

私はちょっとワクワクしていた。果たして何秒まで数えられるのだろう。

「目を閉じて数えて下さいね」

目を閉じると、瞼の裏は薄いピンクとオレンジ色だった。

いーち

にー

さーん

しー

ごー

ろーく

(あれ、まだ意識はっきりしてるけど大丈夫?)

しーち

(あ、頭痛い…!)

はーち

(って言ってるつもりだけど言えてる…?)

ヒュン!

私の意識は自分の体から飛び出して、目の前のピンクとオレンジの世界に飛び込んで行った。

長くて明るいグネグネのトンネルだった。明るい音楽も流れているる。壁はピンクとオレンジと白のツヤツヤのビニールボールでできていて、先は見えない。柔らかい色味だった世界はチカチカするようなビビットな世界に変わっていた。

私は体なんてなくて、粒のような、魂のようなちっぽけな存在だった。トンネルの中をすごい速さで泳いでいく。空を飛ぶ感覚に近い。労力は要らなかった。泳ぎ方を知っていたし、早すぎる空間の流れの中でどこに向かうかは分かっていたから、変わりゆく景色を見ながらただ前を向いて泳いでいた。

ずっとずっと泳いだ。大変でもなく、楽しくもなくて、ただずっと昔からそうしてきたから当たり前のように泳いだ。

景色は変わる。どんどん変わる。ボールの隙間を進み続けたと思えば、縦長のビビットの柱の隙間を通り過ぎて、次の景色に向かって泳ぎ続けた。視界には他の粒も見えた。30近く見えたのは多分仲間だと思うけれど、会話はない。存在を感じながら、同じスピードでただ進む。今までもこれからもこうやって生きて行くのだ。

柱を潜って進んでいたらギュッと世界が捩れた。私が見ていた手術室の天井と異世界が交わっている。天井の景色がビビットな世界と合わさってぐるぐる回っている。目が回って動けない。まずい、どこに向かうか分からない、いや、目が覚めたのか、まって、ここはまだ処置室だからまだ手術は始まってない、夢を見てるのか、でも、確かに始まって、いや、でもこの世界はいったい…

終わりましたよ

と遠くから声がする。

え、うそ、早い!本当に!?すごい!
と思ったことが全て口に出ている気がするけれど、自分の声か、心の声か分からない。

本当ですよ、隣のベッドに移動できますか?

え!視界がグニャグニャなのに!?
分かりました!でもゆっくりがいいですよね。私ゆっくりやりますね。

せーの!
ぐるん!

わぁ!!!体も回転して視界も回転して訳がわからない。私はグルグル、またあの世界を飛んでいるのか、天井の換気扇がただ変形して回転して見えるのかわからない。

ストレッチャーを移動させますね

天井がとんでもないスピードで動く。
怖い!動いている!景色が捻れている!
終わった!?早すぎる!本当に?

部屋に戻った。色んな準備をしてくれる間、私は自分が喋り続けていることを感じながら、景色も感情もパニックに陥っていった。違う世界を見ていたことを認識して怖くなった。私は大丈夫??

こわい!こわい!と私の声がする。思ったことが全部口に出ている。
大丈夫、大丈夫、私は大丈夫!こわい!こわい!

ママ

と呼んでいた。

ママ、ママ

一度呼び出したら止まらなかった。

ママ、ママ、ママ、ママ
ママ、ママ、ママ、ママ、ママ、ママ、会いたい

他に何も考えられなかった。
ママ以外の言葉を全て失ったみたいだった。

ママ、ママ、ママ、こわい、ママ、ママ、ママ、会いたい、ママ、ママ

涙が止まらなかった。
看護師さんはいつの間にかいなくて、1人にしないでと思ったけれど、これで好きなだけ喋れるとも思った。

気持ちが落ち着いてきたら他の人の顔も浮かんできた。天井はまだグルグルしている。換気扇と電球がずっと手前に動き続けていた。

旦那の名前を呼んだ。子供の名前を呼んだ。
会いたい、こわい、かなしい、かなしい。

涙は止まらなかった。
私の中には寂しいと悲しいがたくさんあっで全部出てきた。

少し経つと口が勝手に開かなくなった。
視界の換気扇が大回転から小移動になっていき、今体験したことのどこから夢だったのか、本当に始まって終わったのか考えられるようになった。

まだ混乱していたけれど、ちょっとずつ思い出した。麻酔、すごい…

看護師さんが様子を見にきた。
「大丈夫ですか?」
「はい、マシになってきました。ありがとうございます」
言えてたのか分からない。
「目を閉じて、寝てください」

寝れないよ、こんなに体験をしたのに、あたまが、視界が忙しいのに。
手足が震える。動かせるけれど、貧血みたいな感覚のなさが気持ち悪い。

麻酔ってこんなに簡単に打っていいものじゃなかったんだ。

目を閉じた。寝たら楽になる。またあの世界に行くのかな、分からない。疲れた、

気づいたら少し寝ていて、起きたらようやく景色が止まっていた。
考え事をして、寝て起きたら、体が動くようになって、を繰り返した。

戻ってきた。と安堵した。
ちゃんと覚えてる。どこまで現実だったかも、たぶん、分かってる。持ち物も、家族も、身体も、ちゃんと見覚えがある。はず。

頭も身体も落ち着いた頃、最後に診察をしてもらい、退院することになった。
子宮の戻りもいいので、大丈夫ですよとのこと。

どうやら問題なく終わったらしい。
旦那に連絡して迎えにきてもらった。
家に帰って、ソファに座って、私はちゃんと帰って来れたんだなと思った。

でも、本当だろうか。
私の魂はちゃんと元の私の身体に戻れたのだろうか。

持ち物も、家族も、身体も、同じ顔をして、実はこっそり入れ替わっているんじゃないか。
ちゃんと同じ世界線に戻れているのだろうか。

…なーんて、退院して数日経っても考えている。

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