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誕生日

今月私は、人生半世紀に一歩近づいた。そして、後本当に一歩進むだけで半世紀である。

10年ほど前に遡る。40歳の誕生日を迎えたころ、自分の誕生日がこれほど嫌だった記憶は未だかつてないほど嫌であった。誕生日自体が嫌だったというよりむしろ、40歳の自分に失望していたというのが正解だろう。

40歳までにはこうありたい、という強く思い描いていた未来はあったようななかったような。ただ漠然と、再婚して、子どももいて、仕事も自分が納得するような充実感があって、とそんなことを心に持っていた気がする。

書いていて思い出したが、この頃、仕事でもう少し認められたいと思いだしていた時期でもあった。その前までは、自分が好きにやれていて、お給料も好きにできる分は貰えていて、もうちょっと欲しいかなくらいな程度で、組織における上昇志向は本当にゼロであった。それが部署移動により、周りは上昇志向ばかり、高学歴。私の職種とは畑違いの部署で、今までやってきたことを評価はしてくれていたものの、別のスキルを要求されていたように思う。

適応能力がさほど高いわけではないが、その環境に長くいると、場のエネルギーに徐々に侵されていったようで、私も上に上がらないと恥ずかしいとまで思いだしてきたのである。

そんな頃の40歳の誕生日。誕生日を迎えて、自分自身に愕然とした。私が思う40歳は、もう少し仕事で成果を出していて、プライベートももう少し充実しているはずだった。その理想と現実の落差に、新しく迎えた40歳という記念すべき節目の年齢を受け入れることができなかった。

今思い返しても苦しい時期に、40歳を迎えたものだと思う。

しかし10年を過ぎてみると、いい意味での「諦め」という、素晴らしい能力が芽生えてきている気がしている。

私が思う半世紀の人生は、理想自体が逆にない。あまりにも人の人生は、ここまでくると枝分かれし過ぎているのである。ロールモデルは、憧れている人たちのピースを集めているだけで、そのピースを組み立てるのは私だ。

「だって半世紀だし」が最近の私の心の口癖である。40代に悩まされていたことが、一つずつうっすらと気にならなくなっていくのが実感できる。それと同時に、人生の先輩たちが言っていたことが理解できるようにもなってきたことも、なんだか嬉しくも思う。やっと共感できるものを私も得たのだと。彼らと同じ土俵に立つことができると。でも、彼らはまた私の10年以上先を行く。

迎える次の50代は、自分の好きなことを死ぬまでやっていける土台作りをしたい、とか、あの人はこんなことしてたな、などと思いながら、迎えた今年の半世紀一歩手前の誕生日は、静かに平穏にただ過ぎていった。


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