なぜ私は、誰かが自分らしく生きるために背中を押したいのか
最近、SHEのキャリアプランナーを始めた。
簡単に言うと、お客様のキャリアに寄り添って一緒により良い未来を見つける仕事だ。
これが、ものすごく楽しい。
毎回カウンセリングが終わったあとの幸福感と言ったら半端ない。
なんでなんだろう。
なんでこんなに幸せな気持ちになれるんだろう。
「レールに乗った人生じゃなくていい」「誰だって好きなことをして生きていける」「自分の道は自分で選べる」
そんなことをnoteに書いて発信していた頃を自然と思い出した。
そうだ、私は人の背中を押すことがもともとしたかったんだもんな、と思い出した。
「自分が挑戦し続ける姿が、だれかの勇気になってほしい」っていうのがいつも根底にあったんだもんな。
表に出る仕事を辞め、起業家のステージを降り、いわゆる「普通の人」にどんどん近づくにつれ、そんな発信もやめて「普通」を演じるようになってしまっていた。
そんななか、誰かをエンパワーメントする気持ちを思い出したから、今まで蓋を閉めていた感情がぶわっとあふれてきたんだろう。
そもそも人のために生きれるような人間ではない
じゃあ、なんで私は人の背中を押せる存在でいたいんだろう?
「人助けがしたい」なんて思えるほど優しい人間ではない。
「私が世界を変えてやる」という責任感もない。
基本的に自己中心的で、余裕のない人間だ。
冷たい言い方をすれば、自分が幸せに生きられるならそれでいい。
昔は、「誰かのため」に発信していると思っていた。
たしかに、結果的に誰かのためになってはいるかもしれない。
けれど考えてみれば、それはもとはといえば自分のためだった。自分が幸せに生きるためだったのだ。
自分らしく生きれば、壁をつくられる
何かと、人と違うことをしてきた。目立ってもきた。
何かと投げかけられる、「すごいね」という言葉は嫌いだった。
その言葉はたいていの場合、一瞬で相手と私との間に壁をつくる。
「あなたはすごい人ですね。私とは違う世界の人なんですね。」そんな意味を含んでいた、少なくとも私にとっては。
それまでは馬鹿みたいに毎日ゲームをしたりだべったりしていた人たちとも疎遠になった。急に話が合わなくなった。
やりたいことをやって、わがままに生きただけだ。
やりたくないことはどうしてもできなかっただけだ。
それは特段、"誰かと比べてすごい"ことではない。私の人生の尺度がそうだっただけ。あなたにはあなたの尺度がある。
今思うと、壁をつくっていたのは相手だけではなく、紛れもなく私にも責任がある。
「一線を引かれたな」という自分自身の思い込みこそが壁をつくっていたとも思うし、シンプルに調子に乗っていた部分があることも認める。
それでも、心を開ける人が周りにいないことは、精一杯の強がりをしてもなお私の心を痛ませていた。
壁を壊し、つくらせないためのあがき
近しい人ほど、私の急激な変化のせいで離れていった。それは正直もう諦めていた。
だから、ネットの世界で生きることに逃げた、とも言える。
「人と違う人生でもいい」「誰でも自分らしく生きれる」とネットで発信をするのは、自分が人と違う人生を自分らしく生きていることを受け入れてもらいたかったから。
"東大生らしくない"、”ミスコンっぽくない"発言をするのは、「プライド高そうで近づきがたい」「世界が違う」と思われたくないから。
だからこそ、「いとまりちゃんが人生を切り拓く姿を見て、自分も頑張ろうと思えた」という反応が本当に嬉しかったんだ。
本当だったらつくられていたはずの壁を無くせたから。
だから、「人の背中を押せる存在になる」ことは、人助けでも世界改革でもなんでもなくて、
もとはといえば、私自身が誰かとのつながりを作って幸せになるための、必死のあがきだったんだ。
私が生きやすい世界をつくることが、誰かの生きやすい世界につながればいい
ごちゃごちゃ書いたけど、シンプルに私は人とつながれることが、本当に嬉しいのだ。人が寄ってこなかったからこそ。
「みんなと同じ」ができない私が、みんなと近づくための手段が、発信だった。
だから、誰かの背中を押すことは、その人のためにやっていることのようで、自分のため。
私が私らしく生きることを、私自身が肯定してあげるため。
私のためにやっていることが、結果的にその人の人生を良くするきっかけになっていたら、それはもうただただ嬉しい。
まわりまわって、人の幸せが自分の幸せだし、自分の幸せが人の幸せ。
それってとっても素敵なことじゃないか。
だから今日も、誰かの背中を押す仕事が楽しくて仕方がない。
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