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何者でもなくなった自分で旅をする

「どこ出身?」「日本だよ」「いいね!日本はとても行ってみたい国なんだ」
海外に来て、こんな会話を何度となく繰り返してきた。
この目の前の人にとって、私は何者でもないただの人間である。私が今まで何をしてきたか、どんな学校に行っていたか、そんなことはまったく問題にならない。

街に出かけると、飛び交う言葉はすべてただのBGMでしかない。聞き取れない言語は、私にとって意味をなさない。ただ何も考えず、ぼーっと素敵な景色を楽しめる。そんな私もまた、この景色にただの人間として溶け込んでるなと思う。

出る杭は打たれる

大学に入ってからの数年、つねに「出る杭は打たれる」を感じてきた。
私が「ミスコンだから」「若い女だから」「女性起業家だから」といろんな人にいろんなことを言われたと思う。否定や嘲笑、皮肉。
もちろん、大抵は直接じゃなくSNSや間接で耳に入ってくるからたちが悪い。

私は神経が太いから、そんなに気にならないつもりでいた。そんな人たちより、私を「伊藤真莉」として見てくれる、評価してくれる人たちに時間と精神を割くべきだと分かっていた。

けど、「出る杭は打たれるなら、打たれないくらい出てやればいい」と意気込んでいたから、無意識でストレスを受けていたと思う。頑張りすぎるのが悪い癖だから。

「これをしたらなんと言われるだろうか」「こう発言したらどう見られるだろうか」
嫌でもそんな考えが浮かんできて、知らない間に心をかき乱していた。

日本という国や競争社会、古い価値観の中では、「違い」が目立ちすぎる。ちょっと人と違うことをしたり、言ったり、ただそれだけなのに。それだけで「出る杭」になって目をつけられてしまう。

私は何者であるか?何をするか?幸せなのか?

あの頃の私は、私が「何者であるか」でとやかく言われるのが嫌で、それよりも「何をするか」を一番大事にしていた。目の前のことを全力で成し遂げようとし、それが自分にとって正しいあり方だった。とにかく何かを成し遂げて、何も言われないくらい出てやろうと思っていた。

1年前、数千フォロワーのTwitterアカウントを閉じ、ゼロから作り直した。そしたら今まで目に入ってきたネガティブな情報は一気にポジティブに変わった。違いは賞賛され、挑戦は応援され、未来の話が飛び交う世界。

それでも、SNSで周りに集まるのは多少なりとも似ている人たちだ。似ていると、嫌でも違いが気になる。人と比べてもっと上に出ようと頑張りすぎて焦ったり、勝手に落ち込んだりすることもある。

「出る杭」として周りから見られなかろうと、自分で自分を「出る杭」と決めつけてしまう瞬間はあるのだと思う。そういう思考が染みついてしまっているのだ。

だから結局、「何をするか」ということへのこだわりは消えなかった。好きなことをしている幸せと、周りを見渡して一喜一憂する不幸せ。

私は幸せなのか?

今は、周りから見ても自分の中でも、私は「出る杭」なんかではない。ただの1人の人間でしかない。私が「何をするか」は大した問題ではない。

そうすると次は、私が今「何を感じているのか」に意識が向くようになる。幸せなのか。楽しいのか。不安なのか。不満なのか。それはなんでなのか。

今までも自分と向き合ってきたつもりだけど、もっと本当の意味に自分の心に向き合えている気がする。だからこそ、ただぼーっと景色を眺めているだけで感じられる幸福もまた、今までより大きい気がする。

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