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大老・井伊直弼を訪ねて⑧ 村山たか⑶(滋賀県彦根市) 2022年9月8日

前回から引き続き、また『村山たか』を追ってみよう。

彼女はなぜ、井伊直弼と深い関係にありながら「側室」になれなかったのか。

彼女は「井伊直亮の腰元」つまり兄の妻(側室)だった。

「14代直亮の側室を、15代藩主の元に置くことはできない」のは当然のこと。

他の大名家でなら許された例もあるかもしれない。だが、父・直中の胸中を知ると、井伊直弼が村山たかとの関係を明かせるはずなどなかろう。

井伊直弼、自分より6歳年上の麗人『村山たか』

幼くして母を亡くした彼にとって、年上女性はどんなに恋しく映ったことか。その上、彼女は美貌と教養で名高く、茶道・和歌・雅楽の鍛錬に励んだ井伊直弼の同志ともいえる人物である。

愛読書『歴史と旅』歴史家の辻ミチ子氏の記述を抜粋する。
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直弼は(長野)主馬を呼び寄せ、可寿江(たか)について愚痴りはじめた。

「かの女は、予から離れないと強く言い張るので、非常に困っている。

まるで蜘蛛のように、心の糸を出して予を縛る感じがする。

それが猛虎を絞め殺す大蛇の威力を秘めているように思われる。

何とかならないものか」
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この通り、「村山たか」は井伊直弼の厄介者として書かれているが、私にはどうも腑に落ちない。

井伊直弼とは、安政の大獄であれだけの決断を下した男。ましてや藩主の身分で切れぬ腰元(侍女)など居るものか。

人柄を表すエピソードをひとつ。井伊直弼の正室は「松平昌子」といい、丹波亀山藩主の娘である。

徳川将軍・家慶の養女との縁談も持ち込まれていたが、兄はこれを快く思わず、20歳も年の離れた昌子との結婚を強引に進めてしまった。

井伊直弼は当時はまだ世子、藩主の兄に逆えるはずもなく。それから6年の歳月を経て、藩主となり、ようやく婚礼が執り行われた。

その後も井伊直弼と側室との間には子が何人も授かっていたが、若い昌子との間に子は無い。

井伊直弼の人柄を思うと、おそらく、兄の決めた縁談を許せなかったのだろう。

切ると決めたら、容赦なく切る!そんな井伊直弼が切れなかった『村山たか』との縁。私は彼女を、そのようにみている。

井伊直弼と『村山たか』の不倫の逢瀬。年表で見てみよう。

1835年、井伊直亮、大老に就任。
1841年、大老を辞職。(徳川将軍・家斉死去の年)

1842年、直弼、『村山たか』に宛てた恋文を贈る

内容「たか、君に会えなくて寂しい」

兄藩主・直亮のお国御前(国元の側室)であった『村山たか』

主人は大名の江戸参勤から、大老職在務で6年ほど帰ってこない。

井伊直弼は茶歌鼓(チャカポン)と呼ばれるほど芸事に打ち込んだし、彼女も和歌の名手として知られている。

共通の趣味を持つ、藩主になりたかった男と、芸事を極めたかった女。

兄の側室であり、母を幼くして亡くした井伊直弼の燃え上がる恋。

そしてこの『埋木舎(うもれぎのや)』の中には『澍露軒(じゅろけん)』という茶室がある。

1842年、茶道に打ち込んだ井伊直弼 28歳。

兄・直亮の大老辞職から1年後。『村山たか』と会えなくなった年である。

私は、『埋木舎』を訪れた。

法華経の「甘露の法雨を澍て(そそぎて)、​煩悩の焔を滅除す」から名づけられた『澍露軒(じゅろけん)』

煩悩を打ち消さねばならぬ!と、茶道や武術に打ち込み続けたのだろう。

井伊直弼とは、なんと愛すべき男なのだろう。

幕末の赤鬼は、泣いた赤鬼だった。

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