見出し画像

【鹿児島県鹿児島市】薩摩を歩く④ 鹿児島ごはん ⑴ 鹿児島ラーメン、博多ラーメン、沖縄そば、五郎屋

自分への誕生日プレゼントに、11月半ばの週末は鹿児島へ行った。

普段の私はとんでもなく「安宿」に泊まるのだが、この日くらい奮発しようと女性向けのビジネスホテルを選んでみた。

「絹肌の湯」「11月の週末、バラ湯」

良いじゃないか!! こうみえて、私は花が大好きなのである。

今夜の宿泊地は「シルクイン鹿児島」という。鹿児島中央駅に到着し、ほとんど迷わずホテルに到着。

甲南通りという道沿い、バス停から徒歩3分もかからない場所にあった。

荷物を置き、フロントで『お勧めごはん』を訪ねる。

「天文館(てんもんかん)に行けば、色々ありますよ」

ここから15分くらいです、と観光案内の地図をもらう。どうやら鹿児島中央にある繁華街の名前らしい。

しかし私は呑む楽しみを知らないので、そのような場所には興味がない。

「それなら、、強い鹿児島弁で話す店主の居る店とか知りませんか?聞き取れないほどの」

私は、幕末と戦争史跡を訪ね歩いている。そのため『鹿児島弁の使い手』を尊敬する。

解読不能の鹿児島弁への憧れ。それは太平洋戦争下のエピソードにある。

ナチスドイツ海軍から日本海軍へ贈られた『潜水艦U-511』を知っているだろうか。

ドイツから日本へこの潜水艦を運ぶ『重要任務』

ドイツの要人と共に、ベルリン駐在の野村直邦中将が乗り合わせることとなった。わずか2日で退任した海軍大臣である。

『潜水艦U-511』の出発を日本へ伝えたい!…撃沈されてしまうかもしれないし、米軍の情報機関に解読される恐れもある。何とか知らせる方法はないだろうか?

そこで登場するのが『鹿児島弁』である。野村中将も鹿児島の男。大変ユニークな発想を用いたものだ。

伝達を、コッソリではなく電話でやり取りすることに。鹿児島出身の外交官・曾木隆輝&牧秀司が、鹿児島弁で連絡を取り合う。

「カジキサー カジキサー ヨシトッシノオヤジャ ハヨ タタセニャイカンガナー モタッタケナー」

【翻訳】加治木さん(曾木の出身地)、野村中将(野村・牧の出身地)は早く発たせなくてはなりません。もうお発ちになりましたか?

この『任務』を遂行するのに、久々に話す鹿児島弁を理解できるのか?外交官には不安もあった。

しかし見事、作戦は成功!無事、野村中将を乗せた潜水艦は日本に着艦する。

【参考】吉村昭『深海の使者』山崎豊子『山河燃ゆ』

「そんな人、奄美大島に行かないと居ませんよ!」と笑う、フロントマン。

着いて早速、夢やぶれる。ホテルに掲げられた『オサイジャシタ』の文字に、観光客への卑しさを感じてしまう。

さて、ごはんを済ませ、楽しみにしていた入浴タイム!

「コロナ感染症対策で、入場制限してます」

明日は知覧へ行く、朝早い出発なので眠らなければならない。入浴を諦め、独り寂しく床に就く。

翌朝、1番乗りを目指して大浴場へ!

「バラ湯、コロナなのでありません」

えっ?? コロナ関係ある!?鹿児島の訛も聴けぬ、温泉も楽しめぬ。

ごはん‥はまた、次の旅行記にて。

あとがき

さて。太平洋戦争時。

日本軍が通信手段として使った『鹿児島弁の暗号』

ドイツ日本大使館 ⇔ 日本外務省 の間でのやり取りを傍受されても解読されないよう、鹿児島弁を暗号としてつかったのが、この作戦です。

カジキさん、ヨシトシさん、ヨシトシの親父の3人について、補足します。

ドイツ日本大使館に駐在していた 曾木隆輝 は、加治木町の出身。日本外務省に居た 牧秀司 は、吉利村の出身。野村中将も、この牧と同郷です。

そのため、「カジキさん」「ヨシトシさん」と伝え合っています。

アメリカ軍情報部。はじめのうちこそ鹿児島弁は理解不能でしたが、2ヶ月で解読可能になります。なぜなら、伊丹明 という鹿児島出身の人物が居たためです。

彼の両親は、曾木と同じく 加治木町の出身。

伊丹明の父は薩摩隼人、郷土を愛する気持ちは人一倍強い。息子にも日本人としての誇りを持たせたい!と、鹿児島へ留学(?)させました。

そして、鹿児島には 郷中教育 というのがありまして。歳の近い先輩方が、後輩に指導するのが慣わしです。

この歴史はとても古く、400年前の島津義弘(関ヶ原ごろの人物)の祖父・忠良の教えとして伝わっています。(日新公いろは歌)

15歳までを 稚児(ちご)、24歳までを 二才(にせ)、それ以上を長老(おせ)という独特な呼び方も面白いですよね。この教育は、薩摩藩ではなく、郷ごと独自に行われます。

あの西郷隆盛と大久保利通は『同郷』で『郷中教育』を学んできた仲。この教育で育まれる仲は、とても深いのです。

西南戦争で、友(西郷隆盛)を撃て!という指令を出した大久保利通。薩摩隼人にとっては他の土地よりももっと、深く悲しい思いがあったのではないかと思います。

伊丹明は、曾木隆輝の後輩でした。伊丹は、曾木から学び、曾木に相談し、お世話になった尊敬する人物なのです。

伊丹は暗号解読に協力したものの、39歳で拳銃自殺を遂げてしまいます。

ちなみに私、このフロントマンに『郷中教育』についても質問しています。

「あー、確かに先輩後輩の付き合いはあるかな~」みたいな返事をされていました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?