嫉妬・幸せについて。
幸せは他者との比較でしか感じられないものなのか?
なにかに悩んでいる、つらい立場にある。そんなとき、戦争や災害に巻き込まれた人のニュースをみて、「それに比べたら自分のつらさなんてちっぽけなものだ、今ある幸せに感謝しよう」と思う。
この考え方は至極真っ当だとは思うけれど、これは『下には下がいる』という比較に他ならないのでは?ひとの不幸をみて自分の幸せを感じる。これって残酷で失礼なことではないだろうか。
「人生における幸せとは他者への貢献である」
これはアドラー心理学の本で出会った一文で、腑に落ちた。やさしい、と感じた。
ところで、私は嫉妬する。
自分の憧れのものを手にしているひとをみて、羨ましいと感じる。
反対に、他者と比較したときに感じる優越感、ねじれた喜びも、醜くて直視したくない、認めたくないけれど、たしかにある。
これは他者への貢献とはなんの関係もないけれど幸せと言えるのではないか。やはり幸せとは他者との比較で感じられるものなのか?
※喜び=幸せなのかどうかは考える余地があるかもしれない。不幸な喜びは存在するか?一旦ここでは喜び=幸せと考える。
「他者と比較せず得られる幸せは、三大欲求の充足のみである」
これは私の仮説。たっぷりぐっすり眠れてすっきり目覚めた朝に「でもあの人のほうが1時間長く寝ている」と羨ましく思うだろうか、いや思わない。
大好物を口に放り込んだ瞬間に「でもあの人のほうが美味しそうなものを食べている」と思うだろうか、いや思わない。(でもこれは人によるのかな、Instagramのストーリーで高級店の寿司が流れてくるのは、優越感の表れなのかな)
あとひとつに関しても、いや思わない。(多分)
自分の体で感じる喜び。その瞬間は他者と比較しようがないものであり、純粋な幸せといえるのではないだろうか。
なんでもわりとオープンに話してくれる友人が、職場の人間から強烈なマウントをとられた話をしていた。友人が今一番望んでいるけれど得られていないものを、得ている人からの切り裂くような言葉。もし自分が同じことをされたらと考えただけでめまいがする。腹が立ちすぎて一ヶ月ほど寝込むと思う。
想像でしかないけれど、友人はなんらかの理由でその人から嫉妬されているんだと思う。自分が優位に立っているジャンルでその事実をこれでもかと突きつけないと気が済まないほどに。
なんでもオープンに話してくれるから、比較対象に選ばれやすいのかな。
あと、その友人がそうとは思わないけれど、嫉妬深い人は嫉妬されやすいと思う。
なにかとこちらを意識して張り合ってくるような人は、こちらもなんとなく意識してしまうものだ。張り合うために色々聞き出されたり、聞いてもないのに話してきたりするし。そっちがその気ならって、なるんじゃないかなと思う。
うわーなんか比べられてるなぁ、仲良いはずなのに鬱陶しいなぁ、って思ったひとが過去に二人ほどいたが、ふたりとも「過去に周りの人間からこんなに酷いことを言われた」という話をしていた。たしかに驚くほどの悪意をぶつけられていた。
精神医学でいう『投影』とは。
「私はあの人が嫌い」でもその感情を自分で意識できず(受容できず?)
「あの人は私が嫌い」と感じる。
「私はあの人が羨ましい、嫉妬している」が
「あの人は私が羨ましい、嫉妬されている」
に変換されていることも多々あるんだろうな。
友人の話に触発されて、自分のいやーな感情をたくさん思い出してしまった。
私のなかには、人と比較することで得ているねじれた喜びがたしかに存在する。でも、比較で得られた喜びは、比較によって生じる焼け付くような嫉妬と表裏一体である。最上級にはなれない。しんどい。不幸な喜び、といえるかもしれない。
人間は、三大欲求以外でも、幸福な幸せを感じられるのだと思いたい。蝶が羽化したときのような、子が初めて笑ってくれたときのような、ささやかで絶対的な幸せを散りばめて生きて死にたい。