新型コロナウィルス騒動を通して、アルバニアについて考えてみる~ミュンヘン会談、中ソ対立など~
パンデミック対策のため、各国が互いに入国制限を課しあうようになって、早1年です。どこの国も、鎖国化しつつある感じですね。
鎖国といえば、私が高校生の頃、当時まだ鎖国をしている国として習ったのが、東ヨーロッパのアルバニアです。「20世紀の今、鎖国!?」と驚いたものです。だからこそ、数年前にアルバニアの空港に降り立った時、「Welcome to Albania」という表示を見て、一瞬涙が出そうなほどの感慨を受けました。鎖国していた国が、「ようこそ」と言うまでになったのだな、と。
今回は、そのアルバニアについて語ってみます。
1.アルバニアとは
アルバニア共和国は、バルカン半島の国です。ギリシャの北、アドリア海に面しています。首都はティラナ、面積は外務省のサイトによれば「四国の1.5倍」の小さな国です。
ちなみに響きが似ているアルメニア共和国と混同されることがありますが、アルメニアは旧ソ連の国です。
1912年の独立宣言までオスマン帝国の支配下にあったため、上記の外務省のサイトによれば、57%がムスリム(イスラーム教徒)です。下の写真は2015年8月に首都のティラナで撮影したものですが、だからこのようにモスクが見られるわけですね。1913年、第2次バルカン戦争後のブカレスト講和条約で、国際的に独立が正式に承認されました。
2.ミュンヘン会談
1926年、ムッソリーニ率いるファシスト党政権下のイタリアによって、保護国化されます。なぜここでイタリアが出てくるかというと、イタリアはアドリア海を挟んでアルバニアの対岸にあるのです。ムッソリーニは対外膨張策により、国民の支持を得たわけですね。
結局アルバニアは、1939年にイタリアによって併合されます。この年、ヒトラー率いるナチス=ドイツはチェコ=スロヴァキアに対し、ズデーテン地方の割譲を要求しました。ズデーテン地方は第1次世界大戦の結果、ドイツからチェコ=スロヴァキアに割譲されましたが、ドイツ系住民が多く住む地でした。それを奪還しようとしたわけです。
その要求は、ミュンヘン会談によって叶えられました。ミュンヘン会談はイギリス、フランス、ドイツ、イタリアの4ヶ国の首脳会談であり、当事者であるチェコ=スロヴァキアの首脳が参加しない場で、ズデーテン地方のドイツ帰属が決められるという、ひどいものでした。
これがいわゆる宥和政策です。譲歩と話し合いで解決を図る、といえば聞こえは良いですが、他の国々を犠牲にすることで2度目の世界大戦を避けるため、ドイツの侵略を阻止しない、というものです。要するに、自分さえ良ければ、他国の犠牲は顧みないという、身勝手な方針です。
この時のイギリスの首相は、ネヴィル=チェンバレンです。ヒトラーが領土の要求はこれを最後にすると約束したこともあり、ヒトラーを共産主義への防波堤にできると考えたわけです。チェンバレンは話し合いで世界戦争を回避できたと思い、当時のイギリスの世論もチェンバレンの宥和政策を支持しました。しかし後に首相となるチャーチルは、ヒトラーの『わが闘争』を読み、彼の危険性を感じていたこともあり、その方針に反対しました。でもこの時は、チャーチルのほうが非難されることになったわけです。
実はそれまでヒトラーはイギリスに一目置いていたのですが、ミュンヘン会談の結果、イギリスの弱体化を感じとり、逆に軽視するようになります。結果、ドイツはチェコ=スロヴァキアの解体を強行し、現在のチェコにあたる部分は併合、スロヴァキアは保護国としました。
ちなみにこのミュンヘン会談の前後、1938年末からドイツ、オーストリア(1938年にドイツに併合)、チェコ=スロヴァキアに住むユダヤ人の子ども1万人をイギリスに逃がす「キンダートランスポート」を行った人物の活動を描いたのが、「ニコラス・ウィントンと669人の子どもたち」という映画です。
普通の青年が、自分に出来ることを自分の頭で考えておこなった結果、多くの子どもの命を救うことができたのです。何が良いかって、彼は別に正義感に燃えたとかではなく、ごく自然にその活動をおこなったんですね。だからこそ、活動を終えた後は自分の家族にも、自分がしたことは話しませんでした。機会があれば、ぜひ観ていただきたい映画です。
例のごとく話が脇にそれていますが、ドイツの動きに刺激を受けたイタリアが、いわば「俺も」と思い、アルバニアを併合したわけです。
3.中ソ対立
1943年のイタリアの無条件降伏後、1944年、アルバニアに共産党臨時政府が成立し、アルバニア全土が解放されます。ソ連の強い影響を受ける、いわゆる東側陣営に入ったアルバニアですが、1961年にソ連と断交します。理由は2つありました。
1つは1955年に、ソ連がユーゴスラヴィアと和解したことです。ありがちな話ですが、アルバニアとその北に位置するユーゴスラヴィアとの関係はあまり良くありませんでした。ユーゴスラヴィアは他の東ヨーロッパ諸国と違い、ソ連軍の手を借りることなく、ティトー率いるパルチザンによってほぼ独力でナチス=ドイツからの解放を実現したため、あまりソ連の言うことを聞かなかったのです。結果、1948年にコミンフォルムから除名されていました。そのユーゴに対し、当時ソ連を率いていたフルシチョフがいわば詫びを入れたことが、アルバニアには面白くなかったわけです。
2つ目の理由は、中ソ対立です。中ソ対立は、フルシチョフによる1956年のスターリン批判演説とアメリカとの平和共存路線が唱えられたことをきっかけに起きました。当時中国を率いていた毛沢東はスターリンを崇拝し、やっていることもスターリン的であったため、スターリン批判はいわば毛沢東批判であるととらえたわけです。
加えて、当時アルバニアを率いていたアンベル=ホジャ自身がスターリン主義者で独裁者だったため、フルシチョフのスターリン批判を自分への批判ととらえたのもあると思います。ホジャは1941年にアルバニア共産党を設立した人物で、戦後は首相や外相を歴任し、1954年に党第一書記となっています。
中ソ対立において、アルバニアは中国側についたものの、その後中国との関係も悪くなります。中国がフランコ体制下のスペインなど、反共的な国々と国交を樹立したことなどが気に入らなかったようです。1976年に中国の経済・軍事援助が停止され、その後アルバニアは実質的に鎖国することになります。ホジャは1985年に死去するまで、実権を握りました。
4.現在のアルバニア
1989年の東欧各国の民主化の流れを受け、アルバニアでも同年、全国的な反政府デモが起きます。翌1990年から開放路線に転じたものの、市場経済への移行後も、混乱が続きました。1997年にネズミ講問題を発端に騒乱が発生したことは、その一例です。
それでも2014年にはEU加盟候補国の地位を獲得し、2019年には欧州理事会(EU首脳会議)が北マケドニアと共に、アルバニアのEU加盟交渉の開始を承認します。とはいえまだ経済は不安定で、実は2015年以降、ヨーロッパを目指す難民・移民の一部は、国の未来を悲観したアルバニア人です。
なお北マケドニアについては、以下の記事をご参照ください。
今日はもっと短い記事にするつもりだったのに、ついまた語ってしまいました(^-^;