見出し画像

日本とトルコの助け合い~エルトゥールル号遭難事件とイラン・イラク戦争~

1.はじめに

2023年2月6日にトルコ南部で大地震が発生し、トルコと隣国シリアで合わせておよそ5万4000人が死亡してから、明日で1ヶ月半となります。6日未明にマグニチュード7.8、そのおよそ9時間後にはマグニチュード7.5の地震が発生し、余震も続いたことで、トルコ南部からシリア北部にまたがる地域で大きな被害を出しました。

私は一度トルコを訪れたことがありますが、カッパドキアやパムッカレなど見どころは多いし、ごはんは美味しいし、人々は親切だし、とても良い国でした。

カッパドキア

残念ながらシリアは訪れたことはありませんが、被災地の1つであるアレッポの石けんにはお世話になっています。

すでに日本では今回の地震について、あまり報道されなくなってしまっていますが、被災された方々の生活の立て直しは、まだまだこれからです。そのようなわけで、トルコとシリアのことをもう一度思い出していただくために、ささやかな記事を書くことにしました。

なお記事の所々に、様々な団体による支援要請の記事のリンクを貼りますが、選んだ団体を特に私が支援しているというわけではありませんし、順番についても無作為であることをお断りしておきます。


2.エルトゥールル号遭難事件

先ほど、トルコ人が親切と書きましたが、トルコの人は特に日本人びいきであることで知られています。理由は大きく2つあり、1つは1904年から翌年にかけての日露戦争で日本が勝ったことです。トルコとロシアは歴史を通じ、たびたび戦ってきたので、宿敵ロシアを破った日本に好感情を持ってくれたわけですね。
そしてもう1つの理由が、日露戦争に先立つ1890年に起きたエルトゥールル号遭難事件です。

エルトゥールル号は日本に親善訪問した、当時のオスマン帝国の軍艦です。高校の歴史の資料集には、こう書かれています。

アブデュル=ハミト2世は、自らのカリフとしての権威をインド及び東南アジアのムスリムにアピールするため、1889年、軍艦エルトゥールル号を演習航海の名目で日本に派遣した(翌年到着)。

『グローバルワイド最新世界史図表 二訂版』(第一学習社、2019年)、p.242

しかし帰途、和歌山県沖で暴風雨に遭遇し、ボイラーが海水を被ったことで爆発してしまいました。死者は580名以上、助かったのは69名のみです。



遭難した乗組員たちを救助し、遺体や遺品を回収したのは、当時の大島村、現在の串本町の漁民たちでした。決して余裕のある暮らしではなかったにも関わらず、生存者たちを必死で介抱し、彼らに食べるもの・着るもの・住まいを与えました。

言うまでもなく、言葉は通じません。なぜ彼らがそんなに親切だったかというと、海の仲間を助ける意識からだと思います。令和の今でもそうだと聞きますが、海で遭難者が出ると、漁師さんたちは燃料代等の負担もいとわず、ボランティアで救助・捜索にあたることも少なくないそうです。

生存者の帰国に際し、明治政府は軍艦「比叡」「金剛」の2隻を仕立てました。スルタン(皇帝)から預かった軍艦を失ってしまった彼らが、面目を保って帰国できるようにとの配慮だったようです。明治政府、結構親切ですね。

2隻は地中海からダーダネルス海峡とボスフォラス海峡を通って、当時の都イスタンブールに行ったわけですが、実はこの2つの海峡は、当時は外国の軍艦の通行は許されていませんでした。クリミア戦争(1853)の講和条約であるパリ条約(1856)の規定によるものです。しかし人道目的なので、オスマン帝国の許可を得て通行し、1891年の年頭にイスタンブールに到着しました。



なおこのエルトゥールル号遭難事件に関しては、山田寅次郎という人物の名がよくセットで語られます。山田寅次郎とは誰かというと、群馬県出身の茶道の家元(当時は家元襲名前)で、彼はエルトゥールル号遭難事件にひどく心を痛め、日本中を回って義援金500円(現在の貨幣価値で1億円以上とされる)を集めました。大島村の住民や明治政府のみならず、当時の日本の民衆も、親切です。それこそ生活に余裕があったわけではないでしょうに、異国の船の悲劇に心を痛めた人々が少しずつお金を出し、それが積み重なっての500円でしょう。

当初、山田寅次郎は集めたお金を送金だけするつもりだったようですが、自ら届けることを外務大臣青木周蔵に勧められ、イスタンブールに行くことになりました。事件の翌々年のことです。

まさか日本の民間人が義援金をもってやってくるとは想像もしなかったため、山田寅次郎は大歓迎されます。アブデュル=ハミト2世にも拝謁したそうです。乞われて士官学校で日本語を教えた他、現地で商店も営むようになりました(出資者を得て、現地支配人として仕事をする形)。

ちなみに梨木香歩の『山田エフェンディ滞土録』には、山田寅次郎が脇役として登場します。

↑kindle版


なお、山田寅次郎のことはトルコの教科書に載っており、トルコ人で彼の名を知らない人はいないと言われますが、実はもう一人の山田寅次郎とでもいうべき人がいます。その名は野田正太郎。「時事新報」の記者です。エルトゥールル号遭難事件に際しては、各新聞も義援金を募集しましたが、「時事新報」は4,200円を集め、野田正太郎がそれを現地に届けました。野田正太郎も、日本語教師として2年間滞在したそうです。


https://www.japanforunhcr.org/campaign/Turkiye-Syria-earthquake-emergency

↑国連UNHCR協会の緊急募金のお願いです。


3.イラン=イラク戦争

時を経て、1985年のことです。舞台はイランの首都テヘランです。当時はイラン=イラク戦争(1980~1988)の最中でしたが、イラクのフセイン大統領は3月17日に突如、3月19日20時半以降イラン上空を飛ぶ航空機は無差別に攻撃すると宣言しました。

各国政府が自国民の救出に向けて動く中、日本政府は何もできませんでした。今なら自衛隊機が派遣されるのでしょうけれど、当時は自衛隊の海外活動は、人道目的を含め不可能だったのです。日本航空にチャーター機の派遣を依頼したものの、結局実現しませんでした。これについては、日航側が乗務員の安全を盾に拒否したという話を聞いたことがあります。日航の立場も分かるので、それはそれで仕方がないと思いますが、ウィキペディアさんの記事によれば、日航はジャンボ機を待機させたものの、結局外務省側が断念したとなっています。


テヘラン在住の日本人215名を救ったのは、トルコ航空でした。日本の在イラン特命全権大使がトルコの在イラン特命全権大使に依頼したところ、トルコ政府が応じ、トルコ航空は自国民救援のための最終便を2便に増やすことで、日本人を救ってくれたのです。上記のウィキペディアさんの記事によれば、「トルコ機は自国が近隣に位置することから陸路での脱出もできる自国民よりも日本人の救出を最優先し、実際この救援機に乗れなかったトルコ人約500名は陸路自動車でイランを脱出した」とあります。

なぜトルコ航空が自国民より日本人を優先してくれたかというと、エルトゥールル号遭難事件のお礼だったと言われています。最終便の乗組員たちがエルトゥールル号遭難事件の犠牲者ないしは生存者の子孫だった、というわけではないと思いますが、かつて自分たちの祖先に親切にしてくれた日本のことを、覚えていてくれたわけです。



なおエルトゥールル号遭難事件とイラン・イラク戦争時の救出劇のことは、映画「海難1890」(田中光敏監督、2015)で描かれています

↑Prime Videoで300円からレンタル可能です。


その後も日本とトルコで大地震等が起きるたび、相互に救助隊が派遣されてきました。


エルトゥールル号遭難事件当時の日本人のように、今回の地震の被害にあったトルコやシリアの人々のことを心に留め、出来る範囲のことをしたいなと思います。言うまでもなく、後の見返りを期待してのことではなく、人として。




記事の内容が、お役に立てれば幸いです。頂いたサポートは、記事を書くための書籍の購入代や映画のチケット代などの軍資金として、ありがたく使わせていただきます。