自分の幸運について考える
自分をはっきりと人格として構築し、人格であり続ける。赦しを与えるということは、 罪ではなく人格を赦すということである。
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最近でも、幼児虐待死という痛ましい事件が起きている。そんな事件が起きたとき、目にするのが事件当時の加害者の精神状態を判定して、責任能力があるかどうかを見定めるということ。
法治国家であり、加害者とはいえ人権を保護される権利もあるだろう。それでも、どうも気持ちが悶々する。
「目には目を」といって、右目を奪われたら左目も渡すみたいな高尚な精神はわたしには無い。奪い返さなくても、デコピンくらいはお返ししたいし、罵りたくもなる。
そんな悲劇が自分の身に起きたとしても辛いのに、ましてや最愛の人に起こってしまったとしたら、悲しみも怒りも、何人分にも膨れ上がって憤りで息も出来なくなりそうだ。
有栖川有栖さんの本がドラマ化されていて、先日、過去の作品を見た。そのなかに、斎藤工さんが出ていて、犯罪臨床学者とかいう、架空の専門分野の学者さんを演じていた。
彼は、犯罪ではなくて、犯罪を犯した犯人を憎む、みたいなことをドラマのなかで述べていた。
確かに、犯罪は妄想のなかで色々と考え出すことができる。アガサクリスティが好きで、若い頃はほぼ完読したが、あれほどの種類の犯罪を考え出したアガサクリスティは実際に犯罪を犯しておらず、すぐれた人格の持ち主だろう。
わたしも腹が立ったときに、「あいつ、転けへんかな」と、相手の不幸を想像して気晴しすることはあるけれど、実際に手を下したりしない。
それでも、「罪を憎んで人を憎まず」なんて思えないことも多々ある。
いくら罪ではなく人格を赦せと言われても、人としての「格」、人としての「核」がない人の、何を赦せばいいのか分からなくなる。
そもそも、他人を「赦す」なんて、偉そうに言っている自分の人格って?
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「性格」は「人や物の持つ、固有の考え方や行動の傾向のこと」、「人格」は「個人の 人間としての在り方のこと」である。
履歴書を書いたときに困ったというか、今もこんな項目があるんやと思ったのが、自分の性格についての質問だった。
「あたしの性格?」
わたしに属する固有の考え方や行動の傾向や特性って、「斜め45度とか?」そんなことを書いたら不採用だろう。
それよりも、人格を尋ねられる方が面白いと思った。「あなたの人格は?」なんて質問は答えづらいが、「どんな人間でいたいか(=自分が目指す「在り方」)」と聞かれると、わたしらしさが出せる気がした。
そもそも、自分の性格について「誠実」とか「几帳面」とか「思いやりがある」なんて、恥ずかしくて書けない、正直な性格のわたしだった。
「どんな人間でいたいか」
その質問に誠実に答えられる人に、わたしは信頼感を寄せる。
たとえ、すぐには答えられなくても、質問が 心を占めて、自分は何者なんだろう、自分はどんな人間でいたいのだろう。真剣に自分と向き合う人が好きだ。
だからかな、犯罪を犯した人が、自分自身と向き合おうとしない態度をみると、この人物には人として生きるための大切な核となる「人格」が欠損している、罪を認識し、償う能力が欠如しているように思える。
そして、残念ながら、赦される「人格」を 持たない人が世の中には存在するだろうし、そんな人物と出くわす可能性は誰にもある。
そして、まだ、そんな人物と出くわさずに、ここまで生きてこられたわたしって、本当に幸運だ。