生きるのに遠慮はいらない(わたしの老々介護)
「お父さんを施設に預けたら、楽やろう」
母の死後、本格的に仕事と父の介護の両立という現実に向き合っていたわたしに、叔母が電話してきては口にした言葉だ。
実際、夜勤もある看護師をやりながら、父の介護をするのはしんどかった。また、管理職でもあったので、個だけではなく全体を見る必要もあり、体にも心にも余裕が無くなっていた頃だった。
でも、無くなってはいたけれど、枯渇はしていなくて、自分時間をキープすることで、目減りした余裕を増やすことができていた。
あの頃のわたしは、父、そして老々介護から距離をとることで、心の余裕を持てた。何をしていたかと云うと、大好きな救急や災害のインストラクターだ。
仕事と老々介護に追われる多忙な日々でも、強引に隙間時間をこじ開けて、二泊三日で、インストラクターとして研修会に参加した。
父が自分の足で歩いて、レンチン!ができるうちは、冷凍庫にたくさんの作り置きをしていたが、それが出来なくなると、ケアマネと画策して、ショートステイでお泊まりをしてもらった。
研修会によっては三泊四日のお泊まりが必要だった。自分時間は死守したいし、少しでも父には快適に過ごしてもらいたい。これらを両立させるために、近所のショートステイを当たった。
二人部屋だが、集団生活を強要しないというショートステイがあった。同じ時間に、他の人と同じ行動を取るのは、わがままな父には苦痛だろうし、同じくわがままなわたしには彼の心情がよおく理解できる。
生きるのに遠慮なんかいらない。
わたしは、父が介護されるだけの、受け身の存在にならないようにしたかった。それは、「娘に棄てられる~」と、ショートステイを利用し始めた頃、迎えに来たスタッフに父が言った言葉が耳から離れなかったから。
自分の心身のバランスを取ることばっかりに気が取られて、父のことがなおざりになっていた。
娘のことを思って、我慢していた父の本音が溢れた瞬間であり、我慢というストレスが、彼の認知症を進めていたことに気づいた。
いくら快適を謳ったショートステイであったとしても、自由気ままな自宅とは違う。知らない相手と二人部屋だし、食事の時間も就寝時間も決まっている。リハビリがある訳でもなく、用事がないと寝てばかり。
「いっても寝てばかりで、つまらん」
父の本音。ワガママだろうか?親しき仲にも礼儀ありで、遠慮や気遣いも大切だろうか?大切かも知れないが、どこまでを無礼と思うとか、どこまでなら我慢できるとか、それは個人差があるし、言ってみないと判らない。
父と話した。何が苦痛だったのか、どうしたいのか。お互いが我慢できる、譲り合える、そんな共有ゾーンを探した。
結局、それまでも入院したことがある病院に併設したショートステイへ移った。
そこには父が顔見知りの医師や看護師、理学療法士もいる。リハビリの時間だってある。構われ過ぎるとウザいが、適度に時間潰しのリハビリもある。
「行ってきます~」
元気な声で父が挨拶して、ショートステイへ行くようになった。わたしも安心して、猫のマールを掛り付けのペットクリニックにあるホテルに預けて、県外の研修会へ行った。
探したら、活用できる社会的資源は幾らでもあるが、箱はキレイでも、そこで働く人々の利用者さんに対する思いが大事だ。
相手は、感情のある人間だということを忘れないで、少しでも、笑顔が増えるように、「おもろかった~。また、来るね~」って、言い合える場所であってほしい。
生きるのに、遠慮なんかしたくない。
イラストは、izuming0821さんのものです。今日はお休み。久しぶりに靴を作りにいこう~。そろそろ靴が仕上がりそうだ。