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意志は誰に命令するの?

目には見えない意志だけど、意志にも意志の意地があって、ちゃんと誰に命令するのかを考えている。

意志は欲望をコントロールするために、意志みずからに命令している。

これは、ハンナ・アレントの言葉だ。つまり自分のなかには2つの意志、命令する意志と命令に服従する意志、という相反する意志が共存していることになる。

なんともややこしい。

そして、面白いのが命令に服従する意志、という表現だろう。服従するとは、主従関係にあるみたいな響きがあり、今の世の中では、他人に服従するみたいなイビツな人間関係は少ないだろう。

自分の意志で選び、行動したのなら服従したなんて思わないし、言わない。ハンナは服従ではなく支持する、と表現している。

行動した結果は同じでも、服従は受動的で、支持は能動的に自らがその行動を選択した、という意味合いがあり、責任と達成感がもれなくついてくる。

もし、ここで命令に背くことを選び、自らが正しいと思う道を選んだのならば、わたしの意志は、流されること、長いものに巻かれて安楽に生きるという欲望をコントロールしたことになるのだろう。

まさに意志の鬩ぎ合いが起こっていて、自分自身もどちらの意志を応援するか、そのときどきの心の余裕によって変わってくる。

ただ大切なのは、どの意志に従うとしても、その瞬間、その瞬間、自分の本音と一致した意志を選ぶということだろう。

自分のなかに相反する意志、相反する想いがある。でも、それは普通のこと。なにも考えずに生きていたら鬩ぎ合いなんて起こらないだろう。

あーだ、こーだ、と自分のなかで自問自答をするから、相反する意志が生まれてくる。

「正しいと思うことをやりたい。でも、そうすると友人と摩擦が起きてしんどいな」

ただ、友人に服従していたときなら気づきもしなかった、さまざまな想いや感情が自分のうちにある。

わたしの知人は、長いこと、DV夫と暮らしていたが、すべてを夫が決めてくれるし、何も自分で考える必要がなくて楽だったと言っていた。

イビツな自己一致だ。

それが、夫への服従生活から自立した生活を目指し始めると、自分のなかに見たくもない汚い感情があることに気づき、また、服従の生活に戻ろうとした。

見たくもないものは見ない。美しいだけの    自分の自己一致だ。

どちらを選ぼうが彼女の人生。楽な生き方を選択しそうになる弱い自分の意志。愛すべき弱い意志を持った自分を「好き」と言える、その強さが彼女の強みだろう。

揺れながら暮らしている知人を遠くから見ているわたし。貯金もないし、年金もどんだけ貰えるの?自分だったら、将来が不安になりそうな現実を生きている知人は、もしかしてわたしよりも幸せなのかな。

揺れているのは、そこそこの貯金もあって、年金も頼らずに老後を過ごせそうなわたしの方かな。

わたしは、わたしが正しいと信じる生き方を選択する意志を、尊重してやれてるのかな?


写真はmichicusaさんのものです。たまにですが、心が疲れてくると、すぐに自分の生き方に「?」が浮かんでくる。だから、自分の体調管理が出来てます。