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中国古代の舞踊と雅楽

雨乞いの火炙り祭、雩祭の補足用。というか影響範囲を考えると、雩祭よりもこっちが重要、音楽と踊りの話であるため
この記事は雩の語源に記載されている「雩,舞羽也,故或從羽。」に関連した情報を適当に翻訳ツール使って纏めた資料である。
これについてもどういう形で現代に残っているかを確認する。

※はこの記事を書いた著者の補足やメモ書き


皇舞

皇舞単体の内容が凄く薄い。
出典:https://baike.sogou.com/v372504.htm

皇舞是古代汉族舞蹈之一。帗舞、羽舞、皇舞、旄舞、干舞、人舞被称之为“六小舞”。是周朝时期用于教育贵族子弟的乐舞教材,有时也用于某些祭祀场合。

皇舞は古代漢族の舞踊の1種です。帗舞、羽舞、皇舞、旄舞、干舞、人舞は「六小舞」と呼ばれています。これは周朝時代に貴族の子弟を教育するための楽舞教材として使用され、時には特定の祭祀の場でも用いられました

古时的汉族舞蹈,有文武之分,文官执羽毛,武官执盾斧。《帗舞》(执长柄饰五彩丝绸的舞具而舞)、《羽舞》(执鸟羽)、《皇舞》(执五彩鸟羽)、《旄舞》(执旄牛尾)、《干舞》(又叫《兵舞》,执盾)。

古代の漢族の舞踊には文官と武官の区別があり、文官は羽毛を持ち、武官は盾と斧を持っていました。《帗舞》(長柄の五彩の絹で飾られた舞具を持って舞う)、《羽舞》(鳥の羽を持つ)、《皇舞》(五彩の鳥の羽を持つ)、《旄舞》(牛の尾を持つ)、《干舞》(または《兵舞》、盾を持つ)。

補足資料:漢語網

出典:https://www.chinesewords.org/dict/19657-300.html

《周禮·春官·樂師》:“凡舞,有帗舞,有羽舞,有皇舞,有旄舞,有干舞,有人舞。” 鄭玄 注引 鄭司農 云:“人舞者,手舞……人舞無所執,以手袖為威儀。”

《周禮·春官·樂師》:「舞には、帗舞、羽舞、皇舞、旄舞、干舞、人舞がある。」鄭玄の注釈によれば、鄭司農は言う:「人舞とは、手を使って舞うことであり……人舞は何も持たず、手の袖を威儀とする。」

六小舞

出典:https://baike.baidu.com/item/%E5%85%AD%E5%B0%8F%E8%88%9E

《六小舞》,中国周代雅乐舞蹈,有《帗舞》、《羽舞》、《皇舞》、《旄舞》、《干舞》和《人舞》6种。主要用于祭祀。

「六小舞」、中国周時代の雅楽舞踊には、「帗舞」「羽舞」「皇舞」「旄舞」「干舞」「人舞」の6種類があります。主に祭祀に使用されます。

又称“小舞”。有《帗舞》、《羽舞》、《皇舞》、《旄舞》、《干舞》和《人舞》6种。主要用于祭祀,也被列为贵族子弟的必修内容。《周礼·春官》记载:“乐师:掌国学之政,以教国子小舞。”《帗舞》用于祭社稷,手执五彩绸(一说执全羽)而舞;《羽舞》用于祭山川,手执白色羽毛而舞;《皇舞》用于祈雨,执五彩羽毛而舞;《旄舞》用于祭辟雍,执牦牛尾装饰的舞具而舞;《干舞》用于兵事或祭山川,执干戚而舞;《人舞》徒手而舞。明代朱载堉认为:“所谓小舞者,岂异于大舞哉?以其无佾数,独一人以舞,故谓之小舞耳……大舞之派别立名号,以教年少者为小舞”(《乐律全书》)。他创制的“拟古舞谱”中,“小舞”即“大舞”的衍化,如《帗舞》之执五彩绸,以象征五色云,为黄帝《云门》之意蕴;《皇舞》之持排箫,以象征凤翼,为舜《箫韶》“凤凰来仪”之意蕴等。从此小舞始有“六代小舞”之称。朱载堉拟制的周《六代小舞谱》绘有舞图,为今人了解和研究周代以及明代的雅乐舞蹈的依据,具有重要参考价值。

また「小舞」とも呼ばれます。「帗舞」、「羽舞」、「皇舞」、「旄舞」、「干舞」、「人舞」の6種類があります。主に祭祀に使用され、貴族の子弟の必修科目にも位置づけられています。《周礼・春官》には次のように記録されている:「乐师:国学の政を掌握し、国子に小舞を教える。」《帗舞》は社稷の祭に用いられ、五色の絹(あるいは全羽を持つとも言われる)を手に持って舞います;《羽舞》は山川の祭に用いられ、白い羽毛を手に持って舞います;《皇舞》は雨乞いに用いられ、五色の羽毛を持って舞います;《旄舞》は辟雍の祭に用いられ、牦牛の尾で装飾された舞具を持って舞います;《干舞》は兵事や山川の祭に用いられ、干戚を持って舞います;《人舞》は素手で舞います明代の朱载堉は次のように考えます:「いわゆる小舞とは、大舞と異なるものなのか?佾数がないため、ただ1人で舞うので小舞と呼ばれるに過ぎない……大舞の派別が名を立て、年少者に教えるために小舞とされる」(《乐律全书》)。彼が創作した「拟古舞谱」では、「小舞」は「大舞」の派生であり、《帗舞》の五色の絹を持つことは五色の雲を象徴し、黄帝の《云門》の意義を含んでいます;《皇舞》の排箫(パンフルート)を持つことは鳳凰の翼を象徴し、舜の《箫韶》「凤凰来仪」の意義を表しています。このようにして小舞は「六代小舞」と呼ばれるようになりました。朱载堉が作成した周の《六代小舞譜》には舞の図が描かれており、現代人が周代および明代の雅楽舞踊を理解し研究するための基礎となり、重要な参考価値を持っています

補足の参考資料:翡翠の名の由来

出典:https://lapisps.sakura.ne.jp/essay/fav/feitsui.html

新村出の広辞苑を見ると、翡翠とは、「①カワセミなどヒスイ科の鳥の総称、②鳥の尾の長い羽、③カワセミの羽の色のように美しくつややかなもののたとえ。④硬玉」と載っている。(※硬玉は鉱物学用語で Jadeite/ひすい輝石を指す)

(画像は山登功・尚子氏のホームページより借用)※ホームページはリンク切れ

◆カワセミは、「雀より大型で、尾は短く、クチバシは鋭くて長大。体の上面は暗緑青色。背・腰は美しい空色。水辺に棲み、水中の小魚をとる」鳥だという(広辞苑)。
その羽の颯爽とした鮮緑色(若竹色というのか)に、古人は新芽の場合と同様、生命力の宿りをみたのだろう。ここにはカワセミ自体に対する信仰が輻輳しているかもしれない(後述)。カワセミの羽が一種の巫術的な魔力を持ったアイテムとして珍重されたということもありうる。昆虫屋(むしや)の奥本大三郎氏は、「現代人は人工的に造り出された原色を呈するもの、金属光沢を放つもの、そして透明なものに囲まれて暮らしているが、自然界にはそのようなものは本来少ない。従って古代人は、タマムシの翅、カワセミの羽毛などを貴重なものに思いなしたに違いない。」(虫の宇宙誌)と書いている。
まとめると、日本の翡翠は緑色の羽をしたカワセミで、ここに、「植物の新芽の緑⇔若々しい生命力⇔翡翠の鮮やかな緑」という巫術的相関が看て取れる。
しかし、話はこれで終わらず、中国に渡ってもう少し続く。

故宮博物院発行の「玉器の話」に載った翡翠の絵

◆カワセミを指す翡翠という語は、(石の場合とは別に)、かなり古い時代に中国から伝わったものと考えられるが、本国では翡は緋色(赤色)、翠は翠色(緑色)の謂いである。従って、中国の翡翠のイメージには、緑色だけでなく赤色が加わってくる。
左の画像は、故宮博物院発行の「玉器の話」に載った翡翠の絵である。
『皆さん、「翡翠」の二文字をよく見てください。ともになぜか「玉」の字ではなく、「羽」の字が入っています。この「翡」と「翠」の二文字は、本来それぞれ左図のような、朱色の羽と緑色の羽をしたかわせみのことを表す文字だったのです。それがいつしか朱色と緑の輝玉のことをこの二文字を用いて翡翠と呼ぶようになったのです。』と説明がついている。
以前この画像を当サイトの掲示板で紹介した時、あるばとろすさんから、「あの絵は同じカワセミ科のアカショウビンと思われます。」とご指摘を戴いたが、その通りだ。
中国(中原)では、緑色の羽のカワセミと赤い羽のアカショウビン Halcyon Coromanda(Latham) が南方に棲息することが知られており、同じ種の雌雄であると考えられた。「説文」羽部に、「翡は赤い羽根の雀で鬱林(広西省貴県あたり)に産する」「翠は青い羽根の雀で鬱林に産する」とある。アカショウビンの方がカワセミより大きいので雄とされたらしい。

ただ指摘しておきたいのは、緑のカワセミも赤いアカショウビンも、古代中国では、ともにある種の信仰を担っていたことである。また、またもうひとつ含んでおきたい点は、緑と赤の組み合わせが自然界の森羅万象を象徴しうるということだ。緑はもちろん新芽であり、生命と結びついているが、赤は花の色であり(血の色であり)、やはり生命が旺盛に咲き誇る様と結びついている(実をいうと、赤、青、黄、白、黒の5色は中国ではどれも形而上的に生命活動と関っているのだが)。

◆とはいえ翡翠の羽は、単にその美しさが目的の、お洒落な装身具に過ぎなかったわけではない。少なくとも春秋期以前の祭祀社会では、雨乞いの儀式に欠かせない重要な巫術的アイテムに列していたのであり、漢代以降の嗜好にしても、その記憶や伝承を幾分かは含んでいたと考えるべきだろう。それは古代の人々が、鳥の羽と水の気との間に通じ合う特性を認めていたことに関係するようだ。
林巳奈夫氏の論考によると、月が放射する水の気は、良渚文化(紀元前3千年に遡る)において羽根で表されており、龍山文化でも同様だったという。雨(う)と羽(う)は中国では同じ音なのだが、「釈名」に、「雨は羽であって、鳥の羽のように動けば散る」と、両者を関連づける記述があり、漢代の人は雨というと羽を連想したものらしい。羽をもって扇げば、雨が散るのであろう。
氏は「周礼」に記された雨乞いの祭にも触れ、「皇舞を教える。舞者を帥いて雨乞い祭の際に舞う」(地官、舞師)を引用している。皇舞とは羽を被って行う舞い、あるいは五色の羽根を裂いて作った皇という道具を使って行う舞いである。「周礼」春官、楽師の注に、「皇舞とは羽をもって頭の上をすっぽり覆い、衣にも翡翠の羽を飾るものだ」とあり、ここに翡翠が出てくる。被り物の方も翡翠の羽を使ったに違いないとの見方もある。(前述のように、翡翠を色とりどりの(五色の)羽と読むことも可能だが、次節を根拠に、具体的にカワセミと考える方がもっともらしい)

また、「説文」に、「翠は鷸(しぎ)で、鷸は雨が降りそうになるのを知る鳥だ」とあり、後世の注釈に、「カワセミはその羽根を大事にし、雨が降りそうになると巣穴深くこもって出てこない。故に知雨鳥という」とある(現代のカワセミは雨の中でも平気で飛ぶらしいが)
一方、翡(アカショウビン)は、日本では雨乞鳥と呼ばれることがある。「夏鳥として渡来し、低山帯の林に住む。曇天の日に鳴くことが多く、この声は雨の前ぶれであるともいわれる」ので、中国でもやっぱり雨を察知して鳴いたとみていいだろう。ついでに言えば、アカショウビンは沖縄では豊穣の年の始まりを告げる鳥で、民謡にも歌われているそうだ。(追記3)
追記3:かつて菱マンガン鉱の美しいものを紅翡翠とも呼んだ。

舞の語源

出典:https://www.hanyuguoxue.com/shuowen/zi-33310

《说文解字》(大徐本)

樂也。㒳足相背,从舛𦨅聲。

樂である。両足を互いに反対方向へ、舛𦨅の発声から。

古文舞从𦏲、兦。

附注
徐鍇繫傳作「从羽,亡聲」。李孝定《甲骨文字集釋》按語:「象人執物而舞之形。篆增舛,象二足……舞者手舞足蹈。」

古代文字の舞は𦏲、兦から来ています。

附注
徐鍇の系伝は「羽に従い、亡の発声」としています。李孝定の『甲骨文字集釋』の注釈によれば:「人が物を持って舞う形を象徴しています。篆は増減は、2本の足を象徴しています……舞う者は手を舞い足を踏みます。」

※亾
亡と同じ。意味は逃げる、逃げるは亡である。
出典:https://www.zdic.net/hans/%E4%BA%BE

《说文解字系传》(小徐本)

樂也。用足相背,從舛無聲。

鍇注
臣鍇曰:「通論僃矣。」

樂である。足を使って背中合わせ、舛に従い無の発声。

鍇注
臣鍇が曰う:「通論は完備である。」

※舛
出典:https://www.hanyuguoxue.com/shuowen/zi-33307

2人が互いに背中合わせで横たわっている様子の会意文字。
意味は反対、裏返し、食い違い、交互など。

古文舞。從羽亡聲。

古代文字の舞。羽に従い亡の発声。

《说文解字注》(段注本)

樂也。用足相背。

段注
說从舛之意。

樂である。足を使って背中合わせ。

段注
舛の意からの説明

从舛。𣞤聲。

段注
文撫切。五部。按諸書多作儛。

舛から。𣞤の聲。

段注
文撫切。五部。いろいろな本によると、主に儛として書かれる。

古文舞。从羽亾。

段注
亾聲也。《攴部》曰:𢻲,讀與撫同。然則以亾爲無也古矣。

古代文字の舞。羽と亾から。

段注
亾の発声である。《攴部》曰く:𢻲は、撫と同じく読む。したがって、亾を無とするのは古くからである。

楽の語源

出典:https://www.hanyuguoxue.com/shuowen/zi-27138

《说文解字》(大徐本)

五聲八音緫名。象鼓鞞。木,虡也。

五種の声と八種の音の総名。鼓鞞の象。木、虡である。

羅振玉『增訂殷虛書契考釋』:「生糸と木から、琴と瑟の象である。あるいは調弦の器の象を以て(象形文字)を増やす……濼を借りて樂とし、これもまた(象形文字)から。許君は鼓鞞の象、木、𧇽者を誤りとする。」

《世本》:夔作樂。張澍稡《世本》集補注:《禮記》:夔始制樂,以賞諸侯。《淮南子》:夔作樂,合六律,調五音,所以通八風。《帝王世紀》:堯命伯夔,放山川谿谷之音,作樂六章,天下大和。《呂氏春秋慎行論》:舜欲以樂傳教於天下,乃令重黎舉夔于草莽之中而進之,舜以為樂正。

《世本》:夔が音楽を作る。張澍稡《世本》集の補注:《礼記》:夔は初めて音楽を制定し、諸侯を賞する。《淮南子》:夔が音楽を作り、六律を合わせ、五音を調和させ、八風を通じる。《帝王世紀》:堯は伯夔に命じて、山川や谿谷の音を放ち、六章の音楽を作らせ、天下は大いに和した。《呂氏春秋慎行論》:舜は音楽をもって天下に教えを伝えようとし、重黎に命じて草莽の中から夔を推挙して之を進めさせ、舜はこれを音楽の正とした

《说文解字系传》(小徐本)

五聲八音總名。象鼓鞞。木,虡也。

五種の発声と八種の音の総称。鼓鞞の象。木、虡である。

《说文解字注》(段注本)

五聲八音總名。

《樂記》曰:感於物而動。故形於聲。聲相應。故生變。變成方。謂之音。比音而樂之。及干戚羽旄謂之樂。音下曰:宮商角徵羽,聲也。絲竹金石匏土革木,音也。樂之引伸爲哀樂之樂。

五種の発声と八種の音の総称。

《樂記》が曰う:物に感じて動く。故に聲で形を成す。声が互いに応じる。故に變(変化)が生じる。變(変化)が方法となる。之を音と呼ぶ。音に比して之を樂しむ。及び干(盾)、戚(斧)、羽、旄は之を樂と呼ぶ。音下は曰う:宮商角徵羽は、聲なり。絲竹金石匏土革木、音なり。樂の引き伸ばしは哀楽の樂となる。

象𡔷鞞。

鞞當作鼙。俗人所改也。象鼓鼙,謂鼙也。𡔷大鼙小。中象𡔷。兩㫄象鼙也。樂器多矣。獨像此者。 𡔷者春分之音。易曰:雷出地奮豫。先王以作樂崇德。是其意也。

鼓鞞の象。

鞞は当然、鼙と見なすべき。これは俗人が改めたものである。鼓は鼙、あるいは鼙を象徴する。𡔷は大きく鼙は小さい。中は𡔷を象徴する。両方の㫄は鼙を象徴する。楽器は多く存在する。これに似たものは単独である。𡔷は春分の音である。易は曰う:雷が地から出て、豫(喜び)を奮い起こす先王は楽を作ることを以て徳を崇めた。これがその意である。

※儒教の礼楽思想は日本の和歌にも引き継がれていることを示唆する研究もある。
参考:古今和歌集と礼楽思想
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/63/11/63_80/_pdf/-char/ja

雅楽舞踊

出典:https://baike.baidu.com/item/%E9%9B%85%E4%B9%90%E8%88%9E%E8%B9%88/10503695

雅乐舞蹈是古代中国的一种礼乐教化的正统舞蹈,主要内容包括“六大舞”,也称为“六代舞”,代表六个朝代。‌ 雅乐舞蹈的首舞是起自‌黄帝的《云门》,随后是‌尧帝的《‌大章》、‌舜帝的《大韶》、‌夏禹的《大夏》、‌商汤的《‌桑林》以及反映武王伐纣功绩的《大武》。‌

雅楽舞は古代中国の礼楽教育の正統な舞踊であり、主な内容は「六大舞」、他に「六代舞」と呼ばれるもので、6王朝を代表しています。雅楽舞の最初の舞は黄帝の「云门」に始まり、その後は堯帝の「大章」、舜帝の「大韶」、夏禹の「大夏」、商湯の「桑林」、そして武王の紂王討伐の功績を反映した「大武」が続きます。

代表性曲目

黄帝《云门》的内容据说是歌颂黄帝创制万物,团聚万民,盛德就像天上的祥云一般。又有人说:由于黄帝功德普照天下,天之所生,地之所载,世间万物没有不受到他的恩泽的,所以这个乐舞也叫《咸池》,“咸池”也就是“咸施”。这些解释肯定有后世儒家附会的成分,而从另一些传说看,如《左传·昭十七年》“昔者黄帝氏以云纪,故为云师而云名。”传说是黄帝受天命治理天下时,天上有祥云出现,所以以云记事,以云命官。关于《咸池》也有另一种说法,唐人司马贞认为:咸池是西宫星名,“主五谷,其星五者各有所职。”和农作物的丰歉有关。根据这些记载,可以设想这一乐舞原是黄帝族祭祀云图腾的一种图腾舞,以后又用来讴歌黄帝的功德,作为祭祖和祈求丰收的祭祀舞蹈。

黄帝の《云門》の内容は、黄帝が万物を創造し、万民を団結させ、盛徳が天の上の祥云のようであることを讃えるものであると言われています。別の人はこう説明します:黄帝の功徳が天下にあまねく照らしているため、天が生み、地が載せるもので、世の中の万物は彼の恩恵を受けていないものはないので、この楽舞は《咸池》とも呼ばれ、「咸池」は「咸施」とも言われます。これらの解釈には後世の儒家の附会の要素が確かに含まれていますが、別の伝説から見ると、《左传·昭十七年》には「昔、黄帝氏は云紀を以て、故に云師を為し、云の名を付けた」とあります。伝説によれば、黄帝が天命を受けて天下を治める際、天に祥云が現れたため、云で事を記し、云で官を命じたと言われています。《咸池》についても別の説があり、唐の司马贞は次のように考えます:咸池は西宮星の名であり、「五穀を主る、その星五者はそれぞれ職を有す」。それは農作物の豊凶に関係しています。これらの記録に基づいて、この楽舞は元々黄帝の族祭りにおける云の图腾(トーテム)の一種のトーテム舞であり、その後、黄帝の功徳を讃えるために、祖先を祭り、豊作を祈る祭祀舞踊として用いられたと想像できます。

尧乐《大章》,相传是歌颂尧帝领导天下时仁德如天,智慧若神,百姓依附他就象依附太阳,敬仰祥云一样。“大章”,意思就是说尧帝之德足以彰明天下。这部乐舞看来也和氏族传统的原始舞蹈有着渊源关系。

尧乐《大章》は、尧帝が天下を治めていた時の仁徳は天のように、智慧は神のようであり、百姓は彼に依存することが太陽に依存するようで、尊敬することが祥云のようであると歌ったものと伝えられています。「大章」というのは、尧帝の徳が天下に明らかであることを意味します。この楽舞は、氏族伝統の原始舞踊と深い関係があるようです。

舜乐《大韶》,简称《韶》,是六乐中最著名的一部,孔子在春秋末年还曾见过。传说这个乐舞的创制者是一只脚的怪兽“夔”,内容是歌颂舜帝能继承并发扬光大尧的功德,而它的表现形式则是“击石拊石”,是“凤凰来仪,百兽率舞”,可见它原来也是氏族社会中的原始舞蹈。

舜楽『大韶』、略して『韶』は、六楽の中で最も有名な作品で、孔子は春秋末期にこれを見たことがあると言われています。伝説によれば、この楽舞の創作者は片足の怪獣「夔」であり、その内容は舜帝が尭の功徳を継承し発揚することを讃えるもので、表現形式は「石を打ち、石を叩く」ものであり、「鳳凰が来て、百獣が舞う」とされています。これからも、元々は氏族社会における原始的な舞踊であったことがわかります。

周乐《大武》,是武王伐纣胜利后由周公创编的,内容就是表现武王克商的丰功伟业。据春秋时孔子所见,这个乐舞开始先有一段长长的鼓声作引子,舞者(战士)持兵器屹立待命。接着是六段舞蹈:第一段舞队由北边上场,这是描写出兵的情形,第二段表现灭了商朝,第三段继续向南进军,第四段表现平定南部边疆,第五段舞队分列,表示周公、召公的分疆治理,第六段舞队重新集合,列队向武王致敬。舞蹈虽然是用的象征性手法,并不象舞剧那样描绘人物和矛盾过程,但无疑这是一部表现当时重大事件的叙事性舞蹈作品。

周楽『大武』は、武王が紂を討伐した後に周公によって創作されたもので、その内容は武王が商を克服した偉大な業績を表現しています。春秋時代の孔子が見たところによれば、この楽舞は最初に長い鼓の音で始まり、舞者(戦士)が武器を持って立ち待機します。続いて6段階の舞が行われます:第1段の舞隊は北から登場し、出兵の様子を描写します。第2段は商朝を滅ぼす様子を表現し、第3段は南へ進軍する様子を続けます。第4段は南部辺境を平定する様子を表し、第5段では舞隊が分かれ、周公と召公の分疆治政を示します。第6段では舞隊が再び集合し、武王に敬意を表して整列します。この舞踊は象徴的な手法を用いており、舞劇のように人物や矛盾の過程を描写するものではありませんが、当時の重大な事件を表現した叙事的な舞踊作品であることは間違いありません。

周公将这六部乐舞加以集中、整理、规范成一个整体,作为国家的礼制,用于祭祀、庆典等活动。并对它们的演出仪制、祭祀对象、服饰道具、乐歌宫调和舞者身份、演出场合都作了明确的规定。

周公はこの六部の楽舞を集約し、整理し、規範化して1個の全体として国家の礼制とし、祭祀や祝典などの活動に用いました。また、それらの演出の仪制、祭祀の対象、衣装や道具、楽歌の調子や舞者の身分、演出の場面についても明確な規定を設けました。

六大舞又分为“文”、“武”两类,前四舞属文舞,《大武》等属武舞。文舞持龠(似笛的管乐器)翟(鸟羽)而舞,故又称龠翟舞:武舞持干(盾牌)戚(斧钺)而舞,又称干戚舞。两类乐舞的划分,与舞蹈的内容形式有一定联系,但据后世儒家考证,主要是受祭的帝王得天下的手段差异,所谓“以文德得天下的作文舞,以武功得天下的作武舞”,这一定例一直贯穿到以后历朝历代的封建帝制。

六大舞は「文」と「武」の2種のカテゴリーに分けられ、前の4個の舞は文舞に属し、『大武』などは武舞に属します。文舞は龠(笛のような管楽器)と翟(鳥の羽)を持って舞うため、龠翟舞とも呼ばれます。武舞は干(盾)と戚(斧)を持って舞うため、干戚舞とも呼ばれます。この2種の楽舞の区分は、舞の内容や形式に一定の関連がありますが、後世の儒家の考証によれば、主に祭を受ける帝王が天下を得る手段の違いに起因しています。いわゆる「文によって天下を得る文舞、武によって天下を得る武舞」というこの原則は、以後の歴代の封建帝制にわたって一貫しています。

中国の雅楽

中国的雅乐是古代帝王祭祀、朝会等大典所用的音乐,别于民间的音乐。是祭祀乐、丹陛大乐、典礼音乐等。那么中国的雅乐在哪里呢?我就来回答您的问题。

中国の雅楽は、古代の帝王が祭祀や朝会などの大典で使用した音楽であり、民間の音楽とは異なります。祭祀音楽、丹陛大乐、典礼音楽などがあります。それでは、中国の雅楽はどこにあるのでしょうか?あなたの質問にお答えします。

其演奏形式和所用乐器都有严格的规定,中国雅乐乐器使用中国最传统的“八音”《周礼·春官·大师》:“皆播之以八音:金、石、土、革、丝、木、匏、竹。” 郑玄 注:“金,钟鎛也;石,磬也;土,埙也;革,鼓鼗也;丝,琴瑟也;木,柷敔也;匏,笙也;竹,管箫也。”

その演奏形式と使用される楽器には厳格な規定があり、中国の雅楽楽器は中国最古の「八音」を使用します。《周礼·春官·大师》には「皆播之以八音:金、石、土、革、丝、木、匏、竹」とあります。郑玄は注釈しています:「金は鐘と鎛である;石は磬(チャイム)である;土は埙である;革は鼓と鼗である;丝は琴と瑟である;木は柷と敔である;匏は笙である;竹は管と箫である。」

雅乐就在祭孔乐舞中。几十年前拍的山东孔府祭祀电影资料,至今保存,是很珍贵的。湖南浏阳礼乐也保存下来,也是很宝贵的。在大量祭祀孔子的地志等资料中也有不少文武舞蹈资料;明代朱载堉的雅乐舞谱最为宝贵,至今仍可按谱复活。如《灵星小舞谱》、《旋宫合乐谱》、《六代小舞谱》、《小舞乡乐谱》、《二佾缀兆图》

雅楽は孔子を祭る楽舞の中にあります。数十年前に撮影された山東孔府の祭祀映画資料は、今でも保存されており、非常に貴重です。湖南の浏阳礼乐も保存されており、これも非常に貴重です。孔子に関する多くの祭祀の地誌などの資料の中にも、文武舞踊の資料がたくさんあります;明代の朱载堉の雅楽舞譜は最も貴重で、今でも譜に従って復活させることができます。例えば、《灵星小舞谱》、《旋宫合乐谱》、《六代小舞谱》、《小舞乡乐谱》、《二佾缀兆图》などです。

※孔子と礼楽
論語・季氏 第十六の2 天下有道
16‧2 孔子曰:「天下有道,則禮樂征伐自天子出;天下無道,則禮樂征伐自諸侯出。自諸侯出,蓋十世希不失矣;自大夫出,五世希不失矣;陪臣執國命,三世希不失矣。天下有道,則政不在大夫。天下有道,則庶人不議。」
原文:https://fanyi.cool/14194.html
日本語訳の参考:https://classicstudies.jimdofree.com/%E8%AB%96%E8%AA%9E/%E5%AD%A3%E6%B0%8F%E7%AC%AC%E5%8D%81%E5%85%AD/2%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E6%9C%89%E9%81%93/

他の参考:本当は恐ろしい儒教
https://note.com/zenika/n/neea23abe930e
一部抜粋
第一章 春秋戦国の中国で、孔子が差別的思想を生んだわけ
戦国の世に孔子が抱いた。
過激な妄想とは
~略~
春秋時代、周王室は衰えたとはいえ、権威はまだ維持され、王にかつて栄光の時代があったことを思わせていた。春秋時代、周王室の血を受け継ぐ諸侯の合言葉は、「尊王攘夷」である。日本では幕末に「尊王攘夷」のスローガンが吹き荒れたが、もとは春秋の「尊王攘夷」に由来する。
春秋時代の「尊王攘夷」とは、衰えた周王室を支え 侵攻してくる異民族を打ち払おうという思想だ。

二、河北承德离宫乐是清代传下来的宫廷乐,总也包含着一些明代曲调。明清中和韶乐,《河北器乐集成》不是有收录乐曲吗?

二、河北承德離宮楽は清代に伝わる宮廷音楽で、明代の曲調もいくつか含まれています。明清中和の韶楽、『河北器乐集成』には楽曲が収録されているのではありませんか?

三、明代宫廷典礼所用乐曲,现在确知的是<朝天子>等曲调。

三、明代の宮廷儀礼で使用された楽曲は、現在確実に知られているのは<朝天子>などの曲調です。

查询已经出版的《中国民族民间器乐曲集成》各省卷本,一个很有意思的现象展现在我们面前:相当数量的省卷中都有以上所列的部分或全部曲牌,它们还活在民间。诸如[朝天子][水龙吟][醉太平][清江引]等乐曲在各地传承与历史上官方礼仪用乐的相通性决非偶然,这与承继这些乐曲的官属专业乐人在乐籍制度解体后转而将其用于民间礼俗之中不无关系,这是历史上官方礼乐体系中用乐积淀在民间的结果。一曲《朝天子》,传承六百年。从《朝天子》管窥礼乐传统的一致性存在 项阳、张咏春文。文中将云南禄劝土司府藏本中的《朝天子》与乾隆《律吕正义后编》中导迎大乐《朝天子》,乃至其后多个版本和当下活体存在的十多个省市的同名乐曲相比较,看到国家礼乐层面的一致性存在。云南禄劝、武定土司府所存、被专家鉴定为“明初用纸”的谱本上至少有《朝天子》、《将军令》、《小将军》、《水龙吟》、《沽美酒》等几首曲名与明代礼仪乐曲相同。以上几首是明代皇宫官府中必用的礼仪乐曲,有非常重要的意义,这是当下所见最早的明代礼仪乐在地方官府中所用的谱本

中国民族民间器乐曲集成》の各省巻本がすでに出版されていることを調査すると、非常に興味深い現象が私たちの前に現れます:相当数の省巻には、上記に挙げた部分または全部の曲牌が含まれており、それらは今も民間に生き続けています。例えば、[朝天子][水龍吟][醉太平][清江引]などの楽曲は、各地で伝承されており、歴史的に官僚の礼仪音楽との関連性が偶然ではないことがわかります。これは、これらの楽曲を継承している官属の専門音楽家が楽籍制度の崩壊後に民間の礼俗に転用したことと無関係ではなく、これは歴史的に公式な礼楽体系が民間に蓄積された結果です。一曲《朝天子》は、600年の伝承があります。《朝天子》を通じて礼楽伝統の一貫性が存在することがわかります。項陽、張咏春の文では、云南禄劝土司府の蔵本にある《朝天子》と乾隆の《律吕正义後編》の導迎大楽《朝天子》、さらにはその後の複数のバージョンと現在生きている十数の省市の同名楽曲を比較し、国家の礼楽のレベルでの一貫性を確認しています。云南禄劝、武定土司府に保存されている、専門家によって「明朝初期に使用された紙」と鑑定された譜本には、少なくとも《朝天子》、《将军令》、《小将军》、《水龙吟》、《沽美酒》などの曲名があり、明代の礼儀音楽と同じです。これらの曲は明代の皇宮官府で必ず使用される礼儀音楽であり、非常に重要な意味を持っています。これは現在見られる最も古い明代の礼儀音楽が地方官府で使用されていた譜本です。

汉代雅乐舞蹈(漢代の雅楽舞踊)

汉代创作了一些具有民间风格的雅乐舞蹈。汉高祖曾下今天下立灵星祠,祭祀灵星成为全国性祭祀活动。灵星是天田星,主谷,又称后稷神。祭祀时跳灵星舞。灵星舞大概起源于民间的农作舞,又用于祭祀,以后升格为雅乐舞蹈。舞者为童女16人,舞蹈动作是教民种田的劳动过程,模拟农业劳动,有除草、耕种、耘田、驱雀、舂簸等动作。

漢代には民間のスタイルを持つ雅楽舞踊がいくつか創作されました。漢の高祖は天下に灵星祠を建立し、灵星を祭祀することが全国的な祭祀活動となりました。灵星は天田星で、谷(穀物)を主宰し、后稷神とも呼ばれます。祭祀の際には灵星舞が踊られました。灵星舞はおそらく民間の農作舞に起源を持ち、祭祀に用いられた後、雅楽舞踊に昇格しました。舞者は16人の童女で、舞踊の動作は民衆に農作を教える労働過程を模倣し、農業労働を再現し、除草、耕作、田の耕し、雀を追い払うこと、つきこみなどの動作が含まれています。

※后稷
后稷は、周王朝の始祖であり、姓を姬、名は弃、母は姜嫄という名の女性で、稷山(現在の山西省稷山県)で生まれました。稷王(ほかに作稷神と呼ばれる)、農神、耕神、穀物神として崇められる。農耕の始祖であり穀物の神。
出典:https://baike.baidu.com/item/%E5%90%8E%E7%A8%B7/918142

《巴渝舞》,本是一种民间舞蹈,后成为宫廷舞蹈,以后又演变为雅乐舞蹈。 巴渝舞和灵星带同属群舞。

「巴渝舞」はもともと民間舞踊であり、その後宮廷舞踊となり、さらに雅楽舞踊に発展しました。巴渝舞と灵星带は共に群舞に属します。

汉代编排有序的群舞,注重队形的整齐,动作的规范,整体感强。很少运用多层次的队势、参差不齐的舞姿、此起彼伏的舞动、丰富多变的场面来表现舞蹈的内容、美感和意境,大多是用 大齐舞 的编导手法来表现群舞场面,在整齐、统一、协调的律动中,使人感受到群体的力量和美感。汉代群舞保存了上古舞蹈质朴无华的风貌,具有统一、协调的特征。

漢代の編成された群舞は、隊形の整然さ、動作の規範、全体感の強さを重視しています。多層的な隊形や不揃いな舞姿、上下する動き、豊かで多様な場面を用いて舞踊の内容や美感、意境を表現することはほとんどなく、主に大齐舞の編成手法を用いて群舞の場面を表現しています。整然とした統一感のあるリズムの中で、群体の力と美を感じさせます。漢代の群舞は、上古の舞踊の質朴で華やかさのない風貌を保存しており、統一性と調和の特性を持っています。

华夏雅乐未失传(壮大な夏の雅乐は失われていない)

很多人认为华夏(汉族)雅乐已经失传,这是大谬不然。

多くの人々は华夏(漢族)の雅楽が失われたと考えていますが、それは大きな誤りです。

请看这一段:“日本的雅乐多是输入的外来音乐,朝鲜的雅乐经过长久年代也已变形,不过日本在宫廷及神宫中,保存下了当时整理成为日本式的雅乐,而且原封不动地保留了下来,可以说是非常罕见的。它之所以历久不衰,与历代统治者的重视和提倡以及日本民族的传统是分不开的。”这一段文字是不符合实际的。首先我们要明确,中国雅乐是祭祀天地、祖先与孔子的乐舞,是丹陛大乐等宫廷典礼音乐,还是文武之舞。文舞舞具,舞人手持龠(乐器),翟(锦鸡尾);武舞舞时手持用干戚,即盾牌与斧头。《二十四史》中多有记载。而日本雅乐,是本土音乐与唐乐、高丽乐等的混合体,传去的唐乐又多是宴会之乐,在中国本土实际是燕乐(燕是宴的通假字)。所以日本雅乐连名字都搞错了!

この段落を見てください:「日本の雅楽は外来音楽の1種であり、朝鮮の雅楽は長い年月を経て変形していますが、日本では宮廷や神社で当時の日本式の雅楽が保存され、原封不動に保たれています。非常に珍しいと言えます。それが長年衰えない理由は、歴代の支配者の重視と奨励、そして日本民族の伝統と切り離せません。」この段落の内容は実際とは異なります。まず、中国の雅楽は天地、祖先、孔子を祭るための楽舞であり、丹陛大楽などの宮廷儀式音楽や文武の舞です。文舞では舞者が楽器の龠(楽器)や翟(锦鸡尾)を持ちます;武舞では干戚、つまり盾と斧を持って舞います。《二十四史》には多くの記録があります。一方、※日本の雅楽は、土着の音楽と唐楽、高麗楽などの混合体であり、伝わった唐楽は多くが宴会の音楽で、中国本土では燕楽(燕は宴の同義語)です。したがって、日本の雅楽は名前すら間違っています!

※天地とは?
出典:夏、殷、周上古三代の天命観
https://note.com/zenika/n/n1129141eb839
上古三代の中国の先祖達は皆、神を信じていました。彼らが信じる神々の中には、自然神もあれば、祖先神もあり、そして、これらの神々の中に、すべてを支配する全能でこの上ない最高の神である、至上神の存在もありました。殷、周の人々は、この至上神に対する呼び方が異なり、殷の人は「帝」、あるいは「上帝」と呼び、周の多くの人々は「天」と呼んでいました。呼び方が異なっても、「帝」、「上帝」と「天」との間の、実質的な内容は同じで、すべて至上神のことを指しています。

中国の雅楽は天地、祖先、孔子を祭るための楽舞
上記の条件に合致する楽舞は日本に伝わっている
例:昭和天皇の即位を祝って舞われた「萬歳楽」とは?明君の世に現われるという鳳凰の舞
出典:https://omatsurijapan.com/blog/bugaku-manzairaku/
>抜粋
「萬歳楽」は隋の煬帝の作だといわれ「煬帝萬歳楽」とも呼ばれますが、実は作者には諸説あります。 例えばその一つが、唐の時代に女帝・則天武后(そくてんぶこう)の飼っていた九官鳥が「聖王万歳(賢王万歳)」とさえずったため、その声が音楽、姿が舞となったという鳥歌萬歳説です。また、1233年に成立した雅楽書「教訓抄」によると、用明天皇の作ともいわれています。

※日本という国号を付けたのは唐代に「武周」を建立した武则天、つまり日本建国の祖先は武则天、周の文王と后稷になります。
出典:41.武后の案で、倭國は日本國に改めました
https://note.com/zenika/n/n7fbdd889a846
『史記』巻一「五帝本紀」:"武后改倭國為日本國。"
原文:https://ctext.org/wiki.pl?if=en&chapter=693189
史記卷二 夏本紀第二:"又倭國,武皇后改曰日本國,在百濟南,隔海依島而居,凡百餘小國。"
原文:http://www.guoxue123.com/shibu/0101/00sj/002.htm

鸟歌万岁乐 唐代の武则天が作った
出典:https://www.gushiwen.cn/shiwenv.aspx?id=69034bbccf40
>抜粋
皇万岁,帝万岁,皇帝万万岁。一人有庆,万物育,天地位
朝万邦,辑五瑞。九夷奉琛,八蛮献贝。皇帝坐明堂,开天府。
堂上钧天喧雅部,堂下八伎龟兹舞。振金铎,考大鼓。
师子郎,五方布。两阶声容一时举,何容容兮何与与。
可怜万岁祝姓武,人在房州我真主。

※日本の漫才(万歳)の詳細については下記の記事を参照
https://note.com/zenika/n/nccf7fdd6989c


宮廷舞

出典:https://www.newton.com.tw/wiki/%E5%AE%AE%E5%BB%B7%E8%88%9E

夏朝宮廷舞

公元前21世紀,啟建立了中國歷史上第一個王朝:夏朝。那時的人們是相信鬼神的,因此國家無論大事小情,都要占卜問卦,進行祭祀活動,是故當時的舞蹈多在祭祀和慶功時表演。傳說啟喜好歌舞,根據《竹書紀年》記載,他曾下令舞《九韶》。雖然舞蹈的內容今天我們已經無法知曉了,但或可猜測是與祭祀有關。《山海經·大荒西經》中還有一則記載,說啟去到天帝處,從天上得到《九辯》和《九歌》兩部樂舞作品,帶回人間,於是他又製成《九韶》。到了夏朝末帝夏桀時,其宮殿中竟有女樂三萬人,淫樂之聲震響全城(《管子·輕重甲》)。其樂舞崇尚奢華,而其本人耽於淫樂,終至國亡。

紀元前21世紀、啟は中国の歴史上初めての王朝、夏王朝を建立しました。その時代の人々は鬼神を信じていたため、国家の大小にかかわらず、占卜を行い、祭祀活動を行っていました。したがって、その時代の舞踊は主に祭祀や祝賀の際に演じられました。伝説によれば、啟は歌舞を好み、『竹書紀年』の記録によると、彼は『九韶』の舞を命じたと言われています。舞踊の内容は今日では知ることができませんが、祭祀に関連していると推測されます。『山海經·大荒西經』には、啟が天帝のもとに行き、天から『九辯』と『九歌』の2個の楽舞作品を得て、人間界に持ち帰り、それで彼は『九韶』を製成したという記録もあります。夏王朝の末帝夏桀の時代には、彼の宮殿にはなんと3万人の女楽がいて、淫楽の声が全城に響き渡った(『管子·輕重甲』)。その音楽と舞踊は贅沢を重んじ、彼自身は淫楽に耽り、最終的には国が滅びました。

商朝宮廷舞

取代夏朝的殷商與夏一樣,尊侍鬼神。凡祭祀等“禮”舉行時要伴以歌舞。商人用音樂與神鬼對話,將歌唱給神鬼聽。樂舞成為人們進獻、侍奉、娛樂神鬼,使人神溝通的重要手段。有時商王還親自舞蹈,比如殷墟甲骨文中就記載了商王為祭神而表演的舞蹈《羽舞》。

夏朝に代わって殷商は、夏と同様に鬼神を尊びました。祭祀などの「禮」が行われる際には歌舞を伴う必要がありました。商人は音楽を用いて神鬼と対話し、神鬼に歌を聴かせました。楽舞は人々が神鬼に奉納し、世話し、楽しませるための重要な手段となり、人と神のコミュニケーションを促進しました。時には商王が自ら舞踊を披露することもあり、例えば殷墟の甲骨文には商王が神を祭るために演じた舞踊《羽舞》が記されています

周朝宮廷舞

商朝滅亡後,隨之建立的西周王室制定了一整套詳細的禮樂制度,標誌著中國宮廷舞的正式確立。“禮”指祭祀、朝饗等儀式,“樂”指伴隨“禮”進行的樂舞。周代的禮樂制度有兩條基本內容,一是規定等級,二是規定伴隨禮的樂舞基本是雅樂。

商朝の滅亡後、続いて建立された西周王室は、1個に纏めた詳細な礼楽制度を制定し、中国の宮廷舞の正式な確立を示しました。「禮」は祭祀や朝饗などの儀式を指し、「樂」は「禮」に伴って行われる楽舞を指します。周代の禮樂制度には2個の基本的な内容があります。1個は階級を規定すること、もう1個は禮に伴う楽舞が基本的に雅楽であることです。

根據周代禮樂制,不同場合,不同身份的人,不但禮儀有別,所用的音樂也不一樣,所用樂器也不同,等級十分森嚴。據《周禮·春官》記載:如祭祀天神,“乃奏黃鐘,歌大呂,舞《雲門》”。祭地時,“乃奏太簇,歌應鐘,舞《鹹池》”。祭山川,“奏蕤賓,歌函鐘,舞《大夏》”。祀四望時,要“奏姑洗、歌南呂”,舞《九韶》。享先妣時,要“奏夷則、歌小呂”,舞《大濩》。享先祖時,要“奏無射、歌夾鐘”,舞《大武》。兩君相見,用大雅《文王》;諸侯設宴招待來訪使臣用小雅鹿鳴》、《四度》、《皇皇者華》。又如天子祭祖用的《雍頌》,士大夫則不能用。在周雅樂中,器樂、舞蹈、歌唱往往分別進行,並不完全合在一起,舞蹈由與笛相似的管和歌唱配合,歌唱由彈奏樂器瑟或簧管樂器笙伴奏,器樂即所謂“金奏”,是鐘、鼓、磬的合奏。“金奏”規格很高,只有天子、諸侯可用。大夫和士只能單用鼓。當時可以看到“六代樂舞”,即黃帝時的《雲門》、堯時的《鹹池》、舜時的《九韶》、禹時的《大夏》、商時的《大濩》、周時的《大武》。

周代の禮樂制度によれば、異なる場面や異なる身分の人々は、禮儀だけでなく、使用する音楽や楽器も異なり、等級は非常に厳格でした。《周礼・春官》の記録によると:天神を祭祀する際には「黄鐘を奏し、大呂を歌い、《雲門》を舞う」ように。地を祭る時には「太簇を奏し、應鐘を歌い、《鹹池》を舞う」となります。山川を祭る際には「蕤賓を奏し、函鐘を歌い、《大夏》を舞う」となります。四望を祭る時には「姑洗を奏し、南呂を歌い、《九韶》を舞う」となります。先妣を享受する際には「夷則を奏し、小呂を歌い、《大濩》を舞う」となります。先祖を享受する際には「無射を奏し、夹鐘を歌い、《大武》を舞う」となります。2人の君が出会う時には大雅《文王》を用いる;諸侯が宴を開いて来訪した使臣をもてなす際には小雅《鹿鳴》、《四度》、《皇皇者華》を用います。また、天子が祖先を祭る際に用いる《雍頌》は士大夫は使用できません。周雅楽の中では、器楽、舞踊、歌唱はしばしば別々に行われ、完全に一緒になることはありません。舞踊は笛に似た管楽器と歌唱が組み合わされ、歌唱は楽器の瑟や簧管楽器の笙の伴奏を受けます。器楽は「金奏」と呼ばれ、鐘、鼓、磬の合奏です。「金奏」の規格は非常に高く、天子や諸侯のみが使用できます。大夫や士は鼓のみを使用することができます。当時は「六代楽舞」を見ることができ、すなわち黄帝の時代の《雲門》、堯の時代の《鹹池》、舜の時代の《九韶》、禹の時代の《大夏》、商の時代の《大濩》、周の時代の《大武》がありました。

周代特別重視禮樂的作用,官方制定的大舞、小舞均屬宮廷舞,樂舞機構大樂司伎達1500多人。漢代設樂府,專事收集整理民間樂舞供宮廷享用。隋唐宮廷舞鼎盛,官辦的樂舞機構有教坊司、梨園院、太常寺等,集中培訓大批藝人,並創造出七部樂、九部樂、十部樂等大型宮廷樂舞。宋元時代有專職的宮廷舞隊,在藝術上也有可觀的水平。世界許多國家歷史上也都有宮廷舞,如歐洲的芭蕾、小步舞,在一段時間中被宮廷壟斷。又如日本的雅樂、朝鮮的鄉樂等。

周代は禮樂の作用を特に重視し、官方に制定された大舞や小舞は宮廷舞に属していました。楽舞機関の大楽司伎には1500人以上が在籍していました。漢代には楽府が設立され、民間の楽舞を収集整理し、宮廷で楽しむために供されました。隋や唐時代の宮廷舞は盛況を極め、官営の楽舞機関には教坊司、梨園院、太常寺などがあり、大量の芸人を集中して育成し、七部楽、九部楽、十部楽などの大型宮廷楽舞を創造しました。宋元時代には専任の宮廷舞隊が存在し、芸術的にも目覚ましい水準を持っていました。世界の多くの国々の歴史にも宮廷舞が存在し、例えばヨーロッパのバレエや小歩舞は、一時期宮廷によって独占されていました。また、日本の雅楽や朝鮮の郷楽などもあります。

※芸人に関しては下記の漫才(万歳)の記事を参照
https://note.com/zenika/n/nccf7fdd6989c

周代的宮廷舞主要在以下場合表演:

一是用於祭祀。《周禮·地官》記載:“舞師的任務包括:教習兵舞,在祭祀山川時帶領人們舞蹈;教習帗舞,在祭祀社稷時帶領人們舞蹈;教習羽舞,在祭祀四方之時帶領人們舞蹈;教習皇舞,在大旱祈雨時帶領人們舞蹈。”“帗舞者,全羽。羽舞者,析羽。皇舞者,以羽冒覆頭上,衣飾翡翠之羽。”

1は祭祀に用いられる。《周禮·地官》には次のように記載されている:「舞師の任務には次のものが含まれる:兵舞を教え、山川を祭祀する時に人々に舞を指揮すること;帗舞を教え、社稷を祭祀する時に人々に舞を指揮すること;羽舞を教え、四方を祭祀する時に人々に舞を指揮すること;皇舞を教え、大旱の時に雨を祈るために人々に舞を指揮すること。」「帗舞者は全羽である。羽舞者は羽を析く。皇舞者は羽で頭上を覆い、衣装は翡翠の羽である。」

二是用於巫禮。《周禮·地官》記載:“司巫掌管群巫,如果國內發生大旱,則帶領群巫跳舞求雨。此外,在祭祀百物之神時,跳兵舞、帗舞

2は巫禮に用いられる。《周禮·地官》には次のように記載されている:「司巫は巫の群れを管理し、国内で大旱魃が発生した場合、巫の群れを率いて雨を求めて踊る。また、百物の神を祭祀する時には、兵舞や帗舞を踊る。」

三是用於驅疫

3は疫病を駆除するために使用されます。

※これは傩と混ざっている。
傩舞
https://baike.baidu.com/item/%E5%82%A9%E8%88%9E/1984729

四是用於教育。《周禮·地官》記載:“樂師掌管國學之政,來教育貴族子弟學習小舞(指年幼時學習的舞蹈)。小舞有《帗舞》、《羽舞》、《皇舞》、《旄舞》、《乾舞》和《人舞》。通過學習樂舞,使這些貴族子弟可以舞《雲門》、《鹹池》、《大韶》、《大夏》、《大濩》和《大武》。音律和諧,舞蹈應節,就可以用來祭祀天神、人鬼、地祇,這樣邦國和睦,萬民和諧,賓客安撫,遠人臣服,萬物興盛。

4は教育に用いられる。《周禮·地官》には次のように記載されている:「樂師は國學の政を掌握し、貴族の子弟に小舞(幼少期に学ぶ舞踊)を学習するよう教える。小舞には《帗舞》、《羽舞》、《皇舞》、《旄舞》、《乾舞》および《人舞》がある。楽舞を學習することを通過して、これらの貴族の子弟は《雲門》、《鹹池》、《大韶》、《大夏》、《大濩》および《大武》を舞うことができる。音律が調和し、舞踊が季節に応じて行われると、天神、人鬼、地祇を祭祀するために用いることができ、これにより国が和睦し、万民が調和し、賓客が安らぎ、遠方の者が臣下として服従し、萬物が繁栄する。」

五是用於宴享。當時表演的舞蹈有弓矢舞等。西周時的宮廷舞在殷商樂舞的基礎上,在“以德配天”的觀念下,將宮廷舞向禮儀性上發展,而弱化了它的娛樂功能。舞蹈主體是雅樂舞,其特徵就是肅穆、崇高。比如,周天子冬至日和夏至日祭祀時,當天子登壇禱告時,舞隊獻上《雲門》和《鹹池》,舞者疾徐適度、進退有序、雍容有加,凸顯莊重神聖、中庸寧靜的特點。

5は宴享に用いられた。当時の舞踊には弓矢舞などがあった。西周の宮廷舞は殷商の楽舞を基に、「徳を以て天に配す」という観念の下、宮廷舞を禮儀性に発展させ、娯楽機能を弱めた。舞踊の主体は雅楽舞で、その特徴は厳粛で崇高である。例えば、周の天子が冬至と夏至の日に祭祀を行う際、天子が壇に登って禱告すると、舞隊は《雲門》と《鹹池》を捧げ、舞者は速さと遅さが適度で、進退が秩序正しく、優雅さを加え、荘厳で神聖、中庸で静かな特徴を際立たせた。

※以德配天
天と徳を一致させる。徳のある者だけが運命を受け取ることができる
https://www.newton.com.tw/wiki/%E4%BB%A5%E5%BE%B7%E9%85%8D%E5%A4%A9/431185

《左傳》記敘了吳國公子季札在魯國看雅舞時的感慨。當他看見跳《象簫》、《南龠》舞,說:“美哉,猶有憾!”看見跳《大武》舞,說:“美哉周之盛也,其若此乎!”當他看見跳《韶濩》舞時,說:“聖人之弘也,而猶有慚德,聖人之難也!”看見跳《大夏》舞,說:“美哉!勤而不德。非禹,其誰能修之!”看見跳《韶箾》舞,他說:“德至矣哉!大矣,如天之無不幬也,如地之無不載也!雖甚盛德,其蔑以加於此矣。觀止矣!若有他樂,吾不敢請已!”從中可見,季札評價甚高的《韶箾》舞,是因為“德”到達了極點,其寬厚仁大,沒有什麼樂舞可以超過它。

『左傳』は、呉国の公子季札が魯国で雅舞を見たときの感慨を記述しています。彼は『象簫』や『南楽』の舞を見て、こう言いました:「美しい、でもなお残念だ!」彼は『大武』の舞を見て、こう言いました:「美しい、周の盛大さだ、これがそのようなものか!」彼は『韶濩』の舞を見たとき、こう言いました:「聖人の弘さである、でもなお恥じる徳がある、聖人の難しさだ!」彼は『大夏』の舞を見て、こう言いました:「美しい!勤勉だが徳がない。禹でなければ、誰がこれを修めることができるのか!」彼は『韶箾』の舞を見て、こう言いました:「徳が至った!大きい、天の他でもない幬のように、地の他でもない幬のように!たとえ非常に盛んな徳であっても、その蔑をこれに加えるものはない。観るに足る!他の音楽があれば、私はそれを求めることを恐れない!」ここから、季札が非常に高く評価した『韶箾』の舞は、「徳」が極みに達し、その寛大さと仁愛があり、他の楽舞がこれを超えることはできないことがわかります。

※韶箾
舜の音楽の名前であり、《箫韶》を指す、『箾』は『箫』である。「韶」を音楽と箫の名にかぶせ、箫の字は上にも下にも耳があります
https://baike.baidu.com/item/%E9%9F%B6%E7%AE%BE/5226117

※勤非禹,其誰能修之!
やたらと持ち上げる。
他の例として、史记·五帝本纪より「於是禹乃兴九招之乐,致异物,皇来翔。天下明德皆自虞(禹)帝始。」と、天下の明徳は禹から始まったという記述もある。
出典:https://baike.baidu.com/item/%E4%BA%94%E5%B8%9D%E6%9C%AC%E7%BA%AA/2390002
他の確認用:https://www.gushiji.org/guwen/88

※「徳」についての参考資料
https://note.com/zenika/n/n1007b6091680


春秋戰國時期

到了春秋戰國時期,隨著周王室權力的衰落,曾經建立起來的禮樂制度也開始崩潰。一些諸侯開始越禮使用樂舞。比如《論語》中記載:“孔子謂季氏八佾舞於庭,是可忍也,孰不可忍也。僭於上也。”與此同時,被指斥為“鄭衛之音”的“新樂”(倡優女樂)也進入了宮廷,使原先的雅樂受到民間俗樂的影響。為此,孔子發出了“惡紫之奪朱,惡鄭聲之亂雅樂”的感慨。從此,民間俗樂舞開始進入宮廷,並逐漸與之融合。

春秋戦国時代に入ると、周王室の権力が衰退するにつれて、かつて確立されていた禮樂制度も崩壊し始めました。一部の諸侯は禮を越えて楽舞を使用し始めました。例えば、『論語』の中に次のような記載があります:「孔子は季氏の8佾が庭で舞うのを見て、これは我慢できるが、誰もが我慢できない。上に対して僭越である。」同時に、「鄭衛の音」として非難された「新樂」(倡優女樂)が宮廷に進入してきて、元来の雅楽は民間の俗楽の影響を受けるようになりました。このため、孔子は「朱を奪うを悪の紫とし、悪の鄭の聲が雅楽を乱す」という感慨を表しました。これ以降、民間の俗楽舞が宮廷に入り、次第に融合していきました。

※论语·八佾
https://baike.baidu.com/item/%E8%AE%BA%E8%AF%AD%C2%B7%E5%85%AB%E4%BD%BE/3509043

※佾
古代の音楽と踊りの行列。 八佾(8行8列、合計64人)。
https://baike.baidu.com/item/%E4%BD%BE

此外,這時的宮廷舞的娛樂功能加強,舞蹈更加輕盈、飄逸、柔媚,使其更具美感,為後世宮廷舞蹈的發展奠定了基礎。當時比較流行的是細腰長袖之舞。我們從以下的記述中可以一窺端倪。

さらに、この時期の宮廷舞の娯楽機能が強化され、舞踊はより軽やかで、漂うように、柔らかくなり、美しさが増し、後世の宮廷舞の発展の基礎を築きました。当時流行していたのは、細い腰と長い袖の舞でした。以下の記述の中からその一端を垣間見ることができます。

楚辭》曰:“二八齊容鄭舞,袵若交竿撫案下。”又曰:“翾飛兮翠曾,(曾,舞也。言舞工巧似翠鳥之舉。)展詩兮會舞。”

《楚辭》が言うには:「二八人の同じ容姿が鄭舞を起こし、衣袖は交差した竿は案の下で撫でる。」また言うには:「翾飛よ翠曾し、(曾は舞である。言と舞の技が巧みで、翠鳥の動きに似ている。)詩を展開し舞を会す。」

拾遺記》云:“燕昭王即位,廣延國來獻善舞者二人,一名旋娟,一名提嫫。體輕氣馥,或行無蹤影,或積年不飢,昭王處以丹綃華幄,飲以瓀珉之膏,飴以丹泉之粟。王登崇霞之台,乃召二人徘徊翔舞,殆不自支,王以纓縷拂之,其舞一名縈塵,言其體輕,與塵相亂。次曰集羽,言其宛轉若羽毛之從風末,曲曰旋懷,言其支體纏蔓若入懷袖也。”

《拾遺記》にはこう書かれている:「燕の昭王が即位すると、廣延國から善い舞者2人が献上された、1人は旋娟、もう1人は提嫫である。彼らは体が軽く氣が香しく、時には影もなく行動し、また長年飢えを知らない、昭王は彼らを丹(赤い)の生糸で華やかな幕に住まわせ、瓀珉の膏薬を飲ませ、丹泉の粟で飴を与えた。王は崇霞の台に登り、2人を呼び寄せて徘徊して翔舞をさせたが、彼らはほとんど自分を支えきれず、王は帽带の紐で之を払った、その舞の1種は縈塵と名付けられ、体が軽く、塵と共に互いに散らばると言う。次に集羽と言う、それはあたかも若い羽毛が風の末尾に従うような回転することを言う、曲が曰う旋懷、言うにその支体は懷(胸)の袖に入るように蔓が絡みつくものである。」

唐代宮廷舞

※この時期に日本列島は侵略されて日本が生まれ伝来したが、この記事では代表曲のことしか書いてないため、実質薄っぺらい内容になっている。
参考:武后の案で、倭國は日本國に改めました
https://note.com/zenika/n/n7fbdd889a846

霓裳羽衣曲》即《霓裳羽衣舞》,是唐朝大曲中的法曲精品,唐歌舞的集大成之作。直到現在,它仍無愧於音樂舞蹈史上的一顆璀璨的明珠。唐玄宗作曲,安史之亂後失傳。在南唐時期,李煜大周后將其大部分補齊,但是金陵城破時,被李煜下令燒毀了。到了南宋年間,姜夔發現商調霓裳曲的樂譜十八段。這些片斷還保存在他的《白石道人歌曲》里。

《霓裳羽衣曲》は即ち《霓裳羽衣舞》であり、唐朝の大曲の中でも法曲の傑作で、唐の歌舞の集大成の作品です。現在でも、音楽と舞踊の歴史において輝かしい宝石であることに変わりはありません。唐の玄宗が作曲し、安史の乱の後に失われました。南唐の時代に、李煜と大周后がその大部分を補完しました、但しこれは金陵城が破壊された際に李煜の命令で焼き払われました。南宋の時代に、姜夔が商調霓裳曲の楽譜を18段を発見しました。これらの断片は彼の《白石道人歌曲》に保存されています。

霓裳羽衣曲》描寫唐玄宗嚮往神仙而去月宮見到仙女的神話,其舞、其樂、其服飾都著力描繪虛無 霓裳羽衣曲縹緲的仙境和舞姿婆娑的仙女形象,給人以身臨其境的藝術感受。白居易有《霓裳羽衣舞歌和微之》詩,對此曲的結構和舞姿作了細緻的描繪:全曲共三十六段,分散序(六段)、中序(十八段)和曲破(十二段)三部份,融歌、舞、器樂演奏為一體。全曲36段,表現了中國道教的神仙故事。

《霓裳羽衣曲》は、唐の玄宗が神仙に向かって往き、月宮で仙女に出会う神話を描写しています、その舞、その音楽、その衣装は、虛無的な霓裳羽衣曲の幻想的な仙境とゆらゆらと舞う舞姿が仙女のイメージを力強く描写し、観る人に臨場感あふれる芸術的な感覚を与えます。白居易の詩《霓裳羽衣舞歌和微之》では、この曲の構造と舞姿について詳細に描写されています:全曲は36段からなり、序(6段)、中序(18段)、曲破(12段)の3部に分かれ、歌、舞、器楽演奏が一体となっています。全曲36段は、中国の道教の神仙故事を表現しています。

《霓裳羽衣曲》在唐宮廷中倍受青睞,在盛唐時期的音樂舞蹈中占有重要的地位。玄宗親自教梨園弟子演奏,由宮女歌唱,用女藝人30人,每次10人。有關此曲的表演情景,白居易、元稹在詩中均有精彩描寫。

《霓裳羽衣曲》は唐の宮廷で非常に人気があり、唐の繁栄時代の音楽舞踊の中で重要な地位を占めていました。玄宗は自ら梨園の弟子に演奏を教え、宮女が歌唱し、女性芸人30人が参加し、毎回10人が演じました。この曲の演奏シーンについては、白居易や元稹の詩の中で素晴らしい描写があります。

全曲共36段,全曲分散序(六段)、中序(十八段)和曲破(十二段)三部分:散序為前奏曲,全是自由節奏的散板,由磬、簫、箏、笛等樂器獨奏或輪奏,不舞不歌;  中序又名拍序或歌頭,是一個慢板的抒情樂段,中間也有由慢轉快的幾次變化,按樂曲節拍邊歌邊舞;  曲破又名舞遍,是全曲高潮,以舞蹈為主,繁音急節,樂音鏗鏘,速度從散板到慢板再逐漸加快到急拍,結束時轉慢,舞而不歌。

全曲は36段から成り、全曲は散序(6段)、中序(18段)、曲破(12段)の3部分に分かれています:散序は前奏曲で、すべて自由なリズムの散板であり、磬、笛、箏、笛などの楽器による独奏または輪奏が行われ、舞も歌もありません;中序は拍序または歌頭とも呼ばれ、ゆっくりとした抒情的な楽段であり、途中でゆっくりから速くの数回の変化があり、楽曲のリズムに合わせて歌いながら踊ります;曲破は舞遍とも呼ばれ、全曲の高潮であり、舞踊が主となり、音が豊かでリズムが急速で、音楽は響き渡り、速度は散板から慢板に変わり、徐々に速くなり、最後は遅くなり、歌わず舞います。

白居易稱讚此舞的精美道:“千歌萬舞不可數,就中最愛霓裳舞。” 《霓裳羽衣曲》表明唐代大曲已有了龐大而多變的曲體,其藝術表現力顯示了唐代宮廷音樂所取得的巨大成就。其樂隊通過白居易的《霓裳羽衣歌和微之》可看出《霓裳羽衣曲》伴奏採用了磬(唐代指銅缽)、箏、簫、笛、箜篌、篳簟、笙等金石絲竹,樂聲“跳珠撼玉”般令人陶醉。

白居易はこの舞の美しさを称賛しこう言いました:「千歌萬舞は数えきれないが、その中で最も愛するのは霓裳舞である。」《霓裳羽衣曲》は、唐代の大曲がすでに巨大で多様な曲体を持っていたことを示しており、その芸術表現力は唐代の宮廷音楽が達成した巨大な成果を示しています。楽団は白居易の《霓裳羽衣歌和微之》を通じて、《霓裳羽衣曲》の伴奏に磬(唐代の銅製の缽)、箏、笛、笙、箜篌、篳簟などの金石絲竹が使用されていることがわかります、樂の聲は「珠が跳ねて玉を揺らす」ように人を魅了します。

後來,到五代十國時期,南唐後主李煜與他的皇后周后憑著自己的音樂天賦,復原了失傳200年的《霓裳羽衣曲》。是音樂史上的一大奇蹟。這是唐代宮廷著名的舞蹈,傳說是唐玄宗李隆基所作,由他寵愛的貴妃楊玉環作舞表演。原舞已失傳,現在的表演是根據文字記載和詩歌描寫意想再創作的。音樂採用古老的《長安鼓樂》作素材,舞蹈吸收了陝西和敦煌壁畫的某些舞姿造型,採取唐大曲結構形式。

その後、五代十國の時期に、南唐の後主李煜と彼の皇后周后は、自らの音楽の才能を駆使して、失われて200年の《霓裳羽衣曲》を復元しました。これは音楽史上の一大の奇跡です。これは唐代の宮廷で有名な舞踊で、伝説によれば唐の玄宗である李隆基が作曲し、彼が寵愛した貴妃の楊玉環が舞を演じました。本来の舞は失われており、現在の演技は文字記録や詩の描写に基づいて想像的に再創作されたものです。音楽は古い歴史を持つ《長安鼓樂》を素材として使用し、舞踊は陝西と敦煌の壁画のいくつかの舞姿を取り入れ、唐大曲の構造形式を採用しています。

雅乐[yǎ yuè]

出典:https://baike.baidu.com/item/%E9%9B%85%E4%B9%90/341885

雅乐,是指古代帝王祭祀天地、祖先及朝贺、宴享等大典所用的正乐。雅为正,儒家以它的音乐“中正和平”,歌词“典雅纯正”,故称之为“雅乐”。

雅楽とは、古代の帝王が天地や祖先を祭り、朝贺や宴享などの大典で使用した正楽を指します。雅は正を意味し、儒教ではその音楽が「中正和平」であり、歌詞が「典雅純正」であることから「雅楽」と呼ばれています。

※朝贺
拝賀する、(目上の人に)祝いのことばを述べる

※雅の語源
楚烏、鸒(=寒鸦)、卑居(カラスより小さく腹が白い鳥)を指す。これはカラスの一種、コクマルガラスのことである。
出典:https://www.hanyuguoxue.com/shuowen/zi-38597
楚烏也。一名鸒,一名卑居。秦謂之雅。从隹牙聲。

雅乐的体系在西周初年制定,与法律和礼仪共同构成了贵族统治的内外支柱。以后一直是东亚乐舞文化的重要组成部分。

雅楽の体系は西周初年に制定され、法律と礼儀と共に貴族支配の内外の柱を構成していました。その後、東アジアの音楽と舞踊文化の重要な構成要素であり続けました。

2018年12月,教育部认定山东大学雅乐传承基地为第一批全国普通高校中华优秀传统文化传承基地。

2018年12月、教育部は山东大学雅乐传承基地を全国普通大学の中華優秀伝統文化伝承基地の第一批として認定しました。

歴史背景

雅乐是先秦的古乐,《诗经》中的雅、颂,即是雅乐的诗歌。 [4]据说周武王建立周朝不久,就命周公姬旦制礼作乐,建立各种贵族生活中的礼仪和典礼音乐,使音乐为其王权统治服务。这一部分乐舞就是所谓的“雅乐”。它包含了远古图腾巫术等宗教活动中的乐舞及祭祀音乐,也包含西周初期的民俗音乐。

雅楽は秦以前の古代音楽で、『诗经』の雅や颂は雅楽の詩歌です。[4]周武王が周朝を建立して間もなく、周公姬旦に礼楽を作らせ、貴族の生活における様々な儀礼や典礼音楽を確立し、音楽を王権の支配に役立てるようにしました。この部分の楽舞がいわゆる「雅楽」です。古代のトーテムや呪術などの宗教活動における楽舞や祭祀音楽を含み、西周初期の民俗音楽も含まれています

周礼》所记载的西周和春秋时期的各种贵族礼仪,其中与雅乐有关的有:
郊社:祭天地神明的祭典;
尝禘:贵族祭其祖先的祭典;
食飨:政治上外交上的宴会等;包括大飨、燕礼、大射、养老等等。
乡射:乡里中官僚和地主们比射的集会;
王师大献:战争胜利时举行的凯旋庆典;
行军田役:用于军事演习性质的狩猎

『周礼』に記載されている西周と春秋時代のさまざまな貴族の礼儀の中で、雅楽に関連するものは以下の通りです:
郊社:天地の神々を祭る祭典;
尝禘:貴族が祖先を祭る祭典;
食飨:政治的および外交的な宴会など;大飨、燕礼、大射、养老など。
乡射:地方の官僚や地主たちが射撃を競う集会;
王師大献:戦争の勝利時に行われる凱旋の祭典;
行軍田役:軍事演習の性質を持つ狩猟。

作为一种统治手段—礼乐教化的工具,乐舞艺术的地位和作用也被提到了前所未有的高度。
在周朝的礼仪活动中,严格的规定不同的场面使用不同的音乐。它的主要目的是使参加典礼的贵族受到伦礼教育的感化,造成一种庄严、肃穆、安静、和谐的气氛。
各种主要典礼音乐的歌词,大都载于《诗经》中的“大雅”、“小雅”、“”;少数属于“南”。

礼楽教化ー支配手段としてーの道具と作られ、楽舞芸術の地位と役割は前例のない高みに引き上げられました。
周王朝の儀礼活動においては、異なる場面で異なる音楽を使用する厳格な規定がありました。その主な目的は、典礼に参加する貴族が倫礼教育の感化を受け、厳粛で静かで調和のとれた雰囲気を生み出すことでした。
主要な典礼音楽の歌詞は、大部分が『詩経』の「大雅」、「小雅」、「」に載せられています;少数は「南」に属しています。

随着周朝的衰落和社会的发展,民间音乐逐步代替了雅乐。贵族们对雅乐渐感厌烦而去欣赏俗乐,如《乐记》所载,魏文侯“端冕而听古乐,则唯恐卧:听郑、卫之音,则不知倦。”因此孔子曾感叹地说:“礼崩乐坏”。相匹配典礼的雅乐,开始具有浓郁的生活气息,以后逐渐变得庄严神秘而又沉闷呆板。

周朝の衰退と社会の発展に伴い、民間音楽が次第に雅楽に取って代わりました。※貴族たちは雅楽に飽き始め、俗楽を楽しむようになりました。『楽記』に記されているように、魏の文侯は「端冕して古楽を聞くと、ただ寝ることを恐くなる:郑や卫の音を聞くと、疲れを知らない」と言いました。したがって、孔子はかつて嘆きました:「礼崩れ、楽は腐った」。典礼にふさわしい雅楽は、次第に濃厚な生活感を持ち始め、その後、厳粛で神秘的かつ鈍重で堅苦しいものになっていきました。

※同じ曲を延々と聞き続けるのは苦行だからなぁ・・・

战国时期,人们将古乐视之为雅乐,这些古乐是指古代祭祀天地、祖先和朝会、宴享时使用的正统音乐。

戦国時代、人々は古楽を雅楽と見なしました。これらの古楽は、古代の天地、祖先への祭祀や朝会、宴享の際に使用される正統な音楽を指します。

※戦国時代(紀元前 476 年 - 紀元前 221 年)
春秋の後、秦が統一するまでの間。

以六代舞最著名,它们是《云门》、《咸池》、《大韶》、《大夏》、《大濩》、《大武》六部乐舞,相传分别创作于黄帝、尧、舜、禹、商、周六个时代。六代舞也称 大舞 ,是郊庙祭祀之乐。

六代舞で最も有名なのは《云门》、《咸池》、《大韶》、《大夏》、《大濩》、《大武》の六部の楽舞で、これらはそれぞれ黄帝、堯、舜、禹、商、周の6個の時代に創作されたと伝えられています。六代舞は大舞とも呼ばれ、郊庙での祭祀音楽です。

另外,周代还有六个 小舞 ,即《帔舞》、《羽舞》、《皇舞》、《旄舞》、《千舞》、《人舞》,是教育贵族子弟的舞蹈,有时也用于祭祀。大舞 和 小舞 还可分为武舞和文舞两类,执干(盾)、戚等兵器的称武舞,其余的称文舞。

そのほか、周代には6個の小舞があり、即ち《帔舞》、《羽舞》、《皇舞》、《旄舞》、《千舞》、《人舞》で、これは貴族の子弟を教育するための舞踊であり、時には祭祀にも用いられました。大舞と小舞は武舞と文舞の2種のカテゴリーに分けられ、干(盾)や戚(斧)などの武器を持つものは武舞と呼ばれ、それ以外は文舞と呼ばれます。

这些古乐一般和礼制相结合,有一定的使用规范,不同等级、不同背景的人使用不同的乐舞,不得逾制。这些乐舞由于长期和礼制紧密结合,成为典礼仪式性的乐舞,艺术上走向僵化,先秦以后不再受到人们的欢迎。

これらの古楽は一般的に礼制と結びついており、一定の使用規範があります。異なる階級や背景の人々は異なる楽舞を使用し、規制を超えることはできません。※これらの楽舞は長い間礼制と密接に結びついていたため、典礼儀式的な楽舞となり、芸術的には硬直化し、先秦以降は人々にあまり好まれなくなりました。

※変わらず保持され続けているということ。
日本の皇室はこれを守り続けている。(雅楽と日本に関する内容を見れば判る)

雅乐是用于郊庙祭祀、春秋飨射以及朝廷举行的各种典礼仪式上的乐舞,乐人多由具有一定身份的 良家子 充当,乐器虽然也有丝竹乐器,但以钟、磐为主,是金石之乐。雅乐表演时,舞人俱进俱退,整齐划一,闻鼓而进,击铙而退,文武有序,音乐和谐,气氛庄重。

雅楽は郊庙での祭祀、春秋の飨射、及び朝廷で行われる様々な典礼儀式で使用される楽舞で、楽人は多くが一定の身分を持つ良家の子が務めます。楽器には絲竹楽器もありますが、主に鐘や磐が使われ、金石の音楽です。雅楽の演奏時には、舞人は一緒に進み、一緒に退き、整然とし、鼓の音を聞いて進み、銅鑼の音で退き、文武が秩序立てられ、音楽は調和し、雰囲気は厳粛です。

楽器

中国雅乐的主要乐器是编钟编磬。两者皆分上下两层悬挂,大小不同的钟与磬,敲击可传高低乐音。

中国雅楽の主要な楽器は编钟编磬(チャイム)です。両者は上下2層に吊るされており、大きさの異なる鐘と磬を叩くことで高低の音を伝えることができます。

其他乐器包括
*特钟
*特磬
*柷:形方如斗,上广下狭,以槌击之可发声;
*敔:虎型木雕乐器,背上凹凸处,刷过就会发出乐音;
*古琴
*搏拊:发出鼓声
*鼓
*篪
*埙:像柚子般的圆形陶瓷乐器,表面有孔,口吹即可发音。
*笙
*瑟
*排箫

他の楽器には以下が含まれます:
*特鐘
*特磬
*柷:形は四角で上が広く下が狭く、槌で叩くと音が出る;
*敔:虎の形をした木彫りの楽器で、背中の凹凸をこすると音が出る;
*古琴
*搏拊:太鼓の音を出す
*鼓
*篪
*埙:柚子のような形の陶器の楽器で、表面に穴があり、口で吹くと音が出る。
*笙
*瑟
*排箫

周朝的乐器制作工艺已达到相当高的水平。1978年,在湖北省随州擂鼓墩发掘的曾侯乙墓(约葬于战国初期),出土的古乐器有一百二十四件之多,其中五十六件为一套的编钟制作尤为精美。

周朝の楽器製作技術は相当高いレベルに達していました。1978年、湖北省随州の擂鼓墩で発掘された曾侯乙墓(戦国初期頃に埋葬された)からは、124点もの古楽器が出土し、その中でも56点は一揃いの編鐘の製作が特に精巧でした。

雅楽の曲式

乐曲依序分为“序”、“破”、“急”三个乐章。序的主旋律最从容,演奏的快慢自由,没有节拍的限制。破的旋律也是从容不迫地流动著,而拍子固定是一小节八拍。急则是轻快的旋律,一小节四拍;但是依演出曲目的不同,“急”的节奏不一定快,因此也是一组乐曲中第三首的意思。

曲は「序」、「破」、「急」の3部の楽章に分かれています。序の主旋律は最もゆったりとしており、演奏の速さは自由で、拍子の制限はありません。破の旋律もゆったりと流れていますが、拍子は1小節8拍に固定されています。急は軽快な旋律で、1小節4拍です;演奏される曲目によって「急」のリズムは必ずしも速くはなく、したがって一組の曲の中で3番目の曲の意味も持っています。

伝播

韩国和日本的雅乐与古代中国所指的雅乐有所不同,不是在祭祀时用的那种规范的乐曲,而是混杂了很多娱乐民俗音乐的宫廷音乐集合。

韓国と日本の雅楽は、古代中国が指す雅楽とは異なり、祭祀の際に使用される規範的な楽曲ではなく、多くの娯楽民俗音楽が混ざった宮廷音楽の集合体です。

日本的“雅乐”起源于中国唐朝的燕乐,例如《兰陵王》《拨头》《苏莫遮》等,在唐朝属于“百戏”实际上是类似于一种助兴的曲艺型节目。对于日本雅乐,日本学界也普遍认为他来源于唐朝。

日本の「雅楽」は、中国の唐朝の燕楽に起源を持ち、『蘭陵王』や『拨头』、『苏莫遮』などが含まれ、唐朝では「百戏」に属し、実際には助興の曲芸型のプログラムに似ていました。日本の雅楽については、日本の学界でも唐朝に起源があると広く考えられています。

雅乐:塑造中华文化的礼乐之乐 抜粋

出典:https://epaper.gmw.cn/gmrb/html/2022-03/25/nw.D110000gmrb_20220325_1-13.htm

制礼作乐,治国安邦(礼を制定し楽を作る、国を治め邦を安定させる)

《礼记·乐记》有云:“乐者,天地之和也;礼者,天地之序也。和,故百物皆化;序,故群物皆别。”西周开国元勋姬旦被后世儒家尊称为周公,被誉为“制礼作乐”的圣人。周王朝施行的是分封制的政治制度,君主将土地赏赐给王室子弟,以宗法血缘为纽带,组成诸侯国或者藩地,构建中央和地方的政权格局。为了稳固统治,宣示政权正统性、合法性,周公在古代圣贤制作的“古礼”的基础上,创造了最初的“礼乐制度”——“周礼”,用“礼”的方式,制定行为规范,强化等级意识。周公在礼乐文化建设中,还对远古巫术、祭祀礼仪进行改造,把“歌、乐、舞”与“礼”紧密联系在一起,即“引礼入乐”,用来象征尊卑秩序和伦理道德。如祭礼、飨礼、射礼、燕礼、迎宾、送宾等礼仪活动中“乐”的规格、形式,均须按照“律小大之称,比终始之序,以象事行。使亲疏、贵贱、长幼、男女之理皆形见于乐”。同时,乐舞、乐曲、乐章等,也须体现“歌功、颂德”的艺术表演内涵。钟、鼓、磬等雅乐乐器须按“王,宫悬;诸侯,轩悬;卿大夫,判悬;士,特悬”的标准摆放,建构起了一个等级严明、体系完整、政教特征突出的礼乐文明。

礼记·乐记》にはこう言われている:「楽とは天地の和であり、礼とは天地の序である。和であるからこそ百物は皆感化する;序(序列)であるからこそ群物は皆別である。西周の建国元勲である姫旦は、後世の儒家によって周公と尊称され、「礼を制し、楽を作った」聖人とされている。周王朝は分封制の政治制度を施行し、君主は土地を王室の子弟に賞与し、宗法(家父長制)を以て血縁を紐帯(かなめ、中枢)と見なし、諸侯国や藩地を形成し、中央と地方の政権構造を構築した。統治を強固にし、政権の正統性と合法性を宣示するために、周公は古代の圣贤(賢聖)が作った「古礼」の基礎の上に、最初の「礼楽制度」—「周礼」を創造し、「礼」の方式を用いて、行動規範を制定し、階級意識を強化した。周公は礼楽文化の構築において、古代の巫術や祭祀礼儀を改造し、「歌、楽、舞」と「礼」を密接に結びつけ、「礼を引用して楽を入れる」ことを行い、尊卑の秩序と倫理道徳を象徴するものとした。祭礼、飨礼、射礼、燕礼、迎宾、送宾などの儀礼活動における「楽」の規格や形式は、均しく「律小大の称、これは終始の序に従い、事を行うことを象徴する。親疏、貴賤、長幼、男女の理が全て楽に形見えるようにする」に従(按照)わなけれならない。同時に、楽舞、楽曲、楽章なども「功を歌い、徳を讃える」芸術的な表現の内包を反映する必要がある。鐘、鼓、磬(チャイム)などの雅楽の楽器は「王は宫悬;諸侯は轩悬;卿大夫は判悬;士は特悬」という基準に従って配置され、階級が明確で体系が整った、政教の特徴が際立つ礼楽文明を構築した。

※宫悬
皇帝用の音楽制度の階級、宮殿の鐘や磬(チャイム)などの個数や方法を示す。
参考:https://baike.baidu.com/item/%E5%AE%AB%E6%82%AC

金石之乐(金石の楽器)

由鼓、钟、磬等乐器组成的“金石之乐”,被誉为中国古代的“交响乐团”。从周朝开始,鼓被誉为“八音”之首,制定了一套鼓乐的专门制度,专门设置“鼓人”官职,负责制鼓、击鼓等事务。鼓乐具有震撼力和神秘性,在天子、诸侯和贵族之间的重大典礼活动中,用鼓乐体现皇家的浩荡权威,赋予其特殊的政治和文化含义。“钟”也是极为重要的乐器,庙堂祭祀、婚冠丧祭、军事战争、宴请宾客等场合都必须用到“金奏”之乐。对于国礼而言,“鼎食”必有“钟鸣”,钟和鼎一样是最重要的礼器,也是国家权力的象征。“磬”由玉石制成,音色清脆明亮。编磬与编钟交相共鸣,音响“近之则钟声亮,远之则磬音彰”,可谓是金石齐鸣,金声玉振,雅乐清音,悦耳动听,开启了载入史册的“金石之乐”,在历史上延续了三千年之久。

「金石の音楽」は、鼓、鐘、磬(チャイム)などの楽器で構成され、中国古代の「交響楽団」と称されています。周朝から、鼓は「八音」の首位とされ、鼓楽の専門制度が制定され、「鼓人」という官職が設けられ、太鼓の製作や演奏などの業務を担当しました。鼓楽は震撼力と神秘性を持ち、天子、諸侯、貴族の間の重要な儀式活動において、鼓楽は皇室の壮大な権威を表現し、特別な政治的および文化的意味を与えました「鐘」も非常に重要な楽器であり、寺院の祭祀、婚礼、葬祭、軍事戦争、賓客の宴などの場面で「金奏」の音楽が必要です。国礼においては、「鼎食」には必ず「鐘鳴」が伴い、鐘は鼎と同様に最も重要な礼器であり、国家権力の象徴でもあります。「磬」は玉石で作られ、音色は清らかで明るいです。編磬と編鐘は相互に共鳴し、「近くに行けば鐘の音が明るく、遠くに行けば磬の音が際立つ」と音響し、金と石が共鳴し、金の音と玉石の振動が響き渡り、雅楽の清音が耳に心地よく、「金石の音楽」が歴史に名を刻み、3,000年の長きにわたって続いてきました。

乐舞

古人认为,“乐”与“音”不同,“音”是指没有舞蹈的表演,“乐”是融歌唱和舞蹈为一体的综合性表演,是最高级别的表演,正所谓“知音而不知乐者,众庶是也。唯君子为能知乐”。周公制礼作乐,开创了雅乐体系,乐舞表演形式也得到了迅速的发展。乐舞成为“礼治”“乐治”的工具,“舞以象功”“舞以象德”,用来纪功德,祀神祇,成教化,助人伦。从上古尧、舜时代起,直至清代末年,雅乐舞伴随着各个朝代的兴衰更替,经历了数千余年之久,始终居于中国乐舞的正统地位。

古代の人々は、「乐」と「音」は異なると考えていました。「音」は舞踏のない演奏を指し、「楽」は歌唱と舞踏を一体化させた総合的な演奏であり、最高の演奏形式とされていました。まさに「音を知っていてもあって乐を知らざる者は、一般庶民である。君子のみが乐を知ることができる」と言われています。周公は礼を制し楽を作り、雅楽体系を創始し、楽舞の演奏形式も急速に発展しました。楽舞は「礼治」「楽治」の道具となり、「舞は功を象徴する」「舞は徳を象徴する」として、功徳を記し、神々を祀り、教化を成し、人倫を助けるために用いられました。古代の堯、舜の時代から清代末年まで、雅楽舞は各朝代の興亡と共に、数千年にわたり続き、中国の楽舞の正統な地位を占めていました。

※人倫
人と人との間の秩序関係。ここでは序は序列のことなので、人と人との身分関係(ヒエラルキー)。

周代王室还设立专门的乐舞机构——“大司乐”,掌管乐舞的演出、乐舞教育,被誉为我国最早的舞蹈学校。“大司乐”的设立时间之早、舞蹈教育水平之高,为当时世界之最。周代最高等级的“乐”是六代乐舞,又称为“六乐”。即为六个朝代帝王纪功的舞蹈,大多是周代以前各代的代表性乐舞。六代乐舞分门别类,用法分明,主要用于周代宫廷祭祀礼仪,表演的场合隆重,人数众多,仪式庄严肃穆,音乐和谐平静。包括黄帝时期的《云门》,尧时的《大咸》,舜时的《大韶》,夏禹时的《大夏》,商汤时的《大濩》和周代的《大武》。到了后代,“六乐”就被称为“先王之乐”,其舒缓、平稳、清和、淡远的音乐在促进社会和谐、维护国家稳定方面发挥着重要作用,成为中国两千多年封建社会的重要治国理政手段。

周代の王室は、音楽と舞踊を管理する専門機関「大司乐」を設立し、演奏や舞踊教育を担当しました、これは中国最古の舞踊学校と称されています。「大司乐」の設立時期の早さと舞踊教育の水準の高さは、当時の世界で最も優れたものでした。周代の最高レベルの「楽」は六代楽舞と呼ばれ、また「六楽」とも称されます。これは六王朝の帝王の功績を記念する舞踊であり、大部分は周代以前の各王朝の代表的な音楽と舞踊です。六代楽舞は分類され、使用法が明確で、主に周代の宮廷の祭祀儀礼に用いられ、演奏の場は厳粛で、多くの人数が参加し、儀式は荘厳で厳粛であり、音楽は調和が取れ平静です。これには黄帝時代の「云門」、堯時代の「大咸」、舜時代の「大韶」、夏禹時代の「大夏」、商湯時代の「大濩」、そして周代の「大武」が含まれます。後の時代になると、「六楽」は「先王の楽」と呼ばれるようになり、その穏やかで安定した、清らかで淡遠な音楽は、社会の調和を促進し、国家の安定を維持する上で重要な役割を果たし、中国の2,000年以上にわたる封建社会の重要な治国理政の手段となりました。


日本の雅楽について 抜粋

※日本の雅楽について補足

出典:宮内庁

https://www.kunaicho.go.jp/culture/gagaku/gagaku.html

日本には上代から神楽歌・大和歌・久米歌などがあり,これに伴う簡素な舞もありましたが,5世紀頃から古代アジア大陸諸国の音楽と舞が仏教文化の渡来と前後して中国や朝鮮半島から日本に伝わってきました。雅楽は,これらが融合してできた芸術で,ほぼ10世紀に完成し,皇室の保護の下に伝承されて来たものです。
雅楽には,日本固有の古楽に基づく神楽・倭舞・東游・久米舞・五節舞などの国風歌舞のほかに,外来音楽を基として作られた大陸系の楽舞すなわち中国系の唐楽と朝鮮系の高麗楽,そして,これらの合奏曲の影響で平安時代に作られた催馬楽と朗詠の歌物とがあります。

出典:神道のお祭りに欠かせない雅楽 by 維摩會(ゆいまかい)

https://yuimakai.org/philosophy/shinto-japanese-culture/topics/2022/3/

世界でも比類ない雅楽

日本の雅楽は、十世紀(平安時代)に大成した日本の最も古い古典音楽です。①古来からの日本固有の歌舞、②五世紀頃より古代のアジア大陸から伝来した楽器と楽舞(音楽と舞)とが日本化したもの、③その影響を受けて平安時代に新しくできた歌、の総体です。皇室の 庇護 ( ひご ) があって、古代からほとんど形を変えずに 連綿 ( れんめん ) と続いてきているのです。古くは千五百年も前の音楽もあり、数多くの楽曲が千年あまり変わることなく今日も演奏できるのは、世界でも日本の雅楽しかないと言ってよく、しばしば舞も付いており振付も伝承されているのですから、素晴らしいことです。元来は「雅楽」という名称は、 儒教 ( じゅきょう ) において、「俗楽」に対して「正統の音楽」を意味した言葉です中国や朝鮮では、儒教の 祭祀楽 ( さいしがく ) を主とする音楽を雅楽と呼び、※日本の雅楽とは違います。

※日本の雅楽とは違います。
天皇の祖先である中国の王と中国の天地を称える楽舞を使用しているので、日本の雅楽は中国や朝鮮と一緒の儒教の雅楽です。燕礼だけを行っていません。

外来音楽の伝来

日本に伝来した最初のものは、朝鮮半島( 百済 ( くだら ) 、 新羅 ( しらぎ ) 、 高句麗 ( こうくり ) ) 由来 ( ゆらい ) の舞と楽曲「 三韓楽 ( さんかんがく ) 」です。
『日本書紀』に、四五三年に第十九代の 允恭 ( いんぎょう ) 天皇が 崩御 ( ほうぎょ ) された時、 新羅 ( しらぎ ) 王が 楽人 ( がくじん ) 八十人を送って 哀悼 ( あいとう ) の意を表わしたという記述が見られます。
第二十九代の 欽明 ( きんめい ) 天皇十五年(五五四年)二月には、 百済 ( くだら ) から楽人四人が渡来した、第四十代の 天武 ( てんむ ) 天皇十二年(六八三年)正月には、 三韓楽 ( さんかんがく ) の音楽が飛鳥の地で演奏されたとの記録があります。
又、天武天皇は天武四年(六七五年)に、「楽人は子弟に歌唱や楽器の技芸や舞の振付を伝えるように」と 詔 ( みことのり ) を発せられました。この時期から音楽とそれに伴う舞踏を代々専門とする家々が現われてきたと考えられます。
一方、中国大陸の音楽である 唐楽 ( とうがく ) は、七世紀前半から約二百年にわたって行なわれた遣唐使の派遣によって伝えられました。
第三十四代の舒明(きんめい)天皇二年(六三〇年)からです。唐の都・長安が国際都市であったことを反映し、ペルシアやインド起源の楽舞、 林邑楽( りんゆうが ) (ベトナムの音楽)なども含まれます。
日本における唐楽の演奏の最も古い記録は、大宝二年(七〇一年)正月で『続日本記』に記載されています。

※日本における唐楽の演奏の最も古い記録は、大宝二年(七〇一年)正月で『続日本記』に記載されています。
《大宝二年(七〇二)正月癸未(十五)》○癸未。宴群臣於西閣。奏五帝・太平楽。極歓而罷。賜物有差。
出典:http://www.kikuchi2.com/jodai/shokuall.html

※太平楽
出典:https://kotobank.jp/word/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%A5%BD-91993
雅楽の曲名。別名を「武将破陣楽」「武昌太平楽」「頂荘鴻曲」「五方獅子舞」「城舞」ともいう。唐楽、太食(たいしき)調。四人舞で、道行(みちゆき)・破・急にそれぞれ『朝小子(ちょうこし)』『武昌楽』『合歓塩(がっかえん)』という曲をあて、組曲形式をとる。代表的な武の舞で、漢の高祖が項羽を討ち天下を統一したさまを描く

※奏五帝・太平楽。
ググれば「五帝太平楽」と纏められるが、「太平楽」で1曲であるし、引用元もわざわざ区切り記号「・」を入れている。なので「五帝」という1曲になるが、全然出てこない。「五帝太平楽」と纏められて紹介されてる辺り、意図的に内容を隠されている。六大舞のどれか1部だけ欠けたものでしょう。
ちなみに五帝は黄帝(こうてい)、顓頊(せんぎょく)、帝嚳(ていこく)=嚳 (こく)、尭(ぎょう)、舜(しゅん)と中国の夏殷周の王を指す
参考用:https://note.com/zenika/n/n402ce71d47b4

三管 で宇宙を表わす

「雅楽のメロディを奏でる管楽器に、 笙 、 篳篥 、 龍笛 がある。昔の人達は、これらの音色に自然界の全て、宇宙を感じ取っていた。
笙(パンフルート)は、複雑な 和音 を奏でる楽器で、形は 極楽 に 棲 むという伝説の鳥『 鳳凰 』が翼をたたんで休んでいる姿に例えられる。音色は『天から差し込む光』を表わしている。
篳篥 は、 主旋律 を奏でる 縦笛 で、音色は『人の声』、広い意味では『地上の音』全てを表わしている。
龍笛 は、横笛で、音色は天地の間を泳ぐ『龍の鳴き声』、広い意味では『天と地の間の空間』を表わしている。

この三つの楽器を 合奏 するということは、天・地・ 空 を合わせることになる。つまり宇宙を表現するというわけだ。僕は雅楽を聞くというよりは、むしろ感じてほしいと思っているが、それはつまり、雅楽が宇宙を表現しているところもあって、空気のように肌から自然に入ってきて、心のどこかに触れて感じたり、身体のどこかで反応したりすることで、雅楽を楽しむことができると考えているからだ。
人間の身体も、小さな小さな一つの宇宙なのだから」

《周禮·地官》に書いてあることそのまま言ってる。
音律が調和し、舞踊が季節に応じて行われると、天神、人鬼、地祇を祭祀するために用いることができ、これにより国が和睦し、万民が調和し、賓客が安らぎ、遠方の者が臣下として服従し、萬物が繁栄する。」

現代に残る 舞楽

雅楽を編成によって分類すると、舞を伴わない楽器演奏だけの管絃、舞を伴う舞楽、歌の入る歌物があります。舞楽には三種類あります。
「① 国風歌舞( ・・・日本古来の歌や舞で、農民が田植えをしながら豊作を願った歌や、秋の実りに感謝する踊りなど、自然や大地に捧げた素朴な祈りがルーツになっていて皇室の儀式や神社の行事に舞われる。例えば、
『 神楽 歌 』と人長舞・・・宮中の行事で歌われるもので、神様を迎え、人間・代表の人長が舞う。
『 大歌 』と『 五節舞 』・・・現存するただ一つの 女舞 で五人で舞う。舞姫の 装束 は、 十二単 に 檜扇 を持つ。
昔は 大嘗祭 に、今は天皇の即位の 即位の大礼 で舞われる。
② 左方舞 ・・・唐楽で舞う舞楽。
『 蘭陵王 』・・・六世紀の中国、 北 斉 時代。とても美しい王様がいたが、兵士は王様の美しさに見とれてしまい戦意が高まらないため、そこで王様は怖い面をつけ、闘いの指揮をとり大勝利をおさめたという。平安時代には、 競馬 、 弓 くらべ、 相撲 などの祝賀会などで舞われていた。
③ 右方舞 ・・・高麗楽で舞う舞楽。
『 納曾利 』・・・龍が楽しげに 戯 れる様子を表わした」
(以上、『東儀秀樹氏の雅楽』より)
即位礼と大嘗祭、神宮の式年遷宮に際しても御神楽や秘曲の奉納があり、毎年恒例の新嘗祭や歴代天皇の例祭における神楽歌の演奏などで、日本古来の国風歌舞は大切な祭祀の音楽とされています。
毎年の宮中祭祀では、唐楽が祭祀音楽として演奏されています

※国風歌舞
これは胡散臭い。時期で区切ってあるので意図的に海外(中国、朝鮮)から伝来した物と日本の先住民のものと混ぜられてると疑うべき。中国雅楽では「鐸」が国家権力の象徴である日本の弥生時代に出土した銅鐸は、中国南部の「越」から日本に直接伝わった可能性があると指摘されてもいる。この時期に楽舞も伝わっていないのか?
参考:銅鐸(日本)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%90%B8

※「五節舞」という名前
漢以前の古代中国は五行とか五祀とか五色とか、やたらと5の数字を好んで使っているので、大嘗祭に使用された「五節舞」も名前から胡散臭い。

出典:文化デジタルライブラリー

https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc22/naritachi/gakki/na1.html

3つの楽器群が奏でる響き

雅楽の演奏に使用する楽器は、大きく管楽器[吹物:ふきもの]、絃楽器[弾物:ひきもの]、打楽器[打物:うちもの]の3つに分類され、種目や楽曲によって用いられる楽器が異なります。
楽器の編成は雅楽の種目ごとに異なります。たとえば、合奏を楽しむ管絃は、管楽器、絃楽器、打楽器の3種類がすべて使われます。それに対して、人の声が主役となる朗詠には管楽器のみが用いられ、伴奏の役割を担います。

※種目や楽曲によって用いられる楽器が異なります。
やってることが実質、下記と同じ。
周代の禮樂制度によれば、異なる場面や異なる身分の人々は、禮儀だけでなく、使用する音楽や楽器も異なり、等級は非常に厳格でした

舞楽と管弦

舞楽の演奏には絃楽器を用いません。楽器は原則として管楽器と打楽器のみで、歯切れよく演奏するのが特色です。
管絃は合奏そのものを楽しむものです。その演奏法は舞楽に比べて柔らかく、管楽器、絃楽器、打楽器の繊細なアンサンブルを聞かせるものとなっています。この管絃の楽器編成は「三管両絃三鼓」とよばれています。
・吹物 笙、篳篥、龍笛
・弾物 琵琶、箏
・打物 鞨鼓、太鼓、鉦鼓

左方と右方

左方の楽舞の演奏には、唐楽(とうがく)が用いられます。舞楽では、楽器は管楽器の笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、龍笛(りゅうてき)と、打楽器の鞨鼓(かっこ)、太鼓、鉦鼓(しょうこ)が用いられます。
右方の楽舞演奏には、高麗楽(こまがく)が用いられます。楽器は一部をのぞき、管楽器の篳篥、高麗笛(こまぶえ)と、打楽器の三ノ鼓(さんのつづみ)、太鼓、鉦鼓で編成されます。左方と異なり笙が欠けるため、旋律を奏でる篳篥と高麗笛の音が際立って聞こえる点が特徴的です。
(注)管絃舞楽という特殊な編成では、琵琶、箏が加わります。また、右方には、一部、唐楽が用いられる楽曲があり、唐楽の楽器編成となりますが、羯鼓ではなく、三ノ鼓が使われれます。

総論

雅楽は徹底的なヒエラルキーを叩き込み、洗脳するための祭祀システム。

《礼记·乐记》有云:“乐者,天地之和也;礼者,天地之序也。和,故百物皆化;序,故群物皆别。”
《周禮·地官》記載:"音律和諧,舞蹈應節,就可以用來祭祀天神、人鬼、地祇,這樣邦國和睦,萬民和諧,賓客安撫,遠人臣服,萬物興盛。"

と書かれている通り、楽舞で相手を感化させ(和ませ)て身分(序列)に服従させるって、やってることの意味が悪党が使う洗脳と何ら変わんねぇ。

そんな外道目的に作られた周の選民思想満載の楽舞である雅楽を、日本は周の時代に制定された音楽と舞を、天皇が丁寧に継承して残している。流石、唐の武则天が作った国、日本ですよ。


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