将来の夢
絵や工作が好きで「ダンボール屋さんになろう」と思っていたことがある。
とにかくダンボールで遊ぶのが好きで、ダンボールの可能性に宇宙を感じていた。薬局の裏口やマンションの資源置き場にこっそり通って手に入れた色々な種類のダンボールを、切ったり貼ったり描いたりしていよいよ粉微塵になって「いいかげんに片付けなさい」と母に怒られるまで遊び倒した。そんな風にダンボールと戯れている最中はたいてい誰にも茶茶を入れられずに一人の世界に浸れ、そういう「静」の中で黙々と「動」するという時間に居心地の良さを感じていた。だから一人の時間を味わえるならば例えば煙突掃除屋とかマラソン選手もいいなと思っていた。
「将来の夢」という概念に出会ったのは幼稚園に通っていた頃だ。
その年頃のわたしの興味事といえば、その日のお弁当の中身とか、砂場で作ったトンネルの中にいかに美しく川を流すかとか、どうしてスーパーの魚コーナーの魚にかかっているラップに指を押し当てちゃいけないんだろうとか、そういう半径1メートル以内の日常くさいことばかりだった。
「将来何になるか」という問いかけは、「今この世に現存する職業の中から好きなものを選びなさい」と聞こえなくもなく、それは本人の興味事とはまるで切り離されたところに存在している。そもそも、将来ってなんだろう。なんだかラーメン屋さんの名前(将来軒……)みたいだなぁなんて思っていた幼少期のわたしは、もれなく将来の夢という概念に「?」がいっぱいだったけれど、物理的に行動範囲が狭い子どもの世界にいながらもわたしを取り囲むすべてのものの中には世界の不思議がキラッと光り、そういうまだ磨かれていない未知の原石はそこら中にコロコロ転がっていた。
狭くとも新鮮な感性があればどんな場所にも自分にしか体験できない出来事があって、そんな風に自分の手足を動かして感じまくった「好き」とか「悔しい」とか「面白い」の粒たちが積もり積もって、人との縁や人生のターニングポイントを教えてくれるんだろうと思う。楽しかった思い出はたとえ忘れてしまっても身体にしっかり染み込み、ここぞというタイミングにフワッと記憶の水面に浮き上がってきたりする。苦い経験ほどねちっこく忘れられないのは「この経験はあなたの人生の役に立つから、生かすといいよ」という天からの思し召しなんだろう。「自分が自分として感じたこと」というのは、だからそれだけでものすごい価値なんだ。
なんてことをつい数日前の暑く遅めのお昼ごはん時に一人ぽやぽやと考え、ソーカ、わたしは一生“わたし”として生きていくのかとじわじわ気がつき、「将来の夢」はいつの間にか「就職活動」に化けてしまって、人間一人一人にちゃんと備わっている「自分が自分であることの価値」を置いてけぼりにしてしまうかもしれないなと思った。
自分の価値なんてわからんよと人生の大半思っていたが、そもそも自分らしさなんて考えてわかることでもなく、自分を生き抜く過程で雨が土に染み込むように感じていくものなんだろう。
一見代り映えしないような日々の積み重ねに導かれ、今こうして北海道の上富良野でよなべの番茶を飲みながらこれを書いている。世の中は知らないことばかりでその量と事実に毎度ぺしゃんこにされるけれど、それでもからだもこころももりもり働き、家族や友だちと囲むごはんはうれしくおいしく、夜は安心して眠れる布団がある。わたしの幸せってもうこれ以上はないよなぁと思う。そんなすぐ側のささやかな幸せがわたしにゆるく長い息を吹き込んでくれて、おかげで「わたしはわたしの価値を磨こう」と思えるのだ。
「まだ名前は無いしそれが仕事になるかどうかはわからないんだけど、今こんなことに興味がある」そんな自分も大切にしたいね。だっていつか本当にダンボール屋さんにもなるかもしれないもんね。
明日はどんな自分に出会えるかしら。