日報 3月20日 新聞記者のノートから
記入者:かくなみ みほ
今日の午後、新聞記者さんと会社でお話しました。
わたしは記者さんのすぐ近くに座っていたので、
お話しながら、彼の手元を見ていました。
新聞記者さんは、
ノートを開き、ペンを持ち、机の上を整えます。
それから相手の言葉に耳を傾け、
表情や空気を読み取ります。
ぽた ぽた ぽたぽたぽたぽたー
と、コーヒーの雫がポットに落ちていくようにペンが走り出します。
何も書かれていない真っさらなノートに、
自然発生的に文字が浮かび上がるように見えました。
例えるなら「発酵」です。
その場に流れる空気や間合いを咀嚼して、
プクプクプクプク、ノートに言葉たちが膨らみます。
真っさらなノートのページが、
あっという間に有機的な存在になりました。
言葉が出て来る様は、まるで滝のようでした。
こんなにたくさんの言葉を毎日扱っているのか……
とんでもなく、ど偉い仕事だと思いました。
わたしが幼い頃の新聞は、
今よりもっとモノクロ感が強い印象がありました。
昨今の新聞は、カラーページが多いように感じます。
新聞記者さんによると、
臨場感やビジュアルに重きを置くようになってきているそうです。
カラーで見た方が、そりゃあ迫力がありますよ。
でも、そのお話を聞いて、
見る側の感受性が弱ってきているようにも感じました。
わかりやすい情報ほど目に止めてもらえる。
何も考えなくとも受け取れる情報ほどすばらしいかもしれない。
同時に、このまま「情報の届け方」が進化を遂げ続けると、
「情報の受け取り手」は何かを失っていくかもしれない。
そんな気がしました。
“気がした”だけです。根拠はありません。
会社から見える十勝岳にうっすら雲がかかっていて山が見えなくても、
「あの向こうには十勝岳がある」と思って、雲の先に思いを馳せたい。
世界に眠っている神秘的な絶景に出会えなくても、
足元に転がっている石のまだら模様には気がつけるようでありたい。
「感受性を磨き続けよう」
そう思った午後でした。