日報 3月12日 目につくものは自分の鏡
記入者:タラバミント
MDのカセットに自分だけのリストを作るのはとても楽しかった。
近所のCDショップに出向いて、
3枚入りや5枚入りのMDを買いに行くのもワクワクした。
「この曲の後にあの曲を入れようっと」
「まずい。ダブって録音してしまった……」
「あ、アルバムの最後の曲だけ入らなかった……」
そんなやり取りを自分としながら、
ふくふく心を温めたものだ。
一番身近な精密機械は、CDコンポだった。
音楽の再生の他、
CDからカセットテープ・MDへのダビング、
アンテナを伸ばせばラジオも聴けた。
それだけの機能を、
たった一つの身でやってのけてくれていた。
順序を自分で辿りながら、
ああでもないこうでもないと交錯する。
あの時間は宝物だったなぁ。
ちょっとそこらへんを見渡しただけで、
どのくらい精密なのかもわからないモノがいっぱいある。
今僕が向かっているパソコンのスクリーン。
中身がどうなっているのか、僕は知らない。
ついでに、キーボードを打っている僕。
一体どういう仕組みになっているのか、てんでわからない。
鏡を見れば“自分らしい”ものが映る。
でも何だか目の前の“自分”に現実味がわかない。
実像で自分の顔を見ようとしても、
鼻の頭とか、伸ばした舌がちらりと見えるだけ。
もし人の両目がろくろ首のように伸びる仕組みだったら、
僕は楽々、自分の顔が拝めるだろう。
しかし人間は、自分の実像の顔を見れない。
これは、きっと必要でそうなっている。
まったく不思議だよ。面白い。
見えないものはしょうがないなぁって思って、
僕は最近、開き直って“自分”を気にしないことにした。
代わりに、目につくものをよく見ることにした。
目につくってことは、
それが「気になる」ってことだろう。
気になるってことは、
自分の中にも「共鳴する何かがある」ってことなんじゃないか。
そんな仮説を立ててみた。
そうなると、
目に映るものすべて、肌で感じることすべて、
嫌だったことも、嬉しかったことも、
みんな自分自信を知るための手がかりになる。
今夜は眠るまでに、何を目にし、何を感じるだろう。
明日は、何を感じ、何をしたくなるだろう。
これは壮大な実験になりそうだ。
CDコンポのときのように、
「ああでもないこうでもない」と交錯ながら楽しもう。
自分と二人で。