餃子と母のこと
「あんた、そういう包み方になったんだ」と母に言われ、ドキッとした。
わたしの母は中華料理屋の娘で、幼い頃から店を手伝っていたらしい。母は酔っ払った客は面倒でいやだなぁとか、ラーメンと一緒にライス食べるなんてありえないわとか、子どもなりに世間の深いところや端っこの方をラードの香りと一緒に吸い込んできたのだと思う。様々な人の織りなす点と点が店の中で交わり、経歴も背景もごちゃ混ぜになって、そういうところで青春期を送ってきた人だからこそ滲み出てくる、万人に対する愛情のようなもの。そういうものが、母の笑い皺や少し垂れた目尻、毎食作ってくれたごはんからじわじわと感じられた。
つい先日、突然「餃子が食べたいモード」になったので、息子と連れ立って近所の肉屋に豚ひき肉を買いに行った。ご主人に肉を挽いてもらっている間、奥さんと「餃子はキャベツ派か白菜派か」という話題になった。奥さんは白菜派で、しかも「ニラと一緒に炒めてから肉と混ぜる」らしい。想像するだけでよだれが出た。炒めてから混ぜる方式は、わたしの次に作りたいものレパートリーにこっそり書き連ねられた。
その日の我が家の餃子はキャベツ派でも白菜派でもなく、「両方混ぜ」という大胆で大雑把な餃子だった。ニラも入れないし、ニンニクもすらない。ここらの地域は豚肉がおいしいので、塩と胡椒と醤油を一まわしして、あとはしっかりこねるのみ。これだけで良い。餃子の皮は50枚入りのものを買ってあった。50個か、こりゃ良い瞑想時間になりそうだと思いながら、こね終わった肉だねをせっせと包み始めた。
しばらく無心で包んでいると、母が産後の世話をしに来てくれた時のことを思い出した。
今年の1月の中頃、わたしの身体も落ち着き、じゃあ母はそろそろ東京に帰るかなぁというタイミングで、「餃子、作って冷凍しておく?」と母に聞かれた。断る理由もなく、わたしたちは昼間から薬味の香りを台所いっぱいに充満させながら餃子を包んだ。
その日は、外は雪の白さで凛と透き通り、部屋の中は薪ストーブの炎で橙色に温かかった。母とわたしは少しひんやりする台所に並び、言葉数少なく餃子を包んでいた。「これからまた離れて暮らすんだな」という事実だけを、じんわりと噛みしめるような時間だった。薪の爆ぜるパチ、パチ、と言う音が部屋の壁にこだましている。となりに母がいる。普段と変わらない冬の景色が、とんでもなく特別なもののように思えた。会話のない時間が長かったけれど、母とわたしを包む空気も凛と静かで、ホカホカと温かかった。
包みながら、不意に母はわたしの手元をちらりと見た。そしてニヤリと笑いながら、
「あんた、そういう包み方になったんだ」と言った。
「え、わたし昔からこういう包み方じゃなかったっけ?母さんはどうやって包んでるの?」
そう言うわたしをニヤニヤ無視し、母はまた黙々と餃子を包み始めた。
その時の会話を思い出し、幼いわたしが中華料理屋の娘である母から教わったであろう餃子の包み方を、どうしても思い出したくなった。
20個ほど包んだところで、「左手をこうして構えて、ここに皮を乗せるの」と母と並んで実家の台所に立っているシーンが思い出された。いいぞいいぞ、そうして、真ん中に肉だねを乗せる。「お肉は少なめでいいんだよ」と言いながら、スプーンを器用に使って肉だねをすくい取る母の仕草も思い出した。
ところが、肝心の美しくひだを作る所作のところが全く思い出せないのだ。
なんとなく手を動かしてみてもダメで、皮がふにゃりとひしゃげるか破けるかして、全然満足いくものにならない。
あーあ。こりゃ思い出せそうもないや。
さっくりと開き直ったわたしは、残りの餃子は目をつぶってでも包める自己流のやり方でむっちりむっちり包みあげた。
あの、産後のわたしと並んで台所に立っていた母は、どうして笑うばかりでもう一度包み方を教えてくれなかったのだろう。
今思い出すと、母の笑い方にはほんの少し寂しげなものも感じられた。勘違いかもしれないけれど。
自己流で包みあげた餃子は鉄のフライパンでこんがり焼いて、醤油とお酢と、友人のお手製ラー油をたっぷりかけていただいた。いただきものの生ワカメがあったので、わかめスープも作った。
シンプルな材料が、「餃子が食べたいモード」の身体にジュワ〜っと広がり、一つ、また一つとあっという間にお皿を空にしてしまった。
もぐもぐと口を動かしながらも、
「また母と餃子を包むことがあったら、手元をばっちり盗み見してやろう」
と、頭はすっかり餃子の皮に包まれてしまっていたのでした。