パンと公園とオレンジジュース
久しぶりにパン屋さんでパンを買った。
「最近パン食べてないね」
「パンロスだね」
と、前の晩に夫と話しながら寝落ちたところへ、翌日友だち夫婦がはるばる遊びに来てくれた。車で10分ほどのところにあるハード系のパン屋さんにお連れし、目につくパンを(控えめに)かたっぱしから購入した。
ある食べ物を食べるとつい思い出される記憶が、人には1つか2つあるんじゃないかと思う。かくいうわたしはパンを食べていると、昔どこかで聞いた落語家の話を思い出す。
たしかこんな内容だった。
パンを食べていると、この話が不意に脳内で再生される。
気の利いた喫茶店の小音のBGMのように、そっと。
(目玉焼きとアスパラがおかずだとしたら、食パン2・3枚は食べてしまうな。わたしはパン食と言っても過言ではなさそう)と、思いながら今朝も食パンを2枚食べた。
1枚は朝ごはんの準備をしながら。トースターで焼きたてのところへバターをさっと塗って、立ちながら食べる。台所で過ごす者の特権。
ご飯を作ること食べることは、暮らしの豊かさを広げてくれる。
少なくとも、わたしにとっては。
北海道の小さな町で暮らし、仕事し、子育てすることの甘みと辛みは、人生のうまみをじわじわと増してくれている。
息子と遊び、また遊び、洗濯し、食器を洗い、お腹がすけば何か食べ、雪が降ればひたすらはね、思いついたことはそこらへんの紙に書きつけ、薪ストーブの炎を横目に、明日の準備をするのもままらないまま、気がつけば1日が終わっているんだけど、それも今では心地よく感じるようになった。夫のぬぎっぱなしの靴下が控えめにまるまって落ちていても、息子の食事のあとのフローリングがお米の海でも、笑っていられる。
それでも心の中で、コップに入れた水が少しずつ蒸発していくように、何かがゆっくりと渇いていくのを感じていた。不満はない。けれど、「誰からも、何からも、強要されないひとりの時間を持ちたい」という思いが、ふつふつと募っていた。
そんな春の終わりに「吟行でもしましょう」と、俳人の友だちと一緒に公園へ行く機会があった。
歩きながら、「公園は太古の再現ですね」と友人が言った。
“公園”なんて言わなくとも、大昔の地球は土と緑と水で溢れていて、それを、現代はわざわざ人の手で再現している。都会にこそ公園の要素が多いのは、そのためかもしれませんね。
と、そんなようなことを話した。
そうしてやってきた初夏。
心の渇いたところへ霧吹きを当てるように、ひとり公園へ出かけた。
見知らぬ人とすれちがい、たんぽぽは風にゆれる。葉っぱについた水滴は青くさく、名前も知らない鳥は木から木へ飛びうつる。
いても、いなくても、どっちでもいいけど、いてもいいよ。と、公園にあるものはたいていわたしにはおかまいなしだ。わたしになにか求めてくるものがあるとずれば蚊くらいだろう。
おかまいなしって、すがすがしい。
知り合いにばったり会いたいような気持ちもどこかにはあるけれど、もうしばらくは、ひとり公園に通おう。
露出する肌とか、冷たい水がおいしいこととか、突然降り出す雨とか、その日、その時の天気によって目につく色も変わっていく。
こたつの中ではみかんを食べたいけれど、オレンジジュースは夏の太陽の下が似合う気がする。おんなじオレンジ色なのにね。
6月前夜
(今月もあっという間だったな)
と、その月の書き留めメモやノートを見て
今月あったいろいろのことを思い出す。
すると
(たくさんではないけどいろいろあったんだな)
と、31日間の営みの存在に気がつく。
カレンダーを1枚めくると
目垢のついていない月。
胸が小さく高鳴る瞬間。