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「オンライン飲み」はどこへ?

 この記事を出してから2年経った。コロナ禍は続き、明るい兆しが見えない。
 そんな中で、オンライン飲みという概念は消えてしまったように感じる。
 酒を飲みながらZOOMでビデオ通話をする、という文化が死んだとは思わない。むしろ、会社のリモート会議で隠れて飲酒してる人間もいるのではないか(もちろんアウトだ)

わざわざ「オンライン飲み」という言葉を使うような風潮が無くなったように感じるのだ。

 2年前の上記記事でオンライン飲みに対し、僕は非常に冷めた言葉を投げた。コロナ禍以前の対面重視なタイプの飲み会へのカウンターとして登場した概念なのではないか、と。オンライン飲みにはジョッキを上司のものより下げて乾杯するだとか、焼き鳥の串から肉を外すだとかそういった、美味しい食事が喉も通らなくなるような縛りがない。前時代的なものに対する武器のような扱いで、オンライン飲みはもてはやされていたように思う。
 そして実際にオンライン飲みをやってみて、率直につまらないと感じた。仲間内で顔を合わせるのは(とは言ってもパソコンの画面越しだが)それぞれが数ヶ月ぶりだったので、その分の埋め合わせはできたくらい。
 顔を見られてよかったという安心感はあったが、楽しさは得られなかった。

 そして、そこで得た物足りなさとその原因を飲みの席や、大学時代に友人の家で宅飲みしそのまま泊まった記憶を探りながら考えた。その仮説が、「選ぶ」経験の有無だった(詳しくは上記記事で)。

 オンライン飲みの物足りなさは(店や料理、話題
などを)選ぶ経験の有無なのではないか。 

 ざっとこういうまとめ方でこの記事を書いた。

 その後何度かピークが過ぎ去った。過ぎ去ってはやってきてを何度か繰り返したものの、以前より外で飲みに行くことへの躊躇いが無くなり、何度か会食をした。
 僕が立てた仮説は正しいような気がした。どこで食べるか、何を食べるか。そんな他愛無い会話があるだけでモチベーションは上がるものだった。
「何が食べたい?」
この問いに対して、答えはごまんとある。食べたい料理のジャンルを言ったっていいし、「なんでもいい」なんてつれない答えだとしても会話は続けられる。
「なんでもいいんだけどな」
「じゃあ、○○(昔からよく行ってた店)で」
「またかよ」
「だって、なんでもいいっていうから」
 本当によくあるやりとりだが、それが嬉しかった。ある人がそのコミュニティでしか見せないであろう顔(キャラ)を直接見られる、というのもその理由であろう。 
 しかし、同時に僕の仮説は二重丸ではなかった。

 各自で飲み物とちょっとしたスピードメニューを頼み乾杯する。そして繰り広げられる何気ない会話。選ぶプロセス以外、「オンライン飲み」と何も変わりはない。だけど、明らかに違うことがあった。
 それは「その場にいる」という感覚だ。その場に同じコミュニティに属する生身の人間がいる。それだけのことが今まで僕らが思っていた以上に強力な効果を持っていることを知った。自分がそのグループのメンバーであることへの安心感や承認されている感覚がオンラインのそれとは明らかに違っていた。少し視野を広げて考えれば、これは当たり前のことだ。だが、その当然さゆえにこの感覚へのありがたみがボヤけてしまっていたように感じた。

 会社の飲み会が敬遠されてきた理由もここから来たものなのだろう。そのコミュニティに属しているという内輪的な感情が人(特に上の立場にある人)を図々しくさせる。だから、他人の心に平気で土足で上がり込むことだってできる。飲み会、会食の中にある帰属意識が裏目に出た結果、会社の飲み会は嫌われることが増えてきたのだろう。

 オンライン○○というのは非常に便利だ。わざわざ出社しなくても仕事や会議ができるし、移動という制約からだいぶ解放されるようになった。しかし、人と人の距離は遠くなるような側面も持つ。同じ会社の人程度ならいいかもしれないが、仲の良い人や家族までオンラインで済ませてしまう薄情な人にはなりたくないな、と思った。

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嵩増し束子
サポートありがとうございます。未熟者ですが、日々精進して色々な経験を積んでそれを記事に還元してまいります。