Marcy's movie garage 感動の嵐とカルトの間で『湯道』
毎度お馴染み、ゆとり世代の映画レビュー。久しぶりの更新です。
さて、ご存じの方も多いかもしれませんが実は僕、銭湯やサウナ好きでして。そういう人なら観ておきたい映画が公開された、というので都合のいい時に観てみることに。
映画『湯道』。ひと口にいえば「昔ながらの銭湯を舞台にした人情ある御涙頂戴のコメディ」といったところだった。
水やお湯や火の描写、カメラワークが良くできており、そこに労力をかけているのが素人でもわかった。また、豪華なキャスト陣が物語を彩っているのも特徴だ。邦画というと、第一に批評家にナメられる印象がありますがこの作品のカメラワークは侮れない。
しかし、それがかすむくらい脚本がひどい。稚拙で陳腐で上っ面だけの脚本なのである。
繰り返される陳腐な感動話。実は〇〇だった!というくだらない伏線回収の連続。狭間になんの脈絡もなく表れるカルト宗教「湯道」のシーン。アフリカ系の男性が服役囚を演じたり、外国人=銭湯マナーに疎いという偏見をちらつかせる描写。サウナ室で電話するシーン。実力派俳優陣が、キャラ性全振りの登場人物を演じさせてられているグロテスクさ…。
また、「海外の人が描いた一昔前のジャパン」そのもののセットももう少しどうにかならなかったのかと顔を歪めながら観ていた。あの世界線を架空の綺麗な昭和として捉えるのなら許されるだろうが、舞台が現代ともとれるシーンもあり観ていて静かな混乱を覚えた。
個人的にしんどかったのが、「人情ある古き良き銭湯」のクローズアップ。「銭湯は時代遅れの遺物だ!」と「そんなことはない!銭湯は人情ある社交場だ!」「銭湯は最高だ!」という対立構造と銭湯を継続するか廃業するかの葛藤が軸になっていて、この茶番こそ時代遅れの遺物では?と感じた。どことなく学芸会チックなやり取りを大物俳優たちがやらされているのは辛いものがあった。
制作陣は銭湯や温浴業界の研究をせずに映画を作ったのだろう。業界の実態をろくに調べもせずに銭湯のイメージをそのまま脚本に練り込んで見事にスベってるような印象を受けた。昔ながらの銭湯にこだわる人は絶賛するのだろうが…。銭湯だけに重きをおいた脚本ならまだしも、全く関係ないカルト宗教『湯道』のシーンは必要だったのだろうか。あれはわけがわからない。湯道とは脚本の小山薫堂が提唱した入浴の作法らしい(初代家元を名乗っているほどだ)のだが、いきなり知らない概念が登場されても…という話だ。彼ほどの大御所がこんなチンケな脚本を書いたのが不思議で不思議でならない。見ていられないレベルの酷い脚本が、出演者と締めの綺麗事の連続でなんとか観られる作品として誤魔化せているというのがこの映画の感想だ。
そんな郷愁とやっすい感動と胡散臭さにまみれた話だが、舞台となった銭湯にほぼ常連しか来ていない(しかも、大多数が高齢者)というのはなかなか現実的な描写だと思った。ああいう昔ながらの銭湯って常連しか来ないもので、変わらないことが素晴らしいこと、みたいな価値観を持っているきらいがある。そういう価値観は時には素晴らしい一面を見せるケースがあるのだが、僕からすれば、頭の固さや前時代的な考え方だと捉えてしまう。
創作にマジレスするのもナンセンスな話だが、新しいお客さまを呼ばない限り、あの銭湯の未来は暗いだろう。ハッピーエンドの匂いが漂った結末だったが、それでいいのかよ、とリアリストなりに感じたのは言うまでもない。ハートウォーミングというより共感性羞恥でのぼせそうな作品だった。