
『港の外資系企業を生き抜くのにオーダースーツなんていらない』
第一章:石橋編
韓国の外資系経費の使い方
もう何度五里(ごり)さんと商談同行をしたかわからない。五里さんはお客さんが案件の話をすると終わりかけるタイミングで食い気味に「それできますよ!」と必ず言う。案件の概要を理解しているわけではない。そんなことは問題じゃない。先に「できる」から始まるのだ。そのたびに僕は心の中で困惑する。何をすればいいのかわからないからだ。
案の定、商談が終わると五里さんはにこやかに言う。
「じゃあ、石橋くん、あとは頼んだよ!」
頼まれた僕は、右も左もわからない状況で案件の調整に奔走することになる。 お客さんから今現在判明している情報をメールで送ってもらう。お客さんも実はよくわかっていない。なぜなら自分の部下がその案件を対応しているからだ。受け取った情報を社内の技術担当者に内容を伝える。しかし韓国人や中国人の技術サポートばかりで、コミュニケーションそのものが壁になる。僕は韓国語も中国語も話せないが、英語すらろくに話せない。技術的な詳細を理解して説明するなんて至難の業だった。お客様の言葉も細かいニュアンスがわからず、「これ、本当に自分に務まるのか?」「転職、間違えたんじゃないか?」と自問自答する日々が続いた。
平和な前職
僕の前職は、平穏そのものだった。短大の就職課で働いていた僕の仕事は、学生を企業に繋ぐサポートだ。職場はホワイトそのもの。競争もパワハラもなく、残業とも無縁だった。朝は妻を起こさないよう静かに起き、デパートで買った二着で39,800円のスーツに袖を通して電車で一時間かけて出社する。自分でおにぎりを二つ握り、簡単なお弁当を作り電車で一時間かけて出社。定時になれば、都心から郊外のマンションに帰る。ただただ平和な生活だった。
同僚たちは皆、お互いに深入りしない。職場は墓場のように静かで、誰も覇気がない。上司は十五分かけてお茶を淹れ、新聞を広げてゆっくりと読む。社内では誰も競争心を抱かないし、皆でご飯を食べにいくことはない。毎日弁当を持参し、スマホで競馬の情報をチェックする姿が日常風景だ。給料は高くないが、誰もそれを不満に思っている様子はない。
お盆前や年末に飲み会も一応あるが、予算は一人三千円以内。二次会が開催されることはない。人間関係は浅く、金銭的余裕もない。仕事が平和な反面、全員がどこかで「今このままの現状がずっと続くのだろうか」を奇妙な不安と戦っていた。そんな環境に馴染み、いつしか競馬が趣味になり、何かを変えたいと思いながらも平凡な日々に浸っていた。
転職のきっかけ
そんな僕に、ある日突然ヘッドハンターから連絡が来た。知らない番号に少し警戒しつつも、時間があったので話を聞いてみることにした。ヘッドハンターは、以前僕が短大より前に在籍していた大手家電メーカーの経験者を探していると言う。
家電業界は僕にとってトラウマそのものだった。競争、パワハラ、理不尽な取引先の要求、土日出勤、暴走する部下、仕事をしない業務委託先、一日に十回必要な上司への業務報告などなど。そんなストレスフルな環境に耐えきれず、僕は休職を経て退職していた。この業界には二度と戻らないと心に誓っていたが、ヘッドハンターが提示した条件に気持ちが揺れた。
「年収は、今の大体二倍です。」
二倍――その言葉が頭を離れなかった。このまま平穏な職場を引き換えに低収入に甘んじるのか。それとも、また激しい荒波に身を投じるのか。競馬で少しでも生活を楽にしようとしている現状を考えると、生活の底上げは大きな魅力だった。十万円でも収入が増えれば十分ありがたいと感じていた僕に、「年収二倍」 という響きはあまりにも強烈だった。
「本当にこんなオファーがあるのか?」半信半疑だったが、話を聞いてみることにした。聞いたことのない外資系企業の名前。しかし、日本の企業ではあり得ない給与条件。その出会いが、僕の平穏な日常を大きく変える始まりだった。
銀座の高級クラブ
ある日、商談を終え、お客さんとともに五里さんに連れられ、銀座の高級クラブ YURIAへ足を運ぶことになった。
店内に一歩足を踏み入れると、眩いばかりのシャンデリアが目に飛び込んできた。豪華絢爛な内装、深紅のカーペット、繊細な装飾が施された家具――どれもが日常とはかけ離れたものだった。
喪服としても使えるようにとデパートで39、800円で購入したブラックスーツは、ここでは完全に浮いている。
店内には、俳優、ネットニュースで見たことのある華やかなスーツを纏ったベンチャー企業の社長、そして高級時計を輝かせたシルバーヘアの不動産オーナーたちがひしめいていた。「僕みたいな平凡なサラリーマンが、こんな場所にいていいのだろうか?」そう自問自答するたび、胸の奥がざわついた。
慣れた様子で五里さんはお客さんと上機嫌で飲み始める。五里さんは、シルバーヘアのセンターパートに、高級感のあるスーツを着こなし、50を過ぎても膨らんでいないお腹が無駄に五里さんに自信をつけさせる。高い酒と豪快な笑顔で場を盛り上げる自分を「女の子たちに愛される男」だと思っているからだ。
「麗香、今日君の笑顔を見に来たんだよ」
と五里さんは言い、隣にぐっと身を寄せる。麗香は軽く笑いながら
「嬉しいです」
と言うが、目は少し遠くを見ていた。五里さんは女性の態度から伝わる微妙な意思をくみ取ろうとはしない。
そんな五里さんを見て、作法や振る舞いをクラブの空気を吸収していると、女性キャストたちは笑顔で、丁寧に話しかけてくる。「どんなお酒がお好きですか?」と聞かれるたびに、「あ、なんでもいいです」と答える自分が情けなかった。その笑顔が本当に自分に向けられているのか、確信が持てなかった。心のどこかで、「ここにいる誰も僕には興味なんてない。ただ五里さんのお供で来ただけの凡人だ」と卑屈に考えてしまうのだ。
奥のVIPルーム
トイレに向かう途中、ふと目に入った奥のVIP席。そこでは、見覚えのある顔――隣の部署の沼袋営業部長が、女性を従えてしっぽり飲んでいる姿が見えた。いつも会社で見るときは、物静かで会議でも発言している様子を見たことが無い。そんな彼が、女性を横にデレデレで楽しんでいる。なぜ彼がこの店にいるのか。このお店は会社専用の行きつけの高級クラブなのか。すると背中から五里さんの声が聞こえた。
「沼袋さん!こちらにいらしたんですね。一緒に飲みましょう。」
「五里さん、ありがとうございます。今日は渚ちゃん出勤していないんですね。」
「残念ですね。ママ、沼袋さんの会計、こっちにまとめておいて。」
五里さんと沼袋さんは、クラブのキャストたちと慣れた様子で談笑している。
「会計を他部署の経費とまとめて済ませるなんて……。」その光景を見ながら、心の中で呟いた。「つまり本人はタダ酒を飲みに来ただけだ。自分で経費が切れないから五里さんに払ってもらってるんだ。」
高級クラブの女性キャストたちは、日々大企業の重役や芸能人、政治家、さらにはボンボンといった多種多様な「本物のお金持ち」を相手にしているだろう。そんな中、ただの一サラリーマンが同僚に経費を切ってもらい、タダ酒を飲みに来る姿を見て、その男の「価値」を見抜けないとでも思っているのだろうか。
それどころか、沼袋さんや五里さんは、女性キャストが自分に本気で惚れていると信じ込んでいる。女性たちにとっては、単なる「仕事」に過ぎないその振る舞いや笑顔を、「自分への特別な気持ち」だと勘違いしているのだ。その思い込みは、ある意味で驚くべき思考回路といえる。
目の前の悲喜劇と、スモーキーで濃厚なウイスキーの香り、そして「本当にこの会社でやっていけるのだろうか」という不安が入り混じり、かなり酔いが回った。終電を逃した後、家に帰る手段はタクシーしかなく、その料金は三万円もかかった。
社内ゴルフコンペと意思決定の不思議
僕の部署には、五里さんを筆頭に、流山さん、神田さん、そして僕の四人が所属している。ある日、社内のネットワークを広げるためのゴルフコンペが開催されることになり、僕は幹事を任された。
「流山さん、今回のゴルフコンペに出席されますか?」
「ゴルフコンペかぁ…。参加を検討することを、まず検討してみるよ。」
メールで案内を送ったが、返信がない人が多数を占めていた。その理由は大きく分けて三つある。
そもそもメールを読んでいない人。
メールを読んだけど意思を決められない人。
「参加しないなら返信しなくてもいいだろう」と勝手に結論付ける人。
メール送信後、僕は直接確認作戦を決行した。しかし問題が一つ――名前も顔もうろ覚えだ。席を探し、勇気を振り絞って話しかける。
「マサルさんでしょうか?先週お送りしました社内ゴルフコンペの件ですが、参加されますか?」
「あ、セールスの石橋君だよね?ゴルフの件、返信してなかったね。ごめんごめん!で、今誰が参加することになってるの?」
「五十人に案内を送ったんですが、まだ二名しか返信がなくて…。参加人数が少なくて困っています。」
「そうなんだ。それはちょっと悩むなぁ。でもさ、石橋君、ドラコン賞勝負しようよ!負けた方が19番ホール奢りね!」
「ははは…。僕、絶対負けますよ。」
日本人の場合、一度話しかけてしまえば、あとは何とかなることが多い。だが、そこから「参加」の意思を引き出すには手間がかかる。なぜなら、彼らはまず「他の人の様子」を見定めてから行動に移すのだ。お互いに「誰が参加するの?」を確認し合う結果、誰も意思を固めないという状況に陥る。
一方、韓国人となると別の壁がある。
「ハ、ハロー、カンさん?Did you check my email about the internal golf competition?」
「Yes! Yes! I've just replied to you. Are you a good golf player?」
簡単な英語でのやり取りにはなるが、言語が障壁になっている分、お互いに理解し合おうとする姿勢がある。そして、日本人のように周囲の様子を伺うことなく、興味があれば即決する。この違いに少し感心させられた。
五十人中、四十人の意思確認は完了した。しかし、未だ十人が未定のままだ。ゴルフ場に最終確定人数を伝える期限も迫り、最後の確認へ向かう。
「流山さん、社内ゴルフコンペですが、開催まで一週間を切りました。ゴルフ場にも最終確定人数を伝えたいのですが、検討の結果はいかがでしょうか?」
「そうだなぁ…。今回は検討してみることに決めたよ。」
「???」
どうやら流山さんは「検討してみる」ことをようやく決断してくれたらしい。「検討する」という行為自体が、彼にとって検討の対象に含まれていたようだ。そのなれない思考回路にどう対応したら良いのか戸惑いを覚えた。
ふとネットニュースを眺めていると、日本の首相が同じような言い回しをしている記事が目に留まった。「外国で戦争が起きているが、日本から自衛隊を派遣することを検討することを検討する。」まさかの一致。僕は心の中で呟いた。「流山さん、首相と同じレベルに達しているんだ。」僕みたいな単細胞にはたどり着けない極致に達している流山さんと自分を比較し、自分を恥じた。ただなぜか憧れる感情は湧きあがらなかった。
日本企業が意思決定をする際、過剰に周囲の企業の反応を気にする傾向がある。製品を提案しても、業界のパイオニア的存在のリーダー企業が採用していない限り、顧客は耳を傾けない。リーダー企業がプレスリリースで成功事例を発表し、それを時間をかけて吟味することで、ようやく「検討を始める」段階に至るのだ。
一方で、業界のリーダー企業側は全く異なる動きをする。彼らは自社のビジョンを明確にし、中長期の計画、現在解決すべき課題、必要な投資額、収益見込み、そして投資回収を迅速に分析して決断を下す。周囲の反応を見るのではなく、自社の企業遺伝子を理解し、数字と向き合う。周囲の反応を気にするときは他社を出し抜く時だ。
僕は自分自身の意思決定力を高める必要性を強く感じていた。そして、こう思い始めた――外資系企業で本当に大変なのは、外国人とのコミュニケーションではなく、日本人なのかもしれない、と。
福岡の新製品発表会
「来月の一日、福岡で新製品発表会をするから出張の準備をしておいてくれる?製品の発表も任せるよ。」
月曜の週次チームミーティングで、五里さんから唐突にそう言われた。その口調には普段とは違う重々しさがあった。「これは大事な仕事だ」と気を引き締めた。
初めて訪れる福岡の販売パートナーを一堂に集めての発表会。プレゼン資料の作成に取り掛かり、前日の夜遅くまで準備に追われた。全力を注いで臨むつもりだった。
発表会を二日後に控えたその日、会社に出勤すると五里さんの姿が見当たらない。隣のデスクは空っぽで、不審に思い同僚に尋ねると、
「ああ、五里さん?もう福岡に前乗りしてるよ。」
と、軽く言われた。
「え、今日は前々日。前乗りするなら明日じゃないのか?」
頭に疑問が浮かぶものの、「行動派の五里さんならなんだかんだうまくやりこなすだろう」と思った。
福岡、運命の金曜日
福岡には朝到着した。会場の準備に流山さん、神田さんと一緒に完成させた。発表会は14時開始。しかし、五里さんは一向に現れない。電話をかけても留守番電話につながるばかり。
「流山さん、神田さん、五里さんと最後に連絡したのはいつですか?」
「昨日の夕方だよ。福岡で緊急の案件対応中とのこと。神田さんは?」
「発表資料の最終確認のメールしたら『OK』の返信が昨日の夕方来たのが最後ですね。」
「これが大事なプレゼンだって言ってたのに、こんなことあり得るのか…。」
焦りと不安が胸を締めつける中、顧客たちの態度にも変化が現れる。最初は笑顔だった彼らの表情が次第に険しくなり、ついには苛立ちを隠せなくなった。顧客たちの視線が痛い。「もしこれが逆の立場なら、僕も不信感しか抱かないだろう」と自覚せざるを得なかった。
14時を過ぎた。会場のお客さんはしびれを切らし、怒りだす人も出てきた。何が起きているのか説明を求められる。「緊急の案件で少し到着が遅れています。」と場をつなぐ。時刻は15時になろうとしていた。場をつなぐにも限界がある。
そして15時を過ぎた頃――ようやく五里さんが姿を現した。その姿は衝撃的だった。
口元から血がにじみ、髪は乱れ、ヨレヨレの高級スーツ、靴には泥がこびりつき、まるで戦場から帰ってきたような様子だった。開口一番
「百円貸してくれる?」
この状況で、最初の言葉がそれなのか?耳を疑った。五里さん曰く、どうしてものどが渇いてジュースが飲みたいらしい。ただし、今の時代百円ではジュースは買えない。そして百円なら返さなくて良い。
五里さんの口から明かされた真相は、さらに驚愕だった。福岡に前乗りの前乗りした最初の夜、キャバクラでお気に入りの子を見つけ、二日連続でキャバクラに足を運び、45万円の請求を突きつけられたという。支払いを拒否すると、反社の男たちに囲まれ、倉庫に軟禁されたという。
さらに、愛用のROLEXの腕時計も取り上げられ、支払うまで解放されなかったという。ようやく支払いを済ませた彼は、命からがら無一文の状態で走り抜き会場に辿り着いたのだった。
「お前も大変だったろうけど、俺も地獄だったよ。」
五里さんは疲れた笑顔を見せながら言った。しかし、僕は心の中で思った。
「僕が逆の立場だったら、その笑いさえ出てこないだろう。」
五里さんは、その後プレゼンを開始した。人前で発表するのは妙にうまい。ただ今日の外見は滅茶苦茶だ。新製品発表会を済ませた後、お客さんを連れてキャバクラに行っていた。
東麻布のオーダースーツ屋
久しぶりに郡司さんとランチを食べに再会した。郡司さんはセールスとして別部署に所属していて、僕がこの会社で転職した最初の三か月だけ一緒に働いた仲だ。何も知らない僕に、業界の全体像や、この会社の特殊な文化について教えてもらった。ランチ時にいつも「鮨 直吉」でお寿司を食べに行き、前職で毎日おにぎりだった僕は大人になった気分だった。郡司さんは今は転職し、ギリシャ資本の船舶向け通信会社の東京支社で法人営業をしている。
「外資系ってどこもこんな感じなんですかね?常軌を逸し過ぎていて、ついていけないです。」
「会社にもよるけど、もう外国って思った方がいいよ。我々日本人が日本社会の中で勝手に作り上げた『普通』なんて、海外じゃ全然普通じゃないって認識した方が楽になる。」
たしかに。その思考で働いた方がしっくりくる。本質を突くその発言に少しだけ気持ちが楽になった気がした。
会話が進むうち、郡司さんが提案してきた。
「今夜東麻布にあるオーダースーツ店に行くんだけど、一緒に行く?」
「いや、今の僕の状態でスーツなんて…。仕事もできないくせに格好だけつけてるって周りに思われそうで。」
自己評価の低さと周囲の目を過剰に気にする姿勢がにじみ出た。
「毎週月曜の営業会議で先週の実績を報告するんですけど、そんなバシッとしたスーツ着て会議室に入ることできないです。不相応で絶対滑ってますよ。僕が今勤めているような港区の外資系企業を生き抜くのにオーダースーツなんていらないと思います。」
「じゃあ、社会科見学だけしに行こうか。」
自信の前借り
東麻布は静かな住宅街のような場所で、東京タワーが真っ赤にライトアップされ、まるで「よう田舎者良く来たな」と見下ろされている気分になる。隠れ家的なお店に着くと、お洒落なテイラーに迎え入れらた。テイラーがフォーマルからビジネスカジュアルまでの多彩な選択肢を丁寧に説明してくれた。
雑誌の中にはイギリス紳士のようにハットを着こなしたモデルや、イタリア風にシャツのボタンを第三釦まで外して胸元を見せたイケオジモデルの写真が並ぶ。
「これで会社なんて行けるわけないだろ。」
僕はは半ば呆れながら、それでも真剣に話を聞き続けた。
テイラーは落ち着いた声で説明を続ける。
「このイギリス紳士やイタリアのモデルたちは、あくまでファッション目的なので、参考にしなくても大丈夫ですよ。スーツは、自分をどう見せたいか、相手にどんな印象を与えたいかを戦略的にマネジメントする道具です。例えばネイビーのスーツに白い無地のシャツ、シルクのネイビーのネクタイなら謙虚で信頼感あるイメージを演出できます。自分のためのお洒落ではなく、出会う人に対する配慮です。」
「出会う人に対する配慮」スーツに対してそんな観点は持ち合わせていなかった。自分が何色のスーツを着るか、どんな生地でスーツを着こなすかで、相手にどういう印象を持ってもらえるかなど考えたことが無かった。そういう意味だと銀座の高級クラブに、喪服としても使っているブラックスーツでお店に入ったのは相手に対する配慮なんてゼロだ。そもそも故人を哀悼するときに着る服と、仕事でお客さんに会うときに着る服が同じっていう僕の習慣は間違っている、と思えた。
「私は今日、このロロ・ピアーナのネイビーの生地でスーツをつくるよ。」
郡司さんはそう言い、テイラーに体の寸法を測ってもらい始めた。
「僕はやっぱり、勘違い野郎って思われそうで、勇気が出ないです。」
すると郡司さんは少し真剣な表情で語り始めた。
「発想が逆だと思うよ。まず先に理想の自分に成り切るんだ。その後に実績を自分に追いつかせる。それでいいんだよ。」
郡司さんはさらに言葉を続ける。
「スーツを着ることで、もう実績を出せる自分になったって思い込めばいい。あとは、その実績を追いつかせるだけだ。今の自分がいて、その延長線上で理想の自分になれるわけじゃない。今成り切って、【自信を前借り】するんだ。前借りした自信で仕事のパフォーマンスを上げて、年収を上げちゃうんだ。欲しいものが買えるお金が今手元にないから、銀行から5%の利子で借りて、その【前借りしたお金】で10%の利回りを上げる。借りた方が得じゃん。」
その言葉に胸を打たれた。これまでの自分は、足りない部分を埋めることばかり考えていた。でも、ゴールを先に決めて成り切るって発想は、まったく違う。
ゼニアの生地を触り、思い出した。あの銀座の高級クラブに入った時、ネットニュースで見たことのあるベンチャー企業の社長が華やかなスーツを着ていた。仕事がデキるオーラが満載だった、そしてカッコよかった。あの雰囲気を今度は僕が出せるのか。もちろんスーツだけで出せる問題ではないが。それでも郡司さんの言葉を信じ、思い切ってゼニアのスーツを仕立てることを決意した。
「このスーツを着て、少しでも変わった自分を見せたい。」
鏡に映る自分の姿を見つめながら、小さな一歩を踏み出した。その瞬間、芽生えたのは、新しい自分への期待と決意だった。
客先での名刺交換
隣の部署で、一日中営業電話をかけまくる韓国人のセールスがいる。その名もチャンさん。僕は毎日仕事が不安でいつクビになるのかわからないと日々苛まれ、家にいても落ち着かないので、毎朝会社に早く到着して仕事をするようになった。
ある朝、出社すると、チャンさんがすでにデスクに座り、怒涛の勢いで電話をかけていた。時刻は朝8時。彼の口から飛び出すのは、
「先日お送りしたメールの件です。また社長さんお願いできますか?」
一方的に送ったメールを担保に、まるで以前会ったかのような口ぶりで社長を引っ張り出す。呆然とするしかなかった。電話のほとんどは門前払い。だが、その98%の拒絶を物ともせず、残りの2%で確実に社長へのアポイントを取る。
時には電話口から怒鳴り声が聞こえ、チャンさんも応じて口論になることもある。それでも彼は止まらない。朝から晩まで、静まり返ったオフィスに彼の電話の声が響き続けた。
「普通の日本人なら、こんな無謀なことはできないよな。あ、『普通』とかこの会社でいらないや。」
そう呟きながらも、チャンさんの根性には感服せざるを得なかった。そして同時に、自分には絶対真似できないその行動力に、どこか羨望の眼差しを向けていた。
そんなチャンさんがある日突然、僕に言い放った。
「石橋さんのお客さんとの商談に同行させてください!」
いつも一日中営業電話をしてる彼の努力を知っているからこそ、自分の仕事の状況を棚に上げ、どこか同情の気持ちもあった。ただ名刺交換だけをして簡単な情報交換するということを条件に、同行を許可した。
顧客に連絡したところ、ちょうど顧客も新サービスを発売するため、サービス紹介を聞いてほしいとのことだったので、次の週に顧客の会社まで訪問することが確定した。
商談当日、待合室で待ち、会議室に通された。チャンさんのアグレッシブさが空回りしないようにフォローできるところはフォローしようと心がけた。お客さんが部屋に入ってきて、僕とチャンさんは椅子から立ち上がり、名刺交換をしようとした。チャンさんは突然、
「本日はよろしくお願いします!」
と言い、僕に名刺を差し出した。
「!!!」
なぜ僕に!?異様な空気になり、顧客も混乱している。しかしなんとか場を繋ぎ、商談を進めた。チャンさんは顧客が新サービスの話をしている最中、
「それ、うちの製品と組み合わせることできます!」
何回もアピールを連発する。顧客は微妙な笑顔を浮かべ、僕は必死にフォローし続けた。
商談後、顧客からは案の定、
「石橋さん、彼は一体何者なの?」
と問いかけられる始末。
「すみません、社内のちょっと複雑な事情がありまして…。本日はご迷惑をおかけしました。」
顧客は苦笑しながら答えた。
「御社もいろいろ大変だねぇ。」
営業会議のカオス
商談を終え会社に戻る道中、自分の営業実績を考えると不安に襲われた。福岡の販売パートナーが頑張ってくれて百台、北海道の販売パートナーが大規模キャンペーンを打ったことで二百台売れた。そしてほかの地域でポツポツ売れたので四百台弱。今月のノルマ千台に対してまだ40%。クビになる日もそう遠くはないと気分が落ち込んでしまう。
会社に到着し、夕方の営業会議に参加した。同じチームの神田さんがパワポで先週の営業状況を報告していた。スライドには、急角度で上昇したグラフが600%アップという文字とともに表示されている。
「600%?すごい成長率だ!やはり神田さんのように努力を継続するとこうやって花を咲かせる時が来るんだ。神田さん良かったな。」と思った。よく見るとグラフの隅に小さく書かれた文字が目に入った。
「販売台数:1台→6台」
ちょっと待て。この台数は本当か?チャートだけ見たらまさか台数がたった6台なんて誰も想像しないだろう。
そこへデスクを叩きながら怒鳴りながら経営コンサルが割り込む。
「おい!六〇〇%とか言ってるけどよ、全体の売上げ見たら全然足りねぇんだよ!」
その勢いに神田さんはたじたじだ。
さすがに経営コンサルだ。伸び率だけで騙されない。重要なのは売り上げだ。
「今週は何店舗顧客訪問するつもりなんだ?」
神田さんはおずおずと答えた。
「三社です…。」
「バカ野郎!ふざけんじゃねぇ!何が三店舗だよ!」
怒りがヒートアップする。
「お前五里さんに今週何店舗訪問するのか聞いてみろ。」
「五里さん、今週は何店舗訪問される予定でしょうか?」
「28店舗です。」
嘘つくな。物理的に回れなくないか。店舗の目の前通ったのをカウントしてるのではないか。何度も五里さんと一日中同行したことあるが、一日4店舗以上回ったことはない。「実態調査」という名は、もしかしたら店舗が物理的に存在しているかどうか、店舗前で眺めて確認する行為だったのかもしれない。一度も議事録読んだことない理由もそれなら辻褄が合いそうだ。それなら議事録は必要ない。もし店舗が物理的に消滅してたら逆に議事録どころではない。よってその場合も議事録は無い。
翌日、神田さんは請求書を届けに行くということで、出社してそうそう販売パートナーへ向かった。
請求書は郵送で済むのでは?と思ったが、謝罪か何かの理由で直接届ける必要があるのかもしれない。深くは聞かなかった。
神田さんは僕に一つ頼み事をしてきた。
「今日11時からのお客さんへの支払いの承認可否を決める会議、私の代わりに出てくれない?事前承認は全部終わってるから、形式上承認もらうだけだから簡単だよ。」
「え、内容が全然わからないんですけど。」
「大丈夫!事前承認もらってて、言うだけだから。」
渋々了承し神田さんは会社を出た。
会議前、資料に目を通すと、なんと申請の対象期間が去年の西暦だった。神田さんに連絡した。
「西暦が昨年になっているので、今年に修正しておきますね。」
「それでいいんだよ!そのままで大丈夫!」
雲行きが怪しくなってきた。
会議がはじまった。神田さんの申請を代理で読み上げる僕に、節約思考の財務部長、金さんが、冷たくこう言い放った。
「この申請、何度目ですか?三回目ですよね。しかも添付資料が足りない。そもそも昨年の費用の承認は対応できません。」
どこが承認確定なんだ。急いで神田さんに電話したが電話に出ない。結局申請は却下となった。
夕方になり、神田さんが戻ってきた。
「いや~、請求書届けるのに手こずっちゃった。」
「え、歩いて十分の距離ですよね?」
「誰に渡せばいいのかも分からなくてさ。参った参った。」
外資系企業勤務と聞くと、バリバリのエリートビジネスパーソンが外国語を駆使し、データを駆使し、格好良くプレゼンをしているイメージがつきまとう。しかし外資系企業と言っても、アメリカ資本、フランス資本、シンガポール資本、韓国資本など様々あり一括りにまとめることはできない。そんな中企業が人材を欲しがるタイミング、転職する人のタイミング、売り手市場か買い手市場かなど様々な要因が一致し、採用が決まる。時にびっくりするような人材がその会社で働いていることもある。僕は自分がこの外資系企業に働くに値する人材なのかどうか、今だに自信がない。それでも採用されたからには、問題が発生したら逃げずに向き合い、顧客が喜ぶような形で問題が解決をするよう動いている。
その後、神田さんは会社を去り転職した。幼いころから憧れていたひよこの雄と雌を見分ける仕事専門の派遣会社だという。その後電話が着てエクセルのセル幅を広げる方法を教えてもらいために新幹線で東京に来ると聞いた。もし神田さんからその話題に触れてこなかったら、二人でとことん飲み潰れるつもりだ。
五里さんの投資
いつもの通り銀座のクラブ YURIAへ行き、五里さんはお気に入りの渚と楽しんでいる。いつも華やかな客層だが、今日はコワモテな男性客が目立つ。会計をしようとした。するとママが五里さんに詰め寄っている。
「今日は支払ってくれないと駄目よ。」
「大丈夫、大丈夫。次回は払うからさ。」
「大丈夫ってあなたが言うことじゃないわ。もうツケは六〇〇万を超えてるのよ。今日は百万だけでいいから払ってもらわないと帰せない。」
どうやら五里さんはツケをしてまで飲みに来ていたらしい。そしてツケが六〇〇万とのこと。
するとカウンターに座っていたコワモテな男がこちらに詰め寄ってきた。
「おい、おっさん!ツケで飲んでバックれた上に、金ないクセして女口説きながら飲む酒、そんなにうまいんかい?ママがどんだけ我慢しとるか、わかっとんのか?ホンマ、想像力のカケラもあらへんなぁ。お前、ホンマにサラリーマンか?ちゃうやろ、特殊詐欺でもやっとるんちゃうか?」
これはまずい状況になった。カウンターで飲んでいたコワモテの人達はママとつながっている人だ。五里さんどうするんだ?
「わかった、じゃあ今日は財布にあるだけ払う。次回持ってくるから。ちょっと待ってくれ。」
そう良い、財布の中から八千円だけ払い、なんとか有耶無耶にごまかし急いで店を出た。
「五里さん、ツケの件大丈夫なんですか?」
「なぁに、ママだって本気で怒っているわけじゃないよ。この店は俺が育てたようなもんなんだから。最初は新橋の端っこにおんぼろのクラブからスタートして、今じゃ銀座の高級クラブだ。どれだけ俺が投資したと思ってるんだ。大丈夫だよ。」
絶対本気で怒ってると思う。後日、五里さんは性懲りもなくYURIAに飲みに行った。その後僕にこう言った。
「話をつけてきた。ママは銀座のクラブとは別に六本木にキャバクラのアフターで使えるダーツバーを開きたいらしい。その資本金の一部を私が支払うことにした。これから会社の経費で毎月五〇万飲みに行く。そのお金で年六〇〇万。そうすることで落ち着いたよ。」
滅茶苦茶だ。会社の経費をクラブの新店の資本金に充てるなんて。それに毎月五〇万飲みにいったら、どうせその五〇万円分は飲み代として扱われるから、きっと資本金として充てられないだろう。つまり五里さんはカモ扱いされてるんだ。五里さんは「自分が育てたお店」と思っているがママからしたら数ある金を引っ張れる都合の良い客だ。さすがに情けなさすぎる。そしてそもそも違法じゃないのか。
五里さんの思考が逸脱し過ぎてて僕には理解が追い付かない。今日も五里さんはいつものように店舗の実態調査ということで15時にはオフィスから出て戻ってこない。僕は終電前までアポを入れ、資料をまとめ終えると夜中の2時だった。疲れて体が動かなく、近くに見つけたガールズバーで場所代として女の子の分もドリンクを注文し、そのままカウンターで眠りについた。
五里さんの上司、山谷さん
この日は五里さんの上司、山谷さんの誕生日ということで、新橋のこぢんまりした裏路地にある老舗クラブに入った。そこには山谷さんが言うところの「少数精鋭のエリート営業部隊」が集まっていた。
第一営業部長の山谷さん、第二営業部長の五里さん、流山さん、第三営業部長の沼袋さん、転職エージェントの城市(きいち)さんが参加していた。
城市さんと初めての対面で挨拶をすませるとこういった。
「年収を1.5倍や2倍にして転職した実績がゴロゴロあります。石橋さんのような優秀な方であれば、年収アップして転職できることは私が保証します。」
五里さんがいる手前、
「あぁ、そうですか。」
としか言えなかった。
日本酒、ワイン、そしてマッコリまで取り混ぜて飲んだ。久しぶりに重度に酔っぱらった。僕の胃袋は限界を迎えていた。チャンポン状態で、猛烈に気持ち悪くなった。山谷さんはこの誕生日会で何度か同じセリフを言った。
「そろそろ本気出すか。」
「業界をひっくり返す。」
「俺はあの大手企業から社長として来てくれってお願いされている。」
わかったわかった。頑張ってくれ。
山谷さんはすでにかなり酔っ払っていて、五里さんに向かって怒鳴り始めた。
「お前、久しぶりに顔出すっていうから言おうと思ってたんだけどよぉ、誰の許可を得て新橋で飲んでるんだ?今日は特別に許可してやってるんだぞ。新橋は俺の縄張りだ!」
五里さんは直立不動で腰を90度に曲げて謝っている。
「大変申し訳ございません!」
これは僕を笑わせるための茶番なのか、それとも本当に真剣なやり取りなのか、まったく判断がつかなかった。ただ、その場にいる間ずっと、「自分がなぜここにいるのか」という疑問が頭の中をぐるぐる回っていた。
酔いがピークになり気持ち悪くなって、慌てて店の外に飛び出した。路地裏のゴミ袋の山の隣で、思い切りゲロを吐いてしまった。胃の中のものを全部ぶちまけたあと、ふと気がついた。
ゼニアのスーツがゲロまみれだった。
心配した沼袋さんが地上まで上がってきた。スーツを脱ぎ、たばこをもらい、人目もはばからず路上で火をつけ、たばこを吸った。意識が朦朧として、頭がくらくらする。たばこの先端がスーツにつき、スーツに穴が開いた。
これでいいのだ。スーツは綺麗に着るために存在するものじゃない。汚れることを恐れて行動が小さくなり、仕事のパフォーマンスが落ちるくらいなら、そんなスーツに意味はない。スーツは戦闘服だ。戦場に出て傷ついてこそ、その価値がある。
新規開拓で自分から毎日百社メールでアプローチして、無視され、冷たい対応をされ、三割返信がくる。そのうち三割打合せをする。そこから三割が受注できる。果実を手に入れるには、無駄打ちが必要なのだ。無駄うちで汚れまくるんだ。無駄打ちをぞんざいに扱われていちいちネガティブになっていたら身が持たない。
相手が挨拶返してくれないかもしれないからはじめから挨拶しない、ではない。挨拶なんてそもそも無視されるのだ。人に優しくしようが一定の確率で利用されるんだ。確率の問題だ。いちいちネガティブに考える必要なんてない。
常にリアクティブな人間にはこのロジックがわからない。自分から声をかけるのだ。自分から提案する。自分からアクションをできるやつが先行者利益を得る。汚れることに耐えられない無駄にプライドが高い奴はどんどん選択肢が狭くなる。気が付くと社内で誰からも相手にされなくなり、会社を辞めていく。小奇麗なまま仕事をし、特に特徴のない量産型ビジネスパーソンになるのだ。
ゼニアのスーツがゲロまみれで、たばこの穴が開いて、これでいいんだ。果実を得るための必要な過程だ。大切なのはその過程で何を成し遂げたかだ。お金を稼いで、自分の実績を積み上げて、人間関係に悩みながらも三歩進んで二歩戻る。そうやって前に進む。実績が増えれば給料も上がる。年収も上がる。それがこの世界での「正解」だ。
気が付いたらもう僕はタクシーに乗っていた。
「お客さん!車内では吐かないでよ!汚したら弁償してもらうよ!」
タクシー料金は相変わらず三万かかり夜中の三時に帰宅した。
ネガティブを共有する勇気
「あのチャンさんという人はどうも嘘をつくんですよ。」
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